第4話 卑怯なコウモリ
「卑怯なコウモリ」
というイソップ寓話の話は、
「学校で習ったことではないか」
と思うのだった。
この、
「卑怯なコウモリ」
という話は、
「獣と鳥が戦争をしているところに、通りかかったコウモリは、獣に向かっては、自分は獣だといい、鳥に向かっては、自分は鳥だといって、逃げ回っていたが、そのうち、戦争が終わると、お互いに仲直りをした時、コウモリの話題となり、コウモリを卑怯なやつだということで、自分たちの前に二度と姿を現すなということで、暗い洞窟の中で、夜だけ活動するという夜行性になった」
という話であった。
この少年は、学校の先生をそのコウモリになぞらえて、見ていたのだ。
ただ、この
「卑怯なコウモリ」
という話は、
「確かに、コウモリは悪い」
ともいえるが、元々、
「鳥と獣が戦争をしている」
ということから始まったことで、戦争さえなければ、コウモリもそんな卑怯なことはしなかったわけだ。
逆に考えれば、この方法は、コウモリにとって、
「生きていくための知恵」
というか、本能のようなものだとは考えられないだろうか?
動物には、
「生きぬくために本能であったり、身体が勝手に反応する」
というものもあるではないか。
たとえば、
「保護色で、相手に見つからないようにする」
というものであったり、
「身体に毒を持っていて、食べようとすると、その毒で相手を殺してしまう」
というものもあるではないか。
それと、
「生きるために使う詭弁とは何が違う」
というのだろうか?
考えてみれば、この、
「卑怯なコウモリ」
という話の中で、
「コウモリがついたウソ」
で、誰が損害を被ったというのだろうか?
もし、ここに犯罪性があるとすれば、必ず、
「被害」
というものがあるはずである。
しかし、ウソをついて、その場を逃れたとしても、別に逃した方が、相手から攻撃されるというような、危機を迎えたわけではない。
ただ、
「コウモリが、自分の命を危険から守った」
というだけで、何が悪いというのか、
戦争に紛争において、
「自衛のための行動」
というものを罰したり、非難されることはないではないか、
さらには、
「殺人罪」
という犯罪においても、
「緊急避難」
であったり、
「正当防衛」
ということでの、
「自衛」
ということであれば、人を殺しても、その人は無罪ということになるのである。
もちろん、そのためには、
「緊急避難」
であったり、
「正当防衛」
としての、要件を満たしていないといけないということで、本人がそれを立証する必要があるだろう。
だが、この、
「卑怯なコウモリ」
という話には、
「被害者」
というのは存在しないのだ。
つまりは、
「被害者がいないのだから、最初から犯罪などは存在していない」
ということになる、
だから、逆に、物語になるのである。
というのは、
「被害者がいない」
ということは、確かに、
「犯罪ではない」
ということであるが、その分、心理的な部分として、
「犯罪とならない」
ということで、鳥や獣たちは、コウモリを、果たして、
「無罪放免ということで許していいのだろうか?」
という道理的な問題が孕んでくるのであった。
学校教育においては、
「犯罪か犯罪でないか」
ということは関係なく、
「道義的に悪いことをすれば、それは悪いことなのだ」
という、道徳的、さらには倫理的な問題として捉えるとするならば、このコウモリの行動は、
「果たして許されることなのだろうか?」
ということで、考える材料としては、恰好なものだということになるだろう。
しかし、ここで問題なのは、
「法律で規定されたことを破るのが犯罪」
ということで、犯罪が絡んでくれば、最後には、法に則って、きちんと、
「有罪無罪の判決が出る」
ということで、その理屈が決まってくるということになるのだろうが、
道徳的なことは、実に曖昧で、それだけに、
「結論を出してはいけない」
ということになるのかも知れない。
要するに、
「教育の教材として、考えること」
というものを、教えることが大切だということになるであろう。
このことを考えていると、
「卑怯なコウモリ」
という話は、
「人間の道徳教育のための、ただの教材」
ということになる。
本当は、
「裁いてはいけない」
ということを、この物語は、
「コウモリの生態」
というものの理由が、どこにあるのか?
ということから、さかのぼって、
「あの孤独な生態は、過去の罪にならない罪によって育まれたもの」
という理屈であった。
ただ、これも、
「人間のエゴが作り出したものだ」
といえるのではないだろうか?
というのは、
「コウモリが孤独で、暗いところに住んでいるからといって、その前に罪を犯した」
というのは、理屈としては、合っているかも知れない。
ただ、それはあくまでも、
「一理ある」
という程度のことで、なぜかというと、
「孤独だから、寂しい」
と誰が言えるのだろうか?
ということである。
確かに、
「人間は一人では生きていけない」
ということで、集団生活というのは当たり前のことだということになるが、
「人によっては、孤独というものが好きだ」
という人だっているだろう。
一人でコツコツこなすことを自分の性格だと思っていたり、人とかかわることが、どれほど煩わしいことかということを分かっている人は山ほどいるはずだ。
だから、今の時代は、元々は、
「いじめ問題」
というものが原因だったかも知れないが、
「いじめ問題」
に関係ないところで、
「引きこもり」
というものが頻発しているというではないか。
部屋に引きこもって、ゲームばかりをしている。それを大人は、
「何とかしないといけない」
とは思うかも知れないが、一度説教して、極度に抵抗されれば、もう何もできなくなる。
そんな家庭は、今ではほとんどなのかも知れない。
もっとも、親は親の世界でいろいろある。子供は分かるわけはないし、大人も子供時代を経験しているとはいえ、今と昔とでは、まったく違う世の中になっているのだ。
お互いに、
「分かり合える」
と思っているとすれば、そもそも、それが間違いで、それぞれに、
「相手が傲慢でエゴだ」
と思っている以上、どうすることもできないだろう。
それは、
「自分のことを棚にあげて」
ということになるのかも知れないが、それを分かっていたとしても、分かっていないとしても、
「相手が傲慢でエゴだ」
と感じた時点で、
「もうどうなるものではない」
と自分たちで勝手に結論を出していることだろう。
そうなると、
「何とかしないといけない」
と思っていたとしても、何もできなくなるのは当然のことだ。
「下手なことをして、取り返しがつかないことになってしまう」
というのが怖いからだ。
そうなると、結局、
「他力本願」
ということになる。
相手にやらせることで、
「もしうまく行かなかった場合は、相手のせいにしてしまえばいい」
と思う。
もし、それを、
「卑怯だ」
というのであれば、それこそまるで、
「卑怯なコウモリ」
に出てきたコウモリのようではないだろうか?
だったら、
「そのコウモリを卑怯だ」
と誰が言えるのだろうか?
人間には、そういう矛盾したところがある。
だからこそ、道徳として、教えるということであれば、理屈は分かるのだが、それを教えられる方が理解しているのかが重要だが、そもそも、
「教える方」
が分かっていないのだから、
「教育でもないでもない」
といえるのではないだろうか?
それが、教育というものであり、そして、
「教育にある限界」
といえるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「寓話というものは、実はもっと深いところに真理というものが存在しているのかも知れない」
と感じるのであった。
捕まった少年は、名前を西島という。
中学2年生ということで、店長には、そこまでは話したが、それ以上の詳しいことを話すことはなかったのだ。
この警官は、名前を、
「佐久間」
といい、職というのは、巡査部長であった。
彼は、昇進試験を受けることもなく、
「街の安全」
というものを最優先に考え、昇進するという壱岐市もないまま、
「たぶん、50歳前くらいだろう」
という年齢に見えたのだ。
そういう意味では、先ほどの店長の前よりも、佐久間巡査の前の方が、それほど緊張していない。
最初は、
「捕まってすぐ」
ということもあったので、西島少年も、頭の中が真っ白になった状態で、本人とすれば、
「夢なら早く覚めてほしい」
というくらいに思っていたのだ。
確かに震えもあり、
「これからどうなるのか?」
という不安も大きかったのだが、すぐに、気持ちがほぐれてきたのは、
「絶えず他人事」
という風に考えていたからであろう。
「悪いことをして捕まったのに、何を他人事だって思ってるんだ」
と言われるかも知れないが、本人は捕まるつもりなど欠片もなかったのだから、
「他人事」
のように考えるのも無理もないことだろう。
それを、
「不真面目だ」
というのは、当たり前なのかも知れないが、そこまで店長ができるものかというのは微妙なところだ。
確かに、犯罪を犯した人間と、被害にあった人間との間の対面なので、文句の一つもいいたいのは当然だ。
しかし、そこに、私情が挟まってしまっては、話が進まなかったりするだろう。
捕まった方も、一方的に責め立てられれば、口をつぐんでしまうというのも、無理もないことであろう。
ゆっくりと、説得する感じで話をすれば、素直になるかも知れないものを、一方的に追及すれば、せっかく落ち着こうとしている方からすれば、どうしようもないという精神状態になってしまうことだろう。
それを考えると、
「俺が悪いのか?」
とは考えたとしても、それ以上は、
「何か理不尽さを感じる」
ということで、何もできなくなるのではないか?
と感じることだろう。
万引き犯といっても、相手はまだ中学生。
特に、
「思春期の真っただ中」
ということを考えると、尋問する方も、気を遣わなければいけないだろう。
もっといえば、
「自分が、少年くらいの年齢の時、どうだったか?」
ということを思い出しながら話をしないといけないだろう。
ただ、店長の中学時代と今とでは、少し違っているかも知れない。
さすがにそこまでは考慮できないので、自分の中学時代というのを思い出しながらの話になるのは致し方のないことだろう。
「そう思いながら、店長が話をしていたのか?」
それは難しいところではないだろうか?
しかも、店長の前に出てきた時、まるで、
「まな板の上の鯉」
という状態であれば、
「最初に感じた感覚」
というものが、ずっと最後まで抜けないということになる。
徐々に、相手も気を遣ってくれているのであろうが、それが、少年の緊張感と、罪の意識にさいなまれるかのような、
「我に返る」
という状態になって、
「事実を受け止める」
という感覚になった時、自分の中で、
「甘かったんだろうな?」
という反省をしているのであれば、店長が責め立てたとすれば、完全に逆効果だといえるのではないだろうか?
「少年としては、後悔はしたくないが、反省はする」
という態度でいたのであれば、その態度がこの場合は、一番正解に近いのではないだろうか?
それを考えると、
「少年を追い詰めてはいけない」
と感じなければいけないのに、店長にそれができたかどうか、大きな問題だ。
そもそも、
「警察に連絡した」
ということが、下手をすれば、一番の間違いだったのかも知れない。
来てくれたのが、佐久間巡査部長だったからよかったものの、
「警察の中には、公務員的に、相手の立場や考え方を無視して、決まったことを決まったようにするだけ」
という男もいるのだ。
そんなやつに任せてしまえば、ろくなことはないだろう。
もっとも、最近の少年課であったり、生活安全課では、刑事課などと比べて、
「市民に寄り添う」
という形の立場が一番求められるということなので、
「犯人であろうが、一番気を遣う」
ということになるのだ。
特に、相手は、
「自分が悪いことをしている」
という意識がないままに、行動している人が比較的多いだろう。
そんな相手を相手にするのだから、こちらが気を遣わないと、話が通じることもなく、
「交わることのない平行線」
というものでしかなくなる。
そして、そこに、
「無限」
という発想が出てくれば、
「限りなくゼロに近い」
ということになり、
「無限である以上、絶対にゼロにならないところで、永遠に続くもの」
ということになるのである。
それを考えると、
「警察という仕事。特に、市民と寄り添うような仕事」
というのは、精神的なところで、気を付けなければいけないところが多いということになるだろう。
何しろ、相手は、犯罪すれすれというところにいる場合が多い。
「犯罪者の道に足を、その後に踏み込むことになった」
ということであれば、
「警察に責任というものはなかったのか?」
ということになるのは、必至である。
それを考えると、
「佐久間巡査部長のような人がもっと増えればいいのに」
というほどの人物だということは、署内でも知られたことだったのだ。
佐久間巡査部長も、
「卑怯なコウモリ」
という話は知っていた。
それが、
「イソップ寓話だ」
ということまで知っていたかどうか分からなかったが、話の大筋は知っていた。
そんな中において、
「物語的には、当然といえば、当然のところがあるが、どうにも片手落ちの話だ」
と考えていたようだ。
これは、少年が考えていることと、おおむね似ているといってもいいだろう。
「この話は、コウモリ側からの話ではなく、そのほとんどは、鳥や獣側の話だ」
ということであった。
ということは、
「多数決といえるのではないか?」
と思えたのだ。
つまりは、
「一人の意見はどうでもよく、全体がどう考える? ということが優先される」
という考えである。
もちろん、それが、統制の取れた考えであり、一種の全体主義だといってもいいのかも知れない。
実際に、
「統制が取れないとどうなるか?」
ということは、国家などを統制している人には分かるというもので、民主主義であれば、それが、
「多数決」
というものであり、そんな民主主義を否定する、
「社会主義」
などであれば、
「権力によっての独裁で抑える」
という考えである。
これは、
「ファシズム」
というものにも言えるのではないだろうか?
特に、第一次大戦終了後の、イタリアやドイツにおいて、世界恐慌というものも重なることで、
「弱ければ滅びる」
という、当たり前のことに気づいたということである。
いわゆる、当時の世界は、
「戦争に負けた」
ということで、勝者から、その罰を想像以上に与えられ、与える方からすれば、
「これで戦争を抑止することができる」
と考えたかも知れないが、それはあくまでの、
「勝者の理論」
ということであり、戦争に負けるということは、
「勝者の理論で、敗者は押しつぶされ、滅亡しても仕方のないこと」
ということになるのである。
しかし、実際に、そこに国民は存在しているのであり、
「自分たちが何をしたんだ?」
と考えれば、
「これほど理不尽なことはない」
といえるだろう。
どの国の国民も、
「国家が戦争を始めれば、国家のために、戦争勝利という目標に向かって邁進する」
というのが当たり前のことであり、それが、
「愛国心」
ということになるのだ。
「勝った負けた」
というのは、最後のことであり、
「最後まで分からない」
ということになるであろう。
それを考えると、
「国家のために、勝利へのまい進を行った国民が罰を受ける」
というのは無理強いではないか?
ただ、この考え方こそ、
「連合国に押し付けられた民主主義」
という考え方だ。
ということになれば、それが果たして正しいのかどうか、分かったものではない。
そもそも、
「これらの考えの中に、正しいといえるものがあるというのか?」
ということである。
正しいとすれば、そこに根拠があるというのか、
もし、
「正しいというのがあるとすれば、その時々における環境に沿った考えで、一番しっくりくるものが正解だ」
ということくらいしかないだろう。
だから、
「軍事クーデター」
のようなものが発生すれば、それまでは、
「正しい」
と言われてきたものが、
「実はそうではない」
ということにならないとも限らない。
いや、それが、普通に当たり前のこととして起こっているではないか。
日本であっても、天下人が変わるたびに、そういう事情になっている。
例えば、
「豊臣を、徳川が滅ぼせば、豊臣の時代には、豊臣びいきのものがもてはやされたが、徳川の時代になると、豊臣が映画を誇った印というものは、ことごとく、このように存在しなかったかのようになる」
ということであったり、
「明治維新が起こると、徳川時代のものや、徳川の迷信などというものは、すべて否定されることになる」
ということであった。
そもそも、明治維新においても、本来であれば、
「大政奉還」
ということで、政権を無血で返したのであるからそれでいいはずなのに、
「あくまでも倒幕」
ということにこだわったのは、本当に、
「関ヶ原の時の積年の恨みによるもの」
といっていいのだろうか?
徳川もそうだったが、
「何も、豊臣を最後まで滅ぼす必要などないのではないか?」
という意見もある中で、
「未来に禍根を残さずに、永遠の徳川時代を築く」
ということでの、ある意味、
「戒め」
ということでの、
「大阪の陣」
だったのではないか?
そうなれば、ドイツに対する締め付けも当たり前のことかも知れないし、それによって、ドイツが生き残るためということで、起こってきた、
「ファシズム」
というのも、その出現は、
「当たり前のことである」
といっても過言ではないだろう。
それを思えば、
「ファシズム」
という、
「独裁政権」
というものを悪だとは言えないのではないだろうか?
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