第六話 闇の執務室
(第六話開始)
「闇の執務室」
蝋燭の明かりがゆらめく。蝋燭の炎が、執務室の闇の中でおぼろに揺らめいていた。天井まで届く黒檀の本棚、重厚な石造りの壁、そして深紅のカーテンが、この部屋を支配者の居室たらしめている。大きな机の上には、古い羊皮紙の書類が山積みになっており、その隣で蝋燭が影を投げかけていた。石造りの壁には、暗殺ギルドの歴代当主の肖像画が掛けられている。その瞳は、まるで部屋の中の者たちを見下ろしているかのようだ。当主の執務用の机、その大きな革の椅子の後ろには、儀式用の短剣が十字に飾られ、その刃は今でも研ぎ澄まされている。
窓には鉄細工の装飾が施された大きなガラスが嵌められ、そこからは大時計塔の一部が見える。月明かりに照らされた塔の姿は、この執務室の中からでさえも異質な存在感を放っていた。暗殺ギルドの威信と、その暴力性を内包した空間。それがこの執務室だった。
執務室のドアが閉められる。2メートル近い大男が振り返った。まるで筋肉の風船のように膨れ上がった体と、スキンヘッドを備えた鋼のような男。
「父上、冒険者ギルドのゲストはお帰りになられました」
低い声が響いた。それに対し、部屋の壁際の大きな机の向こうで、体を椅子に深く沈み込ませながら、一人の初老の男が答える。殺しを生業とする組織のボスの声は、墓地を這う霧のように重たく、冷たかった。
「本当に酷薄だな、この街も……。ギルドの人間が、仲間を売るとは」
スキンヘッドの大男は頷く。
「ええ。父上。この街の誇り、冒険者ギルドが仲間殺しの依頼とは。英雄たちの実態もこんなものですかねえ」
鍛え上げられた肉体からの太い声。筋肉がはち切れんばかりに黒い上着を内側から押し広げている。ボスの片腕としてこの暗殺ギルドの執務を取り仕切る、長子スタヴロ。彼はたった今まで訪れていた来客に対し、少し蔑んだ感想を述べた。ータティオンのため息が聞こえた。
「このパラクロノスの街は、辺境にある夢を食う街。王都ではそう呼ばれているそうだな」
タティオンは椅子から立ち上がる。
「人は、一人では生きていけない。だから群れる。群れてできるのが街だ。そして街という場所では、獣人、食い詰め者、逃亡奴隷、犯罪者……。誰だろうと、たった一人、独自の力と才覚でのしあがれる。人は最大の群れを作り上げた結果、たった一人でも生きていけるようになったわけだ……」
スタヴロは父の言葉に、考える仕草を見せる。
「人間は弱いがゆえに群れる存在だが、都市では逆説的に個人主義が蔓延している……」
タテイオンは頷いた。重い口調で語る。
「そう。この街では強者であるほど群れを作って力を増し、弱者であるほど繋がりを持たずにすぐ死ぬ。弱者こそ団結すべきなのにな。だが、彼らはみな本質的に一人だ。都市とは、たった一人で生きていけるという、幻想を共有するための装置なのだよ。その幻想に惑わされれば、責任の名の下に、リスクをたった一人で背負い込むことになる」
スタヴロは眉をひそめて腕を組み、苛立ちをあらわにした。
「しかし冒険者ギルドも悪党ですね、父上。
大時計塔のダンジョンから魔法遺物を引き上げる責任を負った英雄的なギルドが.....。責任から逃げた仲間の始末を我々に依頼するなんて……」
「そう言ってやるな、スタヴロ。人殺しを生業にする我らほどではないさ。まあなんにせよ、高位の冒険者の暗殺は我々としてもかなりの慎重さを伴う案件だ。しばらく対象を監視し、様子を見なければ……」
その時、バルコニーに通じる窓が開き、部屋の空気が変わる。革のスーツに身を包んだ少女が、音もなく滑り込んでくる。
「ただいまーっす!任務完了っす!」
明るい声が、重苦しい空気を切り裂く。
「はは、我がギルドの隠されし暗殺剣(スティレット)よ、よく帰ったな」
タティオンが歓迎の言葉を口にし、スタヴロが咎めるような視線を送る。
「レカ……礼節だけはいつまでも覚えられないらしいな」
レカは小馬鹿にしたように笑った。
「へへ、相変わらず頭が固えなあ、スタヴロ。訓練の時にまた小突いてやれば少しはやわらかくなるか?」
スタヴロがスキンヘッドに青筋でも浮かべる勢いで怒りを見せた。
「貴様……! 貧民街でデカい顔ができて調子に乗ったか?」
レカはますます小馬鹿にした調子で、
「お、筋肉ダルマが怒ったぞぉ!」
と小躍りするように言った。タティオンはため息をつき、少し低い声でこの勝手気ままな女暗殺者を呼ぶ。
「レカ……ッ!」
レカの体がビクッと跳ねて、これまでのイタズラ好きな少女のような雰囲気が消し飛ぶ。そんな彼女の方へ、シワの目立つ、魔物じみた手がずるりと伸びてきた。レカはそっとボスの手を迎える。手と手が、指と指が、接近していく。ピリピリした戦闘のような雰囲気だ。何が起こるかは、わかっていた。
「うっ!?」
超人的反射神経を持つレカが反応するよりも早く、ボス・タティオンの手は、鎖のいましめのようにレカの手に絡みつき、それだけで彼女の体を組み伏せた。
「うぎ、いでで、ボ、ボス、きついっす……」
「ふむ、少し椎骨の歪みがあるようだ」
タティオンはレカの右手に触れたまま、考えるように首を傾げて見せる。ただ手を握った、それだけの情報で、彼女のコンディションを読み取る。
「偏った訓練をしていたな……? いつも教えているだろう? 我らは戦士ではなく、殺し屋だと。レカ、紅い魔力の瞳を持つお前は、確かに獣人すら上回る身体能力を持つ……。力を鍛えたくなる気持ちはわかる。だが力で勝つ必要はないんだ。このように、技術で不意打ちをすれば仕事をする上では支障はない……。我らの仕事は、正面から戦って勝つことでもなければ身を守ることでもない。殺すことさえできればいい」
それだけ言うと、引退して久しい老暗殺者はレカの手を普通に握手するように握り直し、この若き優秀な暗殺者を引き起こしてやる。
「あたた、ご、ごめんなさい、ボス……」
レカはしゅんとなって、あからさまに落ち込んだ顔をした。タティオンは笑う。
「よい、よい、よく帰ったな」
レカの背中をポンポン叩き、優しくそう言った。
「ははは、ではレカ。仕事の証を……」
レカが持ってきた包みの中には、獣人の首が収められていた。脂の混じった毛皮から、まだ生暖かい血が滴る。受け取ったスタヴロがまじまじとそれを見る。
「穴あいた耳、火薬で禿げた毛皮、金のピアス……、間違いない。この前の橋の件を裏で指示していた獣人部隊の中隊長だ」
タティオンは笑みを浮かべる。
「よくやったな、レカ」
父の褒め言葉に、レカはこれ以上ない笑顔になる。それは、殺しの痕跡を全て洗い流すかのような、純粋な喜びだった。
「この街に必要なのは、表立たない正義だ」
タティオンの低い声が響く。
「冒険者ギルドは表の秩序、暗殺ギルドは影の秩序を守る」
レカは頷いた。タティオンは机の上に目線を落とすと、書類に目を通しながら続ける。
「しかし、表の秩序を守る力がどうも最近頼りない。傭兵の横暴が目に余る。奴ら、エルフや獣人の村を焼くのに慣れすぎているようだ。乱暴狼藉が過ぎる。中央の軍や地方の反乱を鎮めてくれるのはいいが……。その中でも獣人傭兵の動きがどうも最近活発だな。今し方請け負った依頼との関係が気になるところだ」
スタヴロが頷く。
「ええ。反乱の芽は早めに摘まねば」
タティオンも、しわの刻まれた顔に深い憂慮の色を浮かべた。
「さてレカ。冒険者ギルドからの依頼は急務だが、それには困難が伴う。傭兵ギルドとの繋がりが示唆されている。反乱の重大な懸念がある。まずはしばらく待機だ。次の傭兵ギルドのイベントまで、休暇と思ってくれていい」
「了解っす!」
「休暇明けの次の任務は、おそらく街の状況を変えてしまうものになるかもしれない。責任は重大だぞ」
レカは手を挙げて元気よく答える。
「ういっす! 責任を持って使命を果たします!」
「素晴らしい。責任を負わぬ人間は半人前だからな」
そして老暗殺者は、急に真剣な顔つきになる。レカももちろん今し方までのおちゃらけた雰囲気を消す。
「我々は影となって街を守る。時には血を流し、汚名を被っても」
タティオンの手がレカの頬に触れる。
「レカ。お前にはその中でも、最も困難な、暗殺ギルドの仕業であるとバレてほしくない仕事までやらせているな。ありがとう。そしてすまない」
レカは赤面し、金色の髪を揺らして俯く。しかしすぐに顔を上げる。
「へっへへ! もってーねーっすよ!」
タティオンは笑ってこの可憐な女暗殺者の肩を叩く。
「よし、いっていいぞ。しばし休め」
レカは大袈裟に一礼すると、窓枠に手をかけた。が、タティオンが呼び止める。
「レカ」
「はい?」
「今度、屋敷の食事に来なさい。リリアの料理が絶品なのだ。あの娘は最近腕を上げたぞ」
その言葉に、一瞬だけレカの瞳が揺れる。しかし、すぐに笑顔を作る。
「はい! 楽しみにしてやす!」
そう言うと、窓枠に足をかけ、外に出て行く。スタヴロがすぐに靴をコツコツ言わせて歩み寄り、窓を閉めた。
分厚い胸板を膨らませて、溜息をつく。
「甘やかしすぎです」
「まあ、良いではないか」
タティオンもまた息子の横に立って窓の外を見た。そろそろ日の出だ。眠りの深くなった街を眺める。
「……彼女には、まだ多くの仕事をしてもらわねばならんからな」
スタヴロは少し考えてから、ゆっくりと言った。
「父上、我々の仕事により、街の秩序はよい方向に向かっております。私の配下の暗殺者たちも活躍しています。治安維持すらろくにできない冒険者ギルドの代わりに」
タティオンは机に戻り、蒸留酒の瓶を取ると、二杯のグラスに注いで一口飲み、スタヴロにも渡す。
「なあ、息子よ。己に縁もゆかりも無い、そんな罪を引き受けて、初めて人は真っ当になれる。理不尽を一度受忍することで、それを跳ね除けて生きていく力も得られるというもの」
タティオンの声には疲労が感じ取れた。長い間、この街の闇に生きてきたものの疲労だった。
「しかしそれでいて、自分自身に咎のある罪をも忘れてしまうのが人間だ。やれ、自分はむしろ被害を受けた犠牲者だと、声高に主張したりな」
スタヴロは酒を口にしながら、タティオンの姿を見つめる。長男である彼にも、暗殺ギルドのボスの、ほんとうの心根はわからない。さっきの、まだ小童と言える年齢の手下との仲睦まじい会話も、どこまで本心なのか。
「……なあ、スタヴロよ」
「はい?」
タティオンが息子の方を振り向いた。
「我々暗殺ギルドは、不必要な罪を背負ったりしないさ、ギルド間の恨みに関するものはな……」
「『我々は』、ですね」
それは、いつでも切り捨てられる駒を用意しておくことを意味した。スタヴロは少しだけ踏み込んだ質問をする。
「しかし、本当によいのですか? いくら汚れ役が必要とはいえ、あの娘だって、父上、あなたの……」
タティオンはまた酒を飲む。力強い視線をぼうっと机に落として、60代後半の疲労を感じさせる言い方で、ボソリと愚痴を吐いた。
「ままならないものだな。ワシの紅き瞳の血を最も色濃く受け継ぐものが、正妻の子ではなく、男でもないとは……
執務室に再び沈黙が満ちた。だんだんと東の空が白んでいく。明日の深夜もまた、闇の中で、殺しの相談がまた行われるだろう。
窓の外、建物から建物へ、レカが飛び移りながら遠ざかっていく。貧民街では、そろそろ朝の喧噪が始まりつつあった。やがてまた大時計塔が朝の鐘を鳴らすだろう。また、ギルドに属する少数の人にとってのなんでもない一日が、そしてギルドに属さない多くの人にとっての困難な一日が、始まることだろう。
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