第13話
屋敷の自分の部屋の扉を開けると、本はまだ枕元に大人しく横たわっていた。もう昼過ぎだと言うのにまだ寝ているらしい。
私はそっとベッドに腰掛ける。
「……ねえ」
表紙をつつくと、なにやらむにゃむにゃと寝言を言い始めた。呑気なことね、私がこんなに落ち込んでるのに。
いつもと変わらない姿に、まず感じたのは罪悪感だった。「また上手くいかなかった」なんてこの半年間何回も言ってきたはずなのに。時には苛立ち紛れに八つ当たりしたことさえあったのに。
でもあんなに一緒に頑張ってくれて、一緒に喜んでくれた本に、なんて言ったら良いんだろう。
こっそり本を開いてしまったのは、そんな罪悪感と後ろめたさが限界に達してしまったからだ。少しだけ、少しだけだから。本が起きないようにそっと表紙を開く。
早く他の方法を試さなくちゃ。今度こそ上手くいくような、私でも頑張れるような、なにか良い方法を知らなくちゃ。
焦りながら遊び紙をゆっくりとめくった。書いてあるとしたら真ん中くらいかしらね。そう思いながらまとめてページをめくって……そして見つけたのは、真っ白なページだった。
……真っ白なページ?
私は恐る恐る本を持ち上げた。ぱらぱらと全体をめくる。ざっと確認したところ最初の方にはちゃんと文字が書かれていたけれど、五分の一もしないうちに急に文字が途切れているようだった。
「な、なによこれ……」
本はまだ呑気に寝ていて起きそうにない。震える手でそっと一番最初のページから文字を追ってみる。
見覚えのある名前に、心当たりのありすぎる物語。序盤も序盤のところで一度文字は途切れて、そこから別の筆跡で物語の続きが書かれていた。……ちょうど半年前、私が前世の記憶を取り戻したところから。
「……」
筆跡が変わる前の部分には、主人公のエメが破滅ルートを回避する姿なんて全然書かれていなかった。本が私に堂々と教えてくれたことが一つもなかった。
筆跡が変わった後は、私の半年間のことがこと細かに書かれていた。そして私が本を開いたところで、ぴたりと文字が止まっている。次の行からは何もない。空白のページが続いているだけ。
「どういうこと……?」
私が呟いたところで、本がむにゃむにゃとうめき声を上げた。
はっとしたけれどもう遅い。
「……あ? もう昼か? あれ嬢ちゃんなんで帰ってきて……って、うおお!?」
びょいんと本が跳ね上がって、私の手のひらから逃げ出した。
しん、と部屋の中が静まり返る。
「じょ、嬢ちゃん、まさか俺の中……」
本が恐る恐ると言った様子でそう言った。やっぱり私の見間違いなんかじゃないみたい。
本の中には、破滅ルートの回避策なんて書いていなかった。
「……嘘だったの?」
今まであれだけ胸を張って教えてくれたこと全部。私が本と一緒に半年間やってきたこと。
「……」
本はうろうろと視線を彷徨わせるような動きをして黙り込んだ。それが答えだった。
私はすっかり冷え切った指先をぎゅっと握りしめた。「嬢ちゃん、これはな、」と言いかけた本を遮って口を開く。
だってショックだったのだ。
「あ……あなたのことは……信じてたのに……」
勝手に信頼して、勝手に居心地がいいなんて思っちゃって、馬鹿みたい。
いつも私だけがこう。お母様もお父様も、世界の誰もが私のことを嫌っている。愛しているフリだけをして、内心馬鹿でグズで何もできない子だと見下している。
けれど本だけは、あなただけは違うと思っていたのに。
「全部……全部っ、嘘だったんじゃない!」
ヒステリックに叫んで、バン、とベッドを衝動のまま叩く。舞った羽毛がやけにゆっくりと落ちていった。
「私が死なない方法なんて最初からなかったんだわ! どうせあなただって陰で私を見下してたんでしょ!? 馬鹿で無能で出来損ないの、悪役令嬢もどきがでたらめを信じて無駄な努力をしてるって!」
カッとなって、頭の中は真っ白で、ああだめ、やっぱり私はいつもこう。
こんな酷いこと言っちゃいけないって思っているのに言ってしまわないと気が済まない。勢い任せのでたらめな、心にも思っていない癇癪。
だって自分が傷つくのが嫌で嫌で仕方ないから。喚かないと、どうして嘘をつかれていたのか知ってしまうから。先に最悪なことを言っておかないと、馬鹿にされたままで終わってしまうから。
私が臆病なせいで、きっと本はそんなことしないと心の底から信じることができていないから。
「あなたとなんて……あなたとなんて、出会わなきゃ良かったんだわ! 言うことなんて聞かなきゃ良かった! そうしたら最初から諦められた! こんなにみっともなく足掻いて惨めな思いもしなかった! 嫌い、嫌いよ、大嫌い……っ!」
そう叫んで本を睨みつけた。
本は何も言わない。静まり返った部屋に、私の息の音だけが響く。
しばらくして、ぽつりと小さな声が落ちた。
「……そうだな、俺のせいだ」
すっかり気落ちした、弱々しい声だった。
「俺があの時、あんな嘘なんてつかなきゃよかったんだ。できそこないな俺が何したって、やっぱり上手くいきっこなかったんだ」
私がぐちゃぐちゃにしたシーツの上に、本が軽い音を立てて落ちる。
「俺の嘘につき合わせちまって、悪かったよ。……ごめんな、嬢ちゃん」
そのままパタリと横に倒れて、ピクリとも動かなくなってしまった。
ぜえぜえと荒い息が落ち着いて周りが見えるようになった頃、ようやく私は静かすぎる部屋に気がついた。
「……え?」
動いているのは私だけ。思わず目の前の本に手を伸ばして表紙をつつく。動かない。
背表紙をぎゅっと摘んでみる。
「ちょ……ちょっと、ねえ?」
冷たい布張りの本はそれでも動かない。嫌がったり叫んだりしない。
喋らない。
「……嘘、言いすぎたわ、ごめんってば。ねえ、ねえ!」
何の反応も見せない本に、さあっと血の気が引いていった。
どうしよう。
もう、どうしようもないんじゃない?
「……う、嘘をつかれてたんだもの。良かったじゃない、一番大事なところで裏切られるよりも……」
そう言って、無理やりはは、と笑ってみた。引き攣った声しか出なかったけれど。だって心の底では本当に良かっただなんて思えていないから。
出会わなければ良かっただなんて嘘だ。惨めな思いもしなかったなんて言ったのも嘘。本がいなくたって、どうせ私は何にも出来なかった。
絶望するくせに何かする行動力も勇気もなくて、ただ残りの人生部屋に引きこもって罵声を吐くだけだったかもしれない。
みっともなく足掻いたのも、それで上手くいかなかったのも、けれどお昼が楽しいものになったのも、初めて誰かに好きな小説のことが言えたのも、全部本のせいだった。例え嘘を吐かれていたとしても、見下されていたんだとしても、それに変わりはないんじゃないの?
努力もできない、すぐに挫ける、怖がりで勇気がなくて、自分のことが大嫌いで自信すらない私。人生が楽しいと思えたことなんてこの半年間が初めてだった。
そんなものを与えてくれた本は、本当に私を見下してただけだったの?
今更自分自身がそう訴えてくる。でももうダメだ。ダメにしてしまった。だってもう、本の言い訳すら聞くこともできないのだ。結局、私はいつもこう。
「……」
項垂れると長い髪が視界に落ちてくる。
真っ暗な気持ちにうるさいくらいの明るい声をかけてくれる奇跡のような存在は、きっともう現れないだろう。
その日から追放の日まで、私は魔法学園に行くのをやめた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます