第2章:新生活

第5話

 真理は部屋に置かれたベッドや段ボールの山に囲まれ一息ついた。


 新居に運び込んだ荷物の荷ほどきは、明日でもいいだろう。


 ひとまずは着ていく服と、化粧用具をはじめとした日用品があれば困らない。


 時刻はお昼過ぎ。スマホを確認した真理は、一階の喫茶店を目指して部屋を出た。



 カランコロンとドアベルを鳴らし、店内に真理が入る。


 カウンターの中から拓海が笑顔で真理を迎えた。


「引っ越し、終わった?」


「ええ、おかげさまで。

 でもいいのかしら、ゴミの処分まで頼んじゃって」


 拓海がコーヒーを淹れる準備をしながら応える。


「オーナーのやりたいようにやらせてあげて。

 ――コーヒー、何を飲みたい?」


 真理がフッと笑って告げる。


「じゃあブレンド頂戴。

 それと、お昼ご飯になりそうなものをお願い」


「かしこまり。ちょっと待っててね」


 カウンター席に座った真理が、コーヒーを淹れていく拓海を見つめた。


 幼い仕草は特にみられず、年相応の青年に見える。


 誠実そうなところは、元カレと大違いだ。


 一人のバリスタとして、輝いて見えていた。


 拓海がコーヒーを真理の前に置く。


「ちょっと厨房に行くね。

 お客さんが来たら教えて」


 カウンターの奥に消えていく拓海の背中を、真理はコーヒーを口にしながら見送った。


 いつか自分もああして、コーヒーを淹れるのだろうか。


 そんな思いを抱きながら、ブレンドを味わっていく。


 店内のジャズの音色に身を委ねながら、ゆったりとした時間を味わった。


 間もなく香ばしい香りと共に、拓海が戻ってくる。


 トレーに乗せられたドリアを、コトリと真理の前に置いた。


「チキンドリア、熱いから気をつけて」


 うなずいた真理は、フォークを手に取り、ドリアを口に運んだ。





****


 すっかり腹が膨れた真理が、拓海に告げる。


「私のシフト、いつから?」


「書類は出してもらったし、明日からかな。

 荷ほどきが忙しいようなら、何日か待っても良いよ。

 休日が少ないから、今のうちに済ませた方がいい」


「そう? じゃあお言葉に甘えて、今週はそうさせてもらおうかしら」


「わかった。それでいいよ。

 来週月曜日の朝、九時に店にきて。

 店が閉まってるようなら、スマホで叩き起こしてくれる?」


 真理がクスクスと笑いながら応える。


「寝坊助なの? それでよくマスターが務まるわね」


「立派にマスターをやっているよ。

 時々アラームが仕事をさぼって、僕を起こし損ねるだけさ」


 笑いあったあと、真理が尋ねる。


「この辺にスポーツジムってあるかしら」


「それなら三階がそうだよ。

 オーナーに言えば、身内割引してくれると思う。

 あとでオーナーに言っておくよ」


「そう、よろしくね」


 コーヒーも飲み終わった真理が「会計、お願い」と告げる。


 拓海がレジカウンターに入り会計を済ませると、真理は店を出て、ふらりと山下公園を目指した。





****


 金曜日の山下公園は、観光客がぽつぽつといるくらいだ。


 穏やかな光景をベンチに座り、真理は眺めていた。


 師岡座が真理の短い髪を揺らす。


 ほんの少し前は失意の底で眺めた景色。


 今では新しい環境で、わずかに胸躍る自分を自覚していた。


 ――人間って不思議なものね。


 気分次第で、見ている景色がまるで違って感じる。


 あのとき世界は、真理を置いてけぼりにしていたようだった。


 だが今の真理は、世界の中で生きている気がする。


 自分がどれほど疲れ切っていたのかを、ようやく真理は実感していた。


 ――オーナーに感謝、しないとかな。


 真理はベンチから立ち上がると、欄干に向かってゆっくりと歩いて行った。



 欄干越しに見える、横浜の海。


 潮の香りと、足元から聞こえてくる波打ちの音。


 遠くで行きかう船、ベイブリッジやランドマークタワー。


 横浜にいるんだと感じられる場所だ。


 前の住居は横浜の端にあった。


 『横浜』とは名ばかりの、いわゆる田舎だ。


 穏やかでのどかな土地だったが、これと言って目新しいものもない、そんな街。


 そこからまさか、こんな場所に住むことになるとは思っていなかった。


 優美は『腰掛くらいなら養ってやる』と言っていた。


 ――ずっと住みたいって言ったら、さすがに怒るかしら。


 さすがに虫が良すぎるかと、フッと笑って真理は踵を返した。





****


 荷ほどきを終えた真理がスマホで時間を確認する――午後九時。


 もう喫茶店は閉まっている時間だ。


 ――しまった、晩御飯はどうしようかな。


 真理はこの辺りの地理に詳しくない。


 迷った末、スマホから拓海の番号を呼び出してコールした。


『――はい、拓海だけど』


「あ、マスター? 悪いんだけど、食事ができる場所を教えてくれる?

 コンビニでもいいんだけど」


『コンビニならすぐ近くにあるよ。

 案内するから、エレベーターの前で待ってて』


「わかった、お願いね」


 通話を切った真理は、鏡をチェックしてから立ち上がった。


 ジャケットを羽織り、バッグを肩にかける。


 財布をバッグに入れると、真理はカードキーを持ってドアの外に出た。





****


 エレベーターホールでは、拓海がすでに真理を待っていた。


「悪いわね、急に呼び出して」


「気にしないで。暇してたし」


 二人でエレベーターに乗りこみ、一階に降りていく。


 真理が拓海に尋ねる。


「マスター、食事はどうしたの?」


「部屋で自炊だよ。

 その方が安上がりだし」


 言われてみれば、喫茶店ではメニューを調理している拓海だ。


 料理ができない訳がないと真理は気が付いた。


「偉いわね、料理ができるなんて」


「そうかな? 村上さんだってできるでしょ?」


 真理は恥ずかしくなって目をそらした。


「……料理は簡単なものしかできないのよ」


 拓海が笑みをこぼして告げる。


「じゃあ今度、教えてあげようか?」


「そうね、機会があったらお願いするわ」


 エレベーターを降り、二人で暗い夜道を歩く。


 暗いと言ってもこの辺りは、街灯が整備されている。


 地元との違いを感じ取りながら、真理は隣の拓海を盗み見た。


 顔は綺麗で、誠実そうで、料理ができて、そしてフリー。


 ――これは案外、好物件なのでは?


 フリーになって二年、人肌が恋しくないと言えば嘘になる。


 真理の口が、思わず拓海に告げる。


「ねぇマスター、あなたお酒は飲める?」


「――僕かい? それなりには飲めるけど」


 言ってしまってから、真理は迷った。


 迷った末に、真理が告げる。


「コンビニでお酒も仕入れて、ちょっと一緒に飲まない?」


 きょとんとした拓海が、真理を見つめて微笑んだ。


「……いいよ、飲む場所は喫茶店でいいかな。

 まだお互い、部屋に上げるような関係でもないし」


 黙ってうなずいた真理を見て、拓海は歩きだした。


 真理は少しの恥ずかしさを心に押し隠しながら、その背中を追いかけた。





****


 拓海が『カフェ・ド・アルエット』の鍵を開け、店内に入る。


 電気がついてから、真理もおずおずと店内に入る。


 綺麗に清掃が済んだ店内を見回しながら、真理はカウンターに座った。


 拓海がコンビニ袋を掲げて告げる。


「お弁当、あたためちゃうね。

 ――あ、お酒は先に置いておこうか」


 袋から缶ビールを取り出した拓海が、それをカウンターに並べていった。


 弁当を温めに調理場に向かう拓海を見やりながら、真理は考える。


 ――部屋に誘わないあたり、充分に合格点ね。


 下心はどうやらなさそうだ。


 ここなら外から見える場所、襲われることもないだろう。


 真理は安心して、一つ目の缶ビールの栓を開けた。

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