第五話 アトリエのあたたかな暗がり

 アトリエは中庭にある、使われなくなった使用人の住処を改造したものだ。数年前からテルが自分の手で色々手を入れた。父のロドヴィコは「貴族が大工の真似事など」と小言を言っていたが、テルは聞き流した。今では、彼だけの城となっている。

 ドアを開けて入ると、もちろん、誰もいない寒々しい沈黙がある。真っ黒な窓から、さらに真っ黒な影が見える。大時計塔の非人間的なまでに巨大な姿だ。貴族の屋敷はみんな時計塔の周りに立っている、だから、貧民街や中心街の外側からの景色と比べても、その巨大さを意識しやすい。もはや壁のように大きな姿は、窓の外の風景を占有している。すっかり更けた夜の、その中でさらに深淵のように暗い、異質すぎる存在。しかしこの街で育ったテルには見慣れた光景だ。テルが魔光灯のスイッチを入れると、アトリエの中にぼうっと光が宿り、窓の外は見えなくなった。古びた木材の床と壁の、長年の使用による独特の風合いが人口の光の中に浮かび上がる。

「ふう……」

 使い古されたテーブルの上の、画材や道具や描きかけの作品。どれもこれも、こ

の街のシステムに反抗するテルの心の支えになってくれるものだ。しかし疲れを感じる今の彼の心には、その雑然さが重荷になった。掃除をしなければと、常々考えてはいるのだが……。木の壁には完成作品や習作が貼られている。特に貧民街の風景画と、大時計塔が目立つ。それから獣の耳やエルフの耳のある子供達の姿。テルはコートを脱ぎ、部屋の片隅に置かれた簡素な仮眠用ベッドの上に放り投げる。それはシーツの上に山積みになった本の上に、死んだ灰が積もるように落ちた。一息つく。今日は色々働いた気がする。もとは不用品だった古びた椅子に座ると、一日の疲労と共に色々な考えが巡り始める。

(そりゃあ父上や魔法科学ギルドの貴族たちが大時計塔の研究に魅せられるのもわかる。誰も決して破壊することができない未知の材質、溢れ出る魔力、そしてその地下に無限に広がる、他の世界に繋がっているという、リミナルダンジョン。

 テルは父から与えられた手のひらサイズの錬金術製図版に手を伸ばす。民衆には手に入れることが不可能な高級な道具だが、貴族が属する魔法科学ギルドの面々にとっては、標準の装備品だった。起動すると、製図版の表面が淡く光を放ち、情報や画像が立体的なホログラムとなって浮かび上がる。

「この光……」

 テルは思わず目を細める。街中に張り巡らされた魔力導管を流れる魔光エネルギー。その安定的な活用は、父ロドヴィコが、わずか16歳で成し遂げた革新的発明だった。16歳。今のテルと同じ年齢……。劣等感か、焦燥感か。天才の息子にありがちな感覚だろうか。テルは製図版をパチンと閉じた。青白い光が消える。

「父上、あなたは言いましたよね。『魔法と科学の融合と発展なくして、この街の未来はない』」

 テルは昼間子供達に使わせたのとは数段違う自分愛用のペンを手に取り、キャンバスに走らせる。青い魔力の線で描かれた時計塔が、瞬時に立体映像となって浮かび上がる。完璧な再現性。感情の入り込む余地のない、正確な描写。念じながらなぞるだけで魔力があるべき形を取る、父ロドヴィコの新たな発明品だ。彼はそれを与えられ、レポート提出を対価として、いくらでも好きに使うことができた。

「この光は……嘘をつかない。だからこそ、人の心は描けない。僕の心も、街の本当の心も」

 テルはペンに遠隔に供給される魔力を切り、古い画用紙を広げる。そして昼間の子供達と同じ道具で、そこに新たな絵を描き始める。不揃いな手描きの線が、むしろ時計塔の威圧的な存在感をよく表現していた。

「父上の発明は確かに街を変えたけど、この発展の末に誰をどんな場所へ連れて行けるっていうんだ」

 アトリエの隅には、魔導結晶で動く最新の画材が積まれている。全て父からの贈り物、いや、テストを頼まれた貸与品だ。その横で、テルは昔ながらの木炭を手に取り、一心不乱に絵を描く。

「魔力の完璧な光より、不完全でぎこちない闇の方が……」

 いつもこうやって、朝の光が差し込むまで没頭するのがテルだ。明日の学院の講義なんて、寝ていてもこなせる。テルの描く時計塔は、やがてその無慈悲なまでの存在感を露わにしていく。

「父上は言いましたよね、才能は正しい方向に使えと」

 テルは限られた魔光灯の薄暗がりの中、黙々と線を重ねる。

「でも、正しさとは何なのか。誰にとっての正しさなのか。あなたにとってそれは自明なんでしょうね、でも、でも僕にとっては……」

 アトリエの壁には、様々な絵が貼られている。最新技術で描かれた精密な街の設計図。そして手描きの、貧民街の日常風景。だが手書きではやはりどうしてもロドヴィコの製図したものに敵わない。テルは最近、書いては破り、書いては破りを繰り返していた。だが、それでも彼は描き続けた。テルの脳裏に、昼間見た子供達の絵が思い浮かぶ。父の設計する未来より、あの光景の方がずっとずっと大切に思えた。父の世界と、テルの見つめる世界。その狭間で、少年は今夜も絵筆を走らせ続ける。

 窓の外では、街の魔導灯がだんだんと消えていく。ロドヴィコの光が十分に街を照らし、そして人々の一日の終わりと共に消えていく中、アトリエの中だけが、どこかゆったりした時間の中に包まれていた。

 ふと、テルが木炭を置いた。使い古しだが上質なテーブルの上に。コトッと静寂を破るおとがして、また静寂がやってくる。テルはしばらくじーっと自分の描きかけの作品を見ていたが、突然それをひっつかむと、ビリッと破いてしまった。

「こんなものが、なんになるっていうんだ!」

 その言葉は、つい口をついて出たもので、魔光灯でぼうっと照らされた部屋の暗がりだけが聞いているはずの一人だけの叫び。そのはずだった。

「あれ? まーた破っちまったの?」

 突然の声に、ギョッとしてテルは机から顔を上げた。返ってくるはずのない言葉にヘラヘラしながら応答したのは、窓辺に座った姿だった。

「レカ……」

 いつの間に入ってきたのか、眠らない街の魔光灯を背に、少し意地の悪い笑みを浮かべていた。

「もう、勘弁してよ。びっくりしたじゃないかぁ。またノックもなしに……」

 レカが笑う。

「へへ、貴族のお坊ちゃまの離れ屋に、夜這いってやつ?」

 テルは少し気になる感触を覚える。その冗談めかした声にも、どこか疲れが滲んでいる。レカは軽やかに室内に入ると、床に散らばったテルの作品の断片を拾い上げた。

「あーあ。粗末に扱っちゃって。お坊ちゃまらしくないねえ」

 テルは少し不機嫌そうな顔をする。

「いいだろ、僕の小遣いで買ったものなんだし」

 レカはそれを無視して、革製の暗殺者のスーツを脱ぎ始める。いつもの所作だった。脱ぎながら、仮眠用のベッドの上に散らばった本をポイポイ投げ始める。

「ねえ! レカの部屋じゃないんだから!」

 そんな言葉もお構いなしにレカは脱いだグローブをテルに投げつけたり、本を勝手に積んだりしている。テルは慌てて立ち上がってレカが散らかすものを少しはマシな形で脇に置く。

「ふぃ〜」

 上着を脱ぎ、ベルトや装具も外して楽になったレカは、テルの許可も得ずにベッドの上でくつろぎ始めた。横になって頬杖を突き、枕元の本を適当にペラペラやり始める。テルは片付けながらため息をついた。

「もう、自分の部屋だと思ってるんだから」

 不満を漏らしつつ、散らかされたものを片付ける。この厄介な幼馴染は、気ままな猫が窓の外を眺めるかのように本を読みふけっている。テルはついその体の美しい曲線が気になり、意識して目線を逸らす。何年も前からレカはこんなふうにテルの部屋にやってきては、我が物顔でリラックスする。レカは一瞬だけちらっとテルに赤い瞳を向けた。

「なんかあったんだろ、親父さんと」

 テルは本を拾ったり、レカの装備をまとめて置いたりしつつ、その問いにうーんと声を漏らしてみせる。

「別に……。いつもの小言だよ」

「ふーん」

 レカは興味なさそうに言った。しかし勝手知ったるテルは、そういう時でもちゃんと聞いてくれているのだとわかっていた。

「……父上の発明した魔導製図装置じゃ、描けないんだ」

 ふと、テルは床の上にさっき自分が破った画用紙を見つける。それはいつのまにか破られる前の様子がわかるように、パズルのピースが完璧に嵌められるように、並べ直されていた。

(……レカったら……)

 さっきの一瞬で彼女がやったのである。凄まじい早技だが、テルはそれには慣れっこだから、その心遣いのあたたかさだけを感じた。テルは破られた図面の断片に触れる。

「そう。こうやって、自分の手で描いた方がどれだけ……形を指でなぞって、描きたいものと向き合う時間は、とても神聖なもので……」

 自分でも思ってもみなかったセリフが、なぜだかスラスラと唇から躍り出ていく。

「父上は急ぎすぎてるんだ。確かに街は発展してるけど、矛盾はどんどん大きくなってる。僕は、父さんのやり方は好きじゃない。けど、タテイオンさんのやり方は好きだ。あの人こそ街の平和を実際に守ってる人なんだ。レカもそう思……」

 そこまで言ったところで、後ろから抱きつかれた。

「レカお姉ちゃんはうっれしーぜ!」愛しのテル坊が立派に街のこと考えられるように育ってさ!」

「ちょ!?」

テルは顔を赤らめつつ

慌てる。

「テルの匂い〜」

レカは鼻先をテルの髪にぐりぐり押し付けて好き放題だ。

「やーめーろーよ!」

 しかし彼がいくら抵抗しても、力では敵わない。レカに散々弄られて、やっと解放される。自由の身となったテルは、ほっと一息つくと同時に、髪を戻しながら、非難がましい目線でレカを見つめる。

「ったく……。慎めよな。もう子供じゃないんだから」

 少し照れた様子のテルを見て、レカはおかしくてたまらないといった様子だったが、ふいに真剣な顔になる。

「テル、嬉しいよ、あーしは。そうだよな、もう子供じゃねー。真剣な話だぜ?責任を背負って初めて一人前だって、大人はみんな言ってるもんよぉ。お前がそれを背負おうと頑張ってるのは嬉しい。頼もしいよ。オメーが街の面倒を見る立場になってくれりゃあ、あーしも……」

 レカはそこで言葉を切った。いつもとは違う言葉の調子に、テルは意外に思って彼女をよくよく見た。テルには幼馴染みのその表情の意味はわからなかった。

 レカはずっと謎だ。いつも元気で距離感ゼロのうっとうしいお姉ちゃん。小さい頃からテルにとって、レカは気ままな暴君だ。いいことがあった日も、塞ぎ込んでいる日も、変わりなく勝手気ままな幼馴染みのお姉さんとして振る舞った。

「レカ、残念だけど、僕は政治には関わらないよ。うちの工房を任されて、技術屋にでもなるさ。そして事前活動を頑張って、時々絵を描ければもうそれで充分。父さんのように街を引っ張っていく存在にはなれない。あの人のやり方では、引っ張るごとにどんどん人々が振り落とされていくしね。僕の代では、発展は穏やかな速度にするんだ」

「そーかい」

 レカはテルが何を言っても嬉しそうにしている。テルはなんだか母親が子供が一生懸命学校であったことを話しているのを聞いているような、この勝手気ままな幼馴染みにそんなふうな印象を抱いた。

(まったく、レカは……)

 なんとなく、優しい母性すら感じて、テルはついこの姉のような存在に甘えたくなった。小さい頃に母を亡くし、父も研究だの貴族の仕事だのに没頭していたテルにとって、レカの存在がどれほど救いになったか。しかしグッと我慢する。レカはそんな弟同然のテルをニヤニヤしながら見ていた。テルは咳払いをして、話を続ける。

「父上は科学で、魔法を含めた全てを理解できると信じてる。でも僕には分かるんだ。この街の中心、あの大時計塔のことは、絶対理解できやしないって……」

 レカは窓の外を見る。人が作ったわけではない巨大な影が、濃い藍色の夜空の中でも、真っ黒く浮かび上がっていた。テルは話を続ける。

「この街はあの時計塔の中にあるダンジョン発掘のためにできた街。それから数百年、冒険者たちはもうギルドの役目を治安維持の方にシフトしてる。あの大時計塔のダンジョンの探索を、半ば諦めたんだ。あれは、誰にも理解できない何かを、その中に隠してる……それを知り尽くすなんて、絶対に無理だよ」

 テルは古い木炭を手に取り、粗いスケッチを描き始める。不揃いな線が、むしろ時計塔の不気味さを際立たせていく。

「ほら。こうやって、不完全な線で描くと、逆に見えてくるものがある」

 レカはスケッチを覗き込む。確かに、その荒々しい線の中に、既視感のある不安を感じた。レカだってこの街に育った身だ。毎日の鐘の音、ふとどこかのタイミングで大時計塔の方を見ると、そのあまりに異質な雰囲気に、めまいを覚えることも多かった。

「父上は完璧を求めるんだ」

 テルは線を引きながら言った。

「科学で全てを説明しようとする。でも、この街には説明できないものがたくさんある」

 アトリエの古びた木の壁に影が揺れる。スケッチの中で、大時計塔の姿が夕日を背に黒く浮かび上がっている。魔導灯が灯る前の、一番街が不安定になる時間。誰もが影に潜む何かを怖れる、そんな時間。大時計塔は街の無言の支配者として何百年もそこにあった。

「っま、そーだよな」

 レカは窓の外を見る。

「科学じゃ説明できねえことばっかりだよ」

 そういってどさっとベッドに身を投げた。一瞬、レカの瞳が赤く光る。テルはその光を一瞬見たが、何も言わずにスケッチに集中した。静かな、静かな時間だった。レカは仰向けになったまま、ぼーっと木炭の走らせるテルの指を見つめる。テルがさらに影を重ねていく。不揃いな線が、むしろ時計塔の威圧感をよく表していた。その姿は、街の闇そのものにも見えた。

 やがて、寝息が聞こえ始める。テルは少し驚いたようにレカを見た。スーツを脱いで、柔らかな胸が肌着の下で上下している。ついその視線に罪作りなものを感じて、目を逸らす。

(お、幼馴染みだろ、レカは……)

 邪念を吹き飛ばすために、大時計塔のスケッチに向き直るが、それはもう完成していた。ふとテルは思いついたことがあって、新たな画用紙を取ると、鉛筆を使って新たな絵を描き始める。大時計塔の直線とは違う、人間の曲線。たまに横目をやって、寝ているレカの姿を見て、どんどん線を描き加えていく。鉛筆が紙の上を走る。光と影。強さと儚さ。相反するものが、画用紙のレカの中で不思議な均衡を保っている。眠りに落ちたレカの表情には、普段は決して見せない何かがある。それを記録することは、少し罪悪感があったが、鉛筆は止まらなかった。

「うっ……」

 小さな呻き声に、テルは驚いて手を止める。ずっと画用紙に注がれていた視線が、レカの方に向く。ベッドに横たえられた顔、その眉間に皺が寄る。声をかけるべきか、テルは悩んだ。だが、あまりに苦しそうで、テルは手を伸ばさずにはいられない。

「レ、レカ?」

「んっ!」

 突然、レカが目を開いて身を起こす。反射的にテルの手首を掴む。

「ハア、ハア、ハア」

 レカの荒い息。一瞬の緊張。だが、テルの顔を鼻でも触れそうな距離で認めると、レカは慌てて手を離して立ち上がった。

「あ……」

 レカが俯き、顔を赤らめて仕切りに自分の肘をさすった。

「あ、あ、あーし、寝てた……?」

 テルも少し居住まいを正して、何か悪いことをしたのがバレたみたいなバツの悪い顔で、

「うん、少し」

 とだけ言った。気まずい沈黙。レカは乱れた髪を直しながら、つぶやく。

「情けねえ。あーしとしたことが。暗殺者失格だぜ。うかつにも寝るなんて……」

 その言葉に、どこか自嘲の色が混じっている。テルは努めてレカを安心させようと、優しい声をかける。

「レカも、疲れてるんだね」

 レカはフーッと息を吐いた。これまでの弛緩した雰囲気を破るような、シリアスさを取り戻すための呼吸法だった。

「余計なお世話」

 口調は強い。目も合わせない。

「あーしは……」

 言いかけて、レカは言葉を飲み込む。何か言いたげな表情が、すぐに消える。

「あっ……」

 テルが慌てたように声を漏らす。レカは、テーブルの上の画用紙、卓上魔光灯に照らされたそれを見ていた。それこそ食い入るように。

 そこには、優しい表情を浮かべた娘が描かれていた。ポニーテールの髪型には見覚えがある。どこか人を不安にさせる赤い瞳は閉じられ、聖母のような微笑みをたたえている。

「あっ、あっ、あっ、そ、それは……」

 テルはなんだか今までしていたことがすごく恥ずかしく無礼なことに感じ、机にさっと近づいて隠そうとするが、レカが手を伸ばして胸を押さえるだけで阻止されてしまう。

「は、は、離して、それは、その、違うんだ! しゅ、宗教画だよ! 中央都市でよくあるモチーフだろ!? ほ、ほら、ご丁寧に羽なんか書いてあるし!」

 確かに、その絵の中の娘には、本来あるはずのない翼が描かれていた。まさしく恋愛そのものだった。

「……呪われた魔族の血を象徴する赤い瞳の天使なんかいるわけねーだろ」

 レカは静かにそう言った。テルはひっしにはんろんするw。

「いや、そ、そうじゃなくて、あの、その、レカの赤い目はそんなんじゃないっていうか、呪いなんて迷信で、あの、その……」

「ふーん」

 レカはニヤニヤしながらテルの方を向いた。突っ張った腕の距離だけ離れているが、テルはすごく近くに感じて、ドキッとした。

「赤い瞳だあ? この絵では目を閉じてるけど?」

「あっ……」

 テルは観念して力を抜いた。レカは手を離してカラカラと笑った。

「おいおい、こんのエロガキがあ……。おねーさんのことジロジロ見ながら描いてたんだろ?」

 テルはもう何も言えずに、レカの瞳よりも真っ赤な顔で押し黙ってしまった。レカはそんな弟分を見て、嬉しそうにハハっと笑った。そしてテルの描いたスケッチに歩み寄る。テルは反射的に、破られる! とおお思ったが、そんなことは全くなかった。レカの指が画用紙に触れる。優しく線をなぞっている。テルはなぜかぞわぞわするものを感じた。嫌だったわけじゃない。そんなことは全くない。ただ、なにか、優しい愛撫でもされているような、小っ恥ずかしい快感があった。

「なあ、テル」

 だが、テルにとって意外にも、レカの声は想像できないくらい低い、重苦しいものだった。

「生まれる前に、この世界は地獄だって教えてくれればよかったのに……。そしたら、覚悟できたのに。それとも、知ってたら生まれてこないことを、選んでたのかな……」

「は???」

 あまりに予想外なセリフに、テルは驚きの声をあげてしまった。予想外にしたってあまりあるセリフだ。てっきり、あーしはこんなにブサイクじゃねーとか、キモイんだよばーかとか言われるとばかり思っていたのに。一瞬、本当にレカはなにか、翼でも備えているような、いつもと全く違う存在に見えた。卓上魔光灯の光のそばで、濃い影に塗りつぶされているレカは、いつもと全然違う人に見えた。

「褒めてやりてーよ、テル」

「え?」

「毛皮のねえ人間。耳の長い人間。毛皮のある人間。どんな人間をぶっ殺しても、

ギルドにさえ目をつけられなければ大したお咎めもねえこの街でよ。こんな素敵なもんを作ってんだから。奪ったり壊したりじゃなく、作り上げてるんだぜ? すげーよ。ほんとすげえ。大したもんだぜ……」

 テルは真剣な表情でこのミステリアスな幼馴染みを見た。小さい頃からまったく頭が上がらない。おもちゃを取られて壊されたり、理不尽な遊びに付き合わされたり。

(11歳の頃だっけ。街の川に落とされて大変な目にあったこともあったっけな)

 レカに泣かされた思い出の方が多いくらいだ。だが、それでも、そんな他愛ない時間が、いや、そんな他愛ない時間こそ、自分自身にとって癒しであることも、テルにはわかっていた。意地悪なマネをされても、はちゃめちゃな目に遭っても、ふざけていじられても、なんだか全部許す気になれる。レカはテルにとって、エキセントリックだからこそ、単調な貴族としての教育の日々の中の、とても大切な潤いだったのだ。

 だが、今日のレカは少しいつもと違う。いつもはベッドを占有しようが、なかなか油断をしない。うっかり寝てしまうなんて、見たことなかった。

「さあて、そろそろ行かなきゃなあ。ボスに報告しなきゃいけねえことが……」

 レカは革のスーツを着た。そして窓から出て行こうとする。その仕草はテキパキとしていて、テルが言いたいことを頭の中でまとめる時間を与えなかった。

「ね、ねえ、レカ。何か、僕で力になれることがあれば……」

 レカは振り返ると、テルに微笑みかけた。月の光の中へと消えてしまいそうな、寂しい笑顔だった。テルは少しおじけ付いた。これまで、ちゃんとレカの心、その奥底に触れることができていただろうか。できていた、と言えば、それは嘘になるだろう。

「レカ!」

 テルは真剣さが伝破ればいいと思って、大きな声で幼馴染みを呼んだ。

「さっき、僕の絵を素敵だって言ってくれてありがとう! 本当に嬉しかった! いつも、あまり素直になれないけど、こうやって構ってくれること、本当に感謝してるんだ! 僕だけじゃない、リリアだって、手伝ってくれるのを感謝してるんだよ? 本当の姉みたいだっていつも言ってるんだから! だから、だから君の力になりたくて……」

「なあ、テル」

 なんとなく、テルには、レカが泣いてるように感じた。目に涙が浮かんでなくても、人は泣けるのかな、なんて、彼は思った。レカは、何かに耐えているような声で言った。

「責任ってやつは、慣れるしかない。何があってもな、一人で……。やりきらなきゃいけねーんだ」

 そして窓を開け、木枠に足をかけ、もう一言だけ言い残して去っていった。

「割に合わねえんだよ。生きるってことは」

 レカは闇に溶けるように消えていった。風が吹き込む。もうだいぶ寒くなった。もしかしたら、来月にはもう雪かもしれない。アトリエに静寂が戻る。テルは描きかけの絵を見つめる。翼の生えたレカのに穏やかな顔は、まだ描ききれていない何かが潜んでいる。それは暗い影なのか、それとも光なのか。

 テルは窓を閉めようとする。アトリエの窓から、大時計塔の影が街を覆っているのがわかる。月の光に、影が落ちているその影は、まるで運命の予兆のように、貧民街の方へと長く、深く伸びていく。窓を閉める時、何かに気がついた。

「ぬめってる? なんだ?」

 テルは指のついた何かを、魔光灯のところに行って光に当てて、よく見てみた。

「これは……」

 それは真っ赤な液体……。自分が指を怪我した時のように、指紋の形を残してはっきり赤く皮膚を染めている。絵の具ではなさそうだ。確かに、血だった。

「い、いったいどういうこと……レカ、怪我してたのか?」

 そんな様子はなかった。隠し事はそれか、とも思ったが、上着を脱いで肌着になったところも見ているし、ベッドシーツには一点のシミもない。レカの血ではない。おそらく、革のグローブかスーツを脱ぎ着する時に、どこかスキマに溜まっていたものが染み出したのか……。つまりこのことは、レカはスーツを着たまま誰かの血を大量に浴び、それを洗い流したということを示していた。上着のどこかに残っていた血が、もう一度着直したことにより染み出した、ということか。

 テルはそこまで考えると、レカがグローブだの革の上着だのを放り投げた方を向き、卓上の魔光灯を持ってそこへ歩いていった。確かに、そこには血痕があった。すでに乾いてアトリエの床に染み込んだ赤黒い跡が。

「レカ……」

 テルは血がついていることも構わず、金髪の頭に手をやった。

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