第3話 特別授業と先生の力

 書斎から訓練場の前まで移動すると、シグルドは扉をゆっくりと開いていく。

 

 日々の鍛錬に使用しているためか、古びた空気などもなくしっかりと清掃された30メートル四方程度の部屋である。

 カエデは昨夜見た夢の影響もあり、シグルドのもとで教育を受けていた頃には繰り返し訪れていた訓練場を懐かしむようにぐるりと見渡した。

 訓練場の床には、長年の鍛錬で刻まれた無数の焦げ跡や剣の傷が散見される。しかし、それが清掃の行き届いた空間と絶妙に調和し、どこか緊張感のある雰囲気を漂わせていた。壁際には魔導書が整然と並び、いくつかの錬成用の台座が置かれている。


「先生、訓練場は綺麗にできるのに、なんで書斎はあんな感じになるんですか?」

「目的が違うからだ。……それはどうでもいい、まずは書記魔法を開きなさい。< Cal im bent owle. >」

 そう言って質問を無視し、小声で呪文を囁くと、書記魔法と呼ばれる淡く光る本が手元に出現する。

 合わせてカエデも、書記魔法を唱えた。

「カリムベントール。どうして先生は古代の魔法を使い続けているんですか?」

 

 カエデがシグルドのもとで習った魔法には大きく2つの系統があった、1つは簡略化された魔法「グリモワール」。

 今、カエデが使用していた魔法が「グリモワール」である。

 対して、シグルドが使用している魔法は「詠唱魔法」と呼ばれる、古代の魔法体系らしい。


 カエデは冒険者として少しだけ世界を旅して理解したのだが、複雑なだけで効果に大きく違いがない詠唱魔法は、とっくの昔に廃れている。なぜあんなに大変な勉強をしなければいけなかったのか、少しだけ不服で、機会があれば質問しようと思っていたのだ。

 

「……確かに、生活や仕事のためであればグリモワールで十分だろう。だが、私の研究や目的のためにはそれでは不足した。それに、私にとっては詠唱こそが魔法なのだ。」

 シグルドは淡々と答えるが、その声にはわずかに懐古的な響きが混じっている。

 

 彼が右手を軽く動かすと、淡い光の粒が空中に浮かび上がり、左手の書記魔法のページがひとりでに動き始める。その動作には、長年の習熟による余裕が感じられる。カエデはその様子に思わず息を呑んだが、彼自身は全く意識していないようだった。

 そして、片手で開いていた本を大きな音を立てながら力強く閉じると、すっとカエデに視線を向けた。

「それよりもそんな事を聞いてくるということは、まさか詠唱の復習を怠っていた、ということか?」


 カエデは思わずぎくりと肩をすくめて、軽く笑いながら言い訳を口にした。

「いやー、ちゃんとやってますよ? でも、最近はグリモワールばっかり使ってたので……」

「フリムスブリデント・ウィッド!」

 言い訳を聞き終える前にシグルドが剣を抜き、淀みなくグリモワールを唱えると。引き抜かれた剣の周囲に絡みつくように風がうずまき、訓練場に残っていたわずかなほこりが舞い散る。

 シグルドの剣先が目の前に迫る。

 カエデは反射的に柄に手を伸ばしたが、何もかもが遅れている。まるで彼の動きだけが、時間を飛び越えて進んでいるようだった。

 胴体のギリギリに剣を突きつけられる瞬間、ようやく柄に手が触れた。それほどの速さを持つ洗練された抜刀と詠唱だった。

 

 シグルドが付与の解除を行いながら、剣を収める。

「このように、確かに咄嗟の戦闘でグリモワールは有利だ。それにしても、少し反応が悪くなっていないか? 剣術の鍛錬も必要か……。」

 カエデは柄に手を掛けたまま、全く動くことが出来なかった。事実ではあるが、歴然とした力の差を見せつけられたような心地だった。

 ――び、びっくりしたぁ! 鍛錬は欠かしていないつもりだったけど。たるんでいたのかな?


「……すまない、少々驚かせすぎてしまった。これも君を鍛えるための一環だ。カエデ、この原形となる魔法を詠唱で行いなさい。」

「は、はい! えーっと。」

 

 不意打ちでの模擬戦に続いて、突然の試験である。カエデは先程の攻撃で飛びはねている心臓を落ち着かせるように深呼吸をしながら、詠唱を思い出していく。

 詠唱魔法はグリモワールと異なり、正確な文法構造と、それに合わせた魔力と感情の操作が必須なのだ。

 ――確か、感情増幅を最初に、次は対象や範囲、効果、最後に属性……順番はあってる? 魔力の動きのイメージは? ……えぇい!やってみればわかるか!

 

  < Fur im's bld ent wid. >

 

 カエデも同様に剣を抜きながら、グリモワールの原形となった詠唱を行うと、シグルドの魔法と同様に風が起こる。

 剣にまとわりついた風を見て、カエデは小さく息を吐いた。正しく詠唱できたことに安堵した。

 

「確かに忘れているわけでは無さそうだ。先ほど示したように咄嗟の争いにおいてはグリモワールが有利な場合も多い。……少し離れていなさい。」


 もう一度ゆっくりと剣を抜くと、流麗な発音で詠唱を始める。

 

  < Fur im'sund bld, ent rag anda slt, wid anda fal.>


 その効果の違いは、一瞬でわかった。詠唱が終わると同時に、静寂を切り裂くように風が爆発的に巻き起こった。その暴風は訓練場の壁に響き渡り、棚の本がガタガタと揺れる。そして、その嵐の中に、少しずつ炎が広がり、暴風と猛火が床を焦がしていく。

「ちょ、ちょっと先生! ストップ! 魔導書が燃えます!」

 轟音にかき消されることなく、シグルドの耳に声が届いたのか。一つ頷くとゆっくりと剣を鞘に納めた。


「このように、グリモワールと詠唱魔法は威力と拡張性において歴然とした違いがある。……そして、詠唱を理解できる者は希少で、君には素養がある。それは忘れないように。」

「……はい。」

「詠唱を深める時間もないだろう? 今回は新たな迷宮に踏み込む際の知識に集中しよう。短期集中となる、覚悟するように。」


 そして、シグルドの講義が始まった。罠の見分け方、特有の地形に隠された危険、毒や魔物への対処法、これらは短時間ではとても習得しきれないほどの内容だったが、カエデは必死に食らいついた。


「毒の兆候、溜まりやすい地形を見逃すな。湿度や臭い、壁面の劣化、それらの全てを、だ。遺跡や迷宮は生きている……それを忘れれば命を落とす事となる。」

「通常、依頼先として利用される事は少ないが、隠し通路の開放と出入り口の閉鎖が連動した。俗に試練と呼ばれる迷宮もある。」

「セルジウスからもたらされた情報の限りでは、今から1000年ほど前の様式であると思われる。この時代に用いられていた主要な罠はこのようなものがあり……。」

 シグルドはそう言いながら、次々と教本や実物のサンプルを用いて説明を続けた。

 カエデは自分の書記魔法にメモを取りながら、時折質問を挟む。教わった内容を反芻する中で、彼女の心の中では少しずつ自信と新たな冒険への期待と高揚が膨らんでいた。



 数日間の授業と訓練を終え、荷物を整えたカエデが訓練場の外に立つと、冷たい風がほのかに頬を撫でた。もうすぐ出発だ。

「準備は十分か? 道具の類はあまり用意がなく、譲れなく申し訳なく思う。」

「いいえ、特別講義のお陰でたくさん勉強ができました。それで十分です!」

 

 カエデがけろりとした様子で自信満々の言葉を放ったことが、逆に不安となったのだろうか。シグルドは訝しむような視線をカエデに向ける。

「……まあいいだろう。だが、どんな準備をしても、戦いの場で試されるのは結局、自分自身の力だ。忘れるな、カエデ。」

「はい!」

 カエデは強く頷くと、寒さのせいなのか、それとも別の理由なのか、少しだけ震える手を握り締めた。

 訓練場の扉が静かに閉じる音が響く。冒険の始まりを告げる風が吹き抜けた。

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