第2話 この世界に落とされた、あの日


 カエデに向けてシグルドは「……私の知識に限る話だが」と前置きをして話し始める。

「端的に言うと、私が知らない勇者の遺物が、ここエスペランサ地方に存在することは考えにくいのだ。それにより危険の可能性も高まると思う。」

「セルジウスくんが言っていたような、疑似迷宮の危険とかですか?」

 彼は頷き、続けて授業でも話したことを思い出させるように語り出した。

 新しく発見された迷宮では、どんな魔物が潜んでいるのか、どのような罠が仕掛けられているのかが全く不明だ。複雑な構造を持つ迷宮に足を踏み入れるのは、訓練を積んだ者でも命の危険を伴うことが多い。

 

「むしろ、最も危険と考えられるのは、私の知識を超えた勇者にまつわる何か。それが眠っている場合だ。」

 彼は静かに語り終えると、カエデの目をじっと見つめた。


 カエデは息を飲み、シグルドの言葉の意味をかみしめながら彼の視線を受け止めた。彼がそこまで真剣な表情を浮かべるのは、やはり、彼自身の過去や「勇者」という言葉に何か特別な意味があるからだと感じられた。


 彼はカエデの表情の変化に気がついたのか、脅しているつもりではないと示すように眉尻を下げ微笑むと、言葉を続ける。

「こうは言ったが、危険な事となるかは今の段階では判断しきれないのだ。 それを踏まえてよく考えてほしい。……もし挑戦するのであれば助力を約束しよう。」


 シグルドの言葉が静かに部屋に染み渡り、カエデはふと視線を落とした。シグルドが危険を語る度、その言葉の奥に込められた重みが胸にずしりと響く。

 彼の目には何か言い知れぬ憂いが宿っており、その表情を見た瞬間、カエデの心に複雑な感情が浮かび上がっていた。


 ――未知の迷宮。命の危険、それも普段とは違う誰かを守りながらの冒険。なんとかなるんじゃないかという甘い考え。それに、先生に認められたいって思い。


「先生。私は、それでも挑戦してみたいと思ってます。ダメ、でしょうか?」


 少し固い声でそう伝えたカエデに、シグルドは静かに頷き、心配げに彼女の目を見つめた。

 シグルドが深いため息をついた後、彼は机の上にいくつかの地図や資料に目を向け、視線を戻す。


「君の意思はわかった。では、明日から特別授業を始めよう。君がこの調査を無事に果たすため、可能な限りの知識と力を授ける。」

 そう言うと彼は準備のためか立ち上がり、書斎から出る。その際に一度振り返ると口を開いた。


「君の部屋はまだそのまま残っているから、今日はそこで休むといい。……もう部屋も不要であれば、帰りしな処分していきなさい。」

「……はーい。」


 カエデは久しぶりに、シグルドの居所にある自室へと足を踏み入れた。掃除に入ったりはしていなかったのか少しだけ空気が埃っぽく、大きく窓を開けた。冬特有の澄んだ空気が一気に入り込み、不意にひと心地つくような気持ちになった。

 カエデがこちらについたときはまだ青々とした空も、すっかりと暗くなっている。

 部屋の中を見渡すと、シグルドのもとでの訓練を行っていた日々をぼんやりと思い出す。

――なんか、ホッとするな。言ってみれば、異世界の実家なのかも。


 そして、簡単に身を清めてから、布団に腰掛けるとすぐに眠気が広がり、ゆったりと眠りに落ちていった。

 シグルドとの再会のせいか、眠り慣れた自室だったからか、その日は「元の世界」と「彼との出会い」の夢を見た。


 ***

 高校に入学してから、少したった日の風景だった。

 部活も、勉強も、周りの期待に応える程度で十分だった。全力を出さなくても、誰も文句を言わないし、自分でも不満はなかった。けれど、そんな"そこそこ"の毎日は、何かを置き忘れているような気がしていた。


 その日、友達と一緒にいつもどおりの通学路を歩いていた。何を話していたのかも思い出せないぐらいで、それが逆に本当にいつもどおりだったとはっきりと思い起こさせる。

 そしてほんの一瞬。そう、瞬き一度ほどの一瞬で、気がつけば私はものすごく寒い雪山に立っていて、眼の前にはとても大きな狼のような動物が一匹。

 肌を刺すような寒さと、強い風が容赦なく全身に叩きつけてきた。そこは白一色の雪山。息が苦しい。喉が焼けるように痛む。

 記憶喪失? はたまた天変地異でも起きたのだろうか、色々考えたはずだけど、分かったことはこのままではこの狼に食べられて殺されちゃうだろう、ということだけだった。


 寒さと恐怖で叫ぶこともできないで、ただ固まるだけだった私の耳に、動物の息や足音とは違う金属と布のこすれるような音が静かに届いてきた。

 ゆっくりとそちらに視線を伸ばすと、ボロボロの布切れのようなローブを身に着けた男が居た。後ろでまとめられた銀髪が吹雪にさらされて、キラキラと煌めくように揺れていた。

 明らかに日本人ではない風貌と、腰にかけられている剣を見て、私は日本ではない何処か、あるいは幻覚の中にいるのだと思った。


 その男はとても素早く、しかしゆるやかに見えるほど優美な動きで剣を抜きながら何かを呟く。

 < Fur im's bld ent rag and slt fal. >

 その声に剣が不思議な赤色の熱を帯びて、温かな光が私のところまで届いてきた。太陽のように燃え盛るような熱が、周囲の雪を溶かしながら広がっていく。

 そして、ふらりと歩を進めたと思うと、次に見えたのは狼が両断された姿だった。剣を振った姿を捉えることもできなかった。



 男は剣を鞘に収めると、私のほうに振り向いて穏やかな笑みを浮かべた。

『まさか、このような過酷な地に落とされるとは災難であったな。』

 聞き覚えの無い言葉が、理解できる。

 とても気持ちの悪い感覚に無意識に顔をしかめてしまった。するとそれを見た男は難しい表情になるともう一度口を開く。


「君の風貌を見るに、この言葉のほうがわかりやすいだろうか。」

 驚いたことに彼は日本語で喋りかけてきたのだ。後で聞いてみた時に生徒には「日本から来た勇者」も多いそうで、彼らから逆に学んだと言っていた。


 色々と世界の説明や自己紹介などを総合すると、いわゆる「異世界召喚」というやつに巻き込まれてしまったようだった。

 そして、彼・シグルドは異世界からの漂流者、「勇者」を保護し教育することを目的に活動しているらしい。

 元の世界に対して不思議とちょっとした寂しさがあるだけで、この状況を受け入れてしまっていた。 いつものように、なんとかなる。だろうとも感じていた。


 それは、彼の手が、私に差し伸べられたその手が。冷たい風にさらされた手の感触が、ほんの一瞬、温かく感じられたからだろうか。


 ***


 夢心地であったカエデの耳に突然、バンバンと扉を叩く音と、シグルドの怒気を孕んだ声が響いてくる。

「カエデ、いつまで寝ているつもりだ。……街での生活についても確認が必要かもしれんな。」

 その瞬間、カエデは目を覚ました。「すみません!」と大声で返事をすると、ざっと身支度を済ませ部屋を飛び出す。


「旅の疲れもあったのだろうが、生活が乱れているんじゃないだろうな? まあいい、訓練場に行くぞ。」

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