第3話

 喫茶店のカウンターでカップを拭く拓海が、カウンターに座る優美に告げる。


「ちょっと強引過ぎないかな」


「あれぐらいでいいんじゃよ。

 『誰かに決めてもらう』のが一番楽じゃからな。

 『それでも嫌』なら、自分で言ってくるじゃろ。

 それを考える時間も与えておる」


 静かにコーヒーを飲む優美を見て、拓海がため息をついた。


「オーナー、僕を雇う時も強引じゃなかった?」


「お前が就職先を決められんかったからじゃろう?

 泰介の跡を素直に継げばよいものを、なにを迷うておったのか」


 拓海がうつむき気味に応える。


「だってあの頃は、まだ大卒二年目だったし」


「フリーターをしておっただけじゃろ?

 何を高望みをしておったのか」


 拓海には夢があったわけではない。


 ただ『何かをやりたい』という思いがあった。


 『何者かになりたい』という、若者特有の願望だ。


 漠然とした未来像を、手探りで探していた時期だった。


 父親が急死し、優美が拓海に『店を継げ』と持ち掛けた。


 バリスタのスクールに通わせてもらい、その費用も優美が出した。


 一年後には店を受け継ぎ、拓海がマスターとして店を開いた。


 以来三年間、拓海はこうしてカウンターの中でコーヒーを淹れている。


 これで良かったのか、それは拓海にも自信がなかった。


 それでも客の安らぐ顔を見て、『良かったのかもしれない』と思い始めていた。


 優美が拓海に告げる。


「拓海、エッグタルトじゃ。はよう出せ」


「――はい!」


 ぼんやりしていた拓海が我に返り、冷蔵庫に小走りで駆け寄って行った。





****


 真理は部屋で座り込んだまま、ぼんやりと考えこんでいた。


 家賃五万――今よりかなり安い。


 部屋も今の狭い部屋より、ずっと条件が良い。


 防犯も充分で、文句なんてつけようもなかった。


 優美はどうやら、引っ越し費用も持つつもりらしい。


 それなら今の懐事情でも、応じることはできるだろう。


「だけど、座敷童かぁ……」


 初めて出会った『あやかし』という存在に、真理は困惑していた。


 生きた人間と変わらない『それ』は、自分が座敷童だと名乗った。


 古風な言葉遣い、幼い外見でこちらを見通してくる言動。


 さらにはビルのオーナーで、喫茶店も経営している。


 『あやかし』なんてものが仮想通過にまで手を出している。訳が分からなかった。


 ――だけど。


 心機一転を図るには、丁度良い機会にも思えた。


 元カレとの思い出がある部屋と縁を切り、新しい部屋と新しい職場で人生をやり直す。


 家賃がこの価格なら、貯金もしやすいだろう。


 資金を蓄えて、好きな所に引っ越しすればいい。


 三十まであと二年。それまでに次のキャリアを見つけなければ。


 ――バリスタ、なんてものも悪くないのかな。


 ふと頭をよぎった思いに自分で驚き、頭を振って追い払った。


 ため息をついた真理は、ゆっくりと立ち上がって鞄を手にした。





****


 真理がシャアハウスの管理人窓口脇にあるインターホンを押す。


『――はい』


「さきほどの者ですけど、カードキーの返却を」


『それはオーナーが”喫茶店まで持って来い”と言ってましたよ』


 優美がどういうつもりなのか、一瞬迷った真理がインターホンに告げる。


「わかりました」


 真理はエレベーターに乗りこむと、一階のボタンを押して、ドアが閉まるのを見届けた。


 静かにエレベーターが降りるのを感じながら、真理は思う。


 この際、利用できる厚意は全部利用してやろう。


 なりふり構わず這い上がって、人生の再スタートを切ってやる!


 カードキーを握りしめながら、開いたエレベータードアから真理は一歩を踏み出した。





****


 喫茶店のドアベルを軽やかにならしながら、真理が店内に戻ってきた。


 カウンターにいる優美を見定めると、真理がそこに近づいて行く。


 真理の顔を見た優美が、にたりと笑った。


「決心がついたか?」


「ええ、でも本当に五万でいいのね?」


「構わんよ? 契約更新は二年に一回じゃ。

 敷金礼金、全部不要。清掃費用はもらうがな」


「引っ越し費用は?」


「今のおんしに、そんな手持ちはあるまい?

 もちろん儂が持ってやるとも。

 伝手の業者に単身用おまかせコースで構わんな?

 連絡先を教えるが良い。そこに電話をかけさせよう」


 優美が取り出した紙ナプキンとボールペンを、真理は見つめた。


 一呼吸を置いてそれを受け取り、スマホの番号を記していく。


「――はい、これでいい?」


「ああ、もちろんだとも。

 ぼちぼち閉店の時間じゃの。

 店を閉めたら、拓海と一緒にレストランに移動するぞ」


 拓海がカウンターの中から真理に告げる。


「ごめんね村上さん、オーナーが強引で」


 真理は首を横に振って応える。


「構わないわ。こんな美味しい条件なら、こちらからお願いしたいくらいよ」


 優美の横の席に座った真理が、拓海に告げる。


「コーヒー――マンデリン、だっけ? あれもらえる?」


 拓海がニコリと微笑んだ。


「喜んで、村上さん」


 お湯を沸かし、コーヒーミルを静かに挽く拓海の姿を見ながら、真理はカウンターに頬杖をついた。


「妖怪なんて、本当に居るのね」


 優美がクスクスと笑いながら応える。


「そこは『あやかし』と呼んで欲しいところじゃの。

 おんしらが知らんだけで、世の中は『あやかし』に溢れておるぞ?」


 思わず真理が優美に振り返った。


「……そうなの?」


「『混じり』を加えたら、石を投げれば当たる程度じゃ。

 特にこの街みたいな場所はな」


 真理はため息をつきながら告げる。


「全然、知らなかったわ……」


「教えとらんからの。

 ばれると面倒ゆえ、隠して暮らしておる。

 己が『そう』と知らずに生きる者も多いぞ?」


 真理の前にコーヒーの入ったカップが置かれた。


 自分の知らない世界の真実――そんなものを知らされた気分だった。


 コーヒーの香りを鼻に届けながら、真理は小さく息をついてコーヒーを口にした。





****


 午後五時になり、拓海が外の看板をしまい、閉店処理を進めていく。


 優美が拓海に告げる。


「清掃は明日にせい。車で移動するぞ」


「はいはい、わかったよオーナー」


 拓海はエプロンを脱ぎながらスタッフルームに消えた。


 拓海を目で追いながら、真理が尋ねる。


「車があるの?」


「拓海が運転できる。

 地下が駐車場でな? これも良い稼ぎになる」


 真理が思い出してカードキーを優美に差し出した。


「これ、お返しするわね」


 優美がきょとんとした顔でカードキーを見つめた。


「なんじゃ、話を断るつもりか?」


「そうじゃないけど、まだ契約してないし」


「構うことはない。おんしが持っておけ。

 引っ越しはマスターキーで済ませるゆえ、気にするな」


 着替え終わった拓海がスタッフルームから出てきた。


 ジーンズに長袖の開襟シャツ、ネイビーのジャケット羽織っている。


 真理がふと気づけば、拓海の耳にはピアスが光っていた。


「あなた、ピアスなんてしてた?」


 拓海が耳を触りながら、気恥ずかしそうに応える。


「仕事中は外してるんだ。ほら、軽薄に見えるでしょ」


 優美が拓海の尻を手で叩いて告げる。


「おしゃべりは後にせい。

 道が混む前に移動するぞ」


「はいはい。

 ――店の前で待ってて、車を回してくるから」


 三人で喫茶店から出ると、拓海はビルの裏手に回っていった。


 真理と優美が閉店した喫茶店の前で待っていると、間もなく一台のセダンが止まる。


 助手席越しに顔を出した拓海が告げる。


「後ろに乗って。いつものイタリアンでいい?」


 優美がうなずき、後部座席を開けて乗りこんだ。


 真理もそれに続いて、車に乗りこむ。


 ドアが閉まると、ゆっくりと車が走り出す。


 暗くなった横浜の大通りを、車はテールランプを光らせながら目的地に向かった。

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