第10話
「なあ嬢ちゃん、本当に大丈夫か?」
そう聞かれるのは今日でもう十回目くらいだった。
「だから大丈夫だって言ってるでしょう!」
そう言い返しながら学園の廊下をずんずんと歩く。
どうしてこんな心配をされているのかといえば、私が今日の朝「やるわ、あなたの案」と言ったからだった。つまり他人に優しくしてみるということを。
そこまでは本も大賛成で「おっ!? やる気になったか!」と手放しで喜んでくれた。
「じゃあまずは誰に声をかけてみるんだ? 俺の中の話だと最初は使用人に感謝を伝えてみてだな……」
「エレオノールよ」
「は?」
「だから、エレオノールに優しくするの。取り巻き達がいじめてる現場から救い出す形でね」
本は少しの間逡巡するように黙り込んだ。
「ちょっと最初からかっ飛ばしすぎじゃねえか……?」
「正直私もそう思うわ。でも今から関係を直すってなると、エレオノールが一番効果的なのよ」
半年経ってしまった今、もうのんびり様子を見る時間は残されていない。
使用人や取り巻き達に今更ちょっと優しくしても、大してアルベール様の好感度は上がらないだろう。けれどまずエレオノールへのいじめをやめて、それどころか助けたとなれば話は別なはずだ。
「でもよ、流石にそんな都合良くはいかねえだろ。第一最近別行動してる取り巻きの嬢ちゃん達だってどこにいるかもわからねえし……」
「いくわよ、ほぼ確実にね。だって私の特技は『親の権力を振りかざしたいじめ』なのよ? あの子達がいつどこでエレオノールをいじめるかなんて手に取るようにわかるわ」
私が鼻を鳴らしながらそう言うと、本は「ああそう……」と引き攣った声を返した。
私が向かっているのは、この前アルベール様とお兄様に出くわした人けのない旧棟の廊下。この先にあるのは、司書もいなければ誰も寄りつかないような小さな古い図書館。
エレオノールは定期的にここで小説を借りているらしい、という噂が最近私のところまで届いていた。あの取り巻き達がその情報を使わないはずがないわ。
長い廊下の中程にある、装飾のついた重々しい扉。その陰から中をこっそり覗くと……やっぱりだわ。中からヒステリックな知り合いの声が聞こえてくる。
「ほらね」
「うわ……当たっちまったよ……」
私が胸を張りながら本を振り返ると、心なしかページをげんなりさせながらそう返ってきた。
図書館の中には本を抱えたエレオノールと取り巻き達が向かい合っていた。取り巻きの中では一番家柄が上のメリッサが、エレオノールの本を奪い取って「ふん」と鼻で笑う。
「やだ、エレオノールったら。まだこんなもの読んでいらっしゃるの? やっぱりいくら聖女様でも庶民の悪い癖は抜けないものなのかしら?」
「困るわね、私たちの寄付金で学費を賄ってるのに。いつまで経っても貴族のルールも身につかないんじゃ、ここに通ってる意味がないんじゃない?」
「嫌だわ、私、お父様にお願いしてみようかしら。私達の大事な財産をドブに捨てないでって!」
他の子達も口々にそう言っては皆でクスクスと笑い合っている。
「客観的に見ると凄いわね。庶民相手とはいえ聖女様によくもあんなことが言えるものだわ」
「嬢ちゃんもこの前まで同じことしてたんだが……」
本の声は無視して中の様子を伺うことに集中する。
エレオノールは気丈にも背筋を伸ばして、可愛らしいお顔に少しだけ困ったような表情を浮かべながら口を開いた。
「……そうかしら? どんな趣味を持っていても決して馬鹿にされるべきじゃないわ。むしろ、庶民の文化を知っておくことこそ上に立つものとしてふさわしい振る舞いじゃないかしら」
「な、なによ……」
少しも怯えを見せないエレオノールに、メリッサの方がたじろぎ始めた。
息をひそめてその様子を見守っていると、本が「なあ」とひそひそ声で話しかけてきた。
「……」
「そろそろ出て行った方がいいんじゃないか? 今ならいい感じに助けに行けるぞ?」
「……」
「嬢ちゃん?」
「……ねえ、本」
「なんだ?」
私はそっと目の前の光景から視線をずらす。
「やっぱ帰っちゃ駄目?」
「怖気づいちまってんじゃねえか!」
小声のまま叫んだ本が表紙の角を私にぶつけてくる。地味に痛くてムカつくわね。
「おいおいせっかくここまで来たんだろ!?」
「怖いものは怖いのよ! 無理よ! 無理!」
あんな修羅場の中に飛び込んで行ける勇気などない。
ひそひそとそんなことを小声で言い合っているうちに、メリッサが「何よ!」と叫んで手を振り翳した。思わず二人で喧嘩をやめて図書館の中を見る。
パン! と破裂するような音。マリアの頬に赤い後が浮かんでいる。あらまあ。
「ちょ、ちょっと、メリッサ!」
さすがに慌てた声で端に居た取り巻きが声を上げると、メリッサもハッとした顔になった。
「ふ、ふん! 今日はこのくらいにしておいてあげるけど、今後の身の振り方はよく考えておくことね!」
捨て台詞を吐いて、メリッサ達がエレオノールに背を向ける。
そして私たちがいる方とは別の出入り口からバタバタと出て行った。扉の影にさっと隠れてそれをやり過ごす。
「終わっちまったぜ、いじめ」
じとりとした視線を寄越す本。
「し、仕方ないでしょう。怖いものは怖いって……」
言い返そうと思ったところで、ぼそぼそと小さく声が聞こえてきた。
「……"くだらなく"なんてないのにね」
それはエレオノールの、初めて聞くような声だった。
「ま、どうでもいいけどね。この世界のことなんて……」
いつも明るくて誰もが振り向くような彼女の、ふと溢れたような静かな声。
「……」
私と本は思わず顔を見合わせる。驚いて言葉も出なかった。
それでも本は先にはっとして、「ほら! 今だよ!」と私を突く。
「い、今って……わっ!?」
後ずさろうとしたところで、床の何もないところに躓いた。二、三歩よろめいてドアの影から躍り出る。
しまった、と思ったところで遅い。顔を上げると、目を丸くしたエレオノールとばっちり視線が合ってしまった。
「エメ様?」
頭の中が真っ白になる。
目を丸くしたエレオノールに見つめられて、言おうと思っていた言葉が怯えて喉の奥に引っ込んで行く。代わりに咄嗟に開いた口からろくでもないことを喋りそうになる。
それでも本の言葉を思い出して、ぐっと下唇を噛み締めた。
「わ……」
「わ?」
「私、別に、そういう本、くだらなくはないと思うし……嫌い……じゃなくも、ない、かもしれないんだからね!」
びしりと指を突きつけそう宣言した。してしまった。
すぐ後ろでドアに隠れたままの本が盛大に頭を抱えているのが見なくてもわかった。
「え、は、はあ……え?」
ぽかんと口を開け、丸くなった目をさらに丸くした表情。
「それと!」
「はい!?」
ぴくりと肩を跳ねさせたエレオノールは、完全に私の行動に戸惑っているらしい。
もういいわ、気にするもんですか。すうっと息を吸って覚悟を決めた。
「あなたの趣味を貶したことは謝るわ。……っごめんなさい!! !」
「えっ……あ、ちょっと!」
そうして言い終わるが否や、人生最大速度でその場を走り去った。
図書館の扉を出て猛スピードで廊下を走り抜ける。もう令嬢に相応しくないとかはしたないとか、そういうことなんて考えられなかった。
棟から出て裏庭までたどり着いたところでようやく足を緩めた。流石にここまで来れば大丈夫だろう。
振り向いて、慌てて私の後を追ってきていたらしい本に堂々と言って見せる。
「見なさい、今度こそ成功よ!」
「あれ成功って言っていいのか?」
そう突っ込みを受けたけれど、今の私にとっては些細なことだった。
一人で達成感を噛み締めていると、「やれやれ」と言わんばかりの失礼なため息が聞こえてくる。
「まあでも、嬢ちゃんにしちゃ良くやった方だ。この調子で頑張れば、もしかして本当に破滅ルートも回避できるんじゃねえか?」
頭の上にぽんと乗った本が、珍しくそんな風に私を褒めた。満更でもなくなって「ふふん」とくすぐったくなった胸を張る。
「当然よ、私がどれだけ頑張ったと……」
そう言いかけてから、しかしすぐに思い止まって言い直す。
「……いいえ、あなたを信じてみたおかげね」
本が頭の上で驚いて固まった。
「な、な、なんだよ。急にしおらしくなって……」
「うるさいわね!」
動揺した様子の本に照れ臭さが湧いてきた。咄嗟に悪態を吐きながら、視線を逸らして腕を組む。
「……昨日、あなたの中身がくだらないなんて言って悪かったわ。私にとっては魔術書よりもよっぽど大事な存在よ」
本は言葉を失ったようにしばらく黙り込んで、突然ハッとしたかと思えば急に表紙をバタバタとさせた。
「と、当然だろ!? 俺の中身に間違いはねえって!」
「はいはい」
珍しく照れているらしい。
上擦った声を鼻で笑いながら、私は生まれて初めてと言っていいくらい温かい気持ちでいっぱいになっていた。
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