第5話


「そういや、ふと思ったんだけどよ」

 

 第五展望台からの帰り道、旧棟に入るなり鞄から出てきた本が言った。

 

「俺が奇跡の存在ってんなら、むしろ俺のことを皆の前で見せびらかした方が良いんじゃねえか? そんでお前が魔法で作ったってことにすりゃ良いじゃねえか」

 

「すごい存在だって言われるならやぶさかじゃねえぜ……」なんてちょっと声色を変えた本に、私は半目になりながら答えた。

 

「まあ、考えたこともあったけど……あなたの中身、魔術とか論文とかそういうちゃんとしたものじゃないしね……」

 

 そう返すと、むっとした声が返ってきた。

 

「なんだよ、俺みたいなのはちゃんとしてねえってのか?」

 

 そういえば、こいつにちゃんと教えたことはなかったかもしれない。

 

「そうよ。恋愛小説……というか大衆小説全般、庶民の文化なのよ。一応貴族はあんまり読むものじゃないわ」

 

 私は前世を思い出す前からこっそり読んでいたけれど、使用人や家族にバレたらどんな噂が立つかわからなかったから部屋の隠し本棚に厳重に隠して保管していた。

 それくらい眉を顰められるような趣味だった。

 

「まあ、あのエレオノール様は堂々と読んでるし好きだって公言してるみたいだけど……」

 

 それでも元々の出自が庶民だからかはたまた聖女だからか、一部の私たちのような貴族を除いて馬鹿にされている様子は見たことがなかった。

 きっと後者の理由が大きいんでしょうけど。

 

「ふーん」

「何よ」

「いや、別に? なんでもねえけど……」

 

 本は何か言いたげな顔をしていたけれど、つついてもうんともすんとも言ってくれないので諦める。

 

「ま、それに今の私がそれを言っても、どうせ権力に物を言わせて魔術か何かであなたを作ったとしか思われないわよ。仮に信じてもらえたとしても研究施設に監禁されて人体実験でもされるのがオチよ、きっと」

 

 そんなハッタリで私の周り──特に、アルベール様の気持ちが戻ってくるとは思えなかった。

 公正で平等、どこまでも努力家な彼が一番嫌いなことは嘘だ。

 

「アルベール様だって、私がまた嘘をついたってため息を吐くに違いないわ」

 

 心の底から吐き捨てるように言うと、本は不思議そうに表紙を動かした。

 

「嬢ちゃん、あんなに嫌われてるのにまだ婚約者殿のことが好きなのかよ」

「うるさいわね。私に取っての初恋なのよ! 小さい頃に一目惚れしてからずっと!」

 

 本の中の王子様みたいにきらきらとしていて、優しくて、なんでもできる人。そんな憧れの人が婚約者になって有頂天にならない方がおかしい。

 あいにく、アルベール様はそんな私が嫌いみたいだったけれど。

 当然よね、だって私はアルベール様に敵うところなんて一つもないんですもの。

 

「ずっと……」

 

 それでもずっと、こんなに嫌われた今でもまだ憧れに縋りついている。最後にみっともなく捨てられることだってわかっているのに。

 あ、ダメかも。ここ最近失敗続きで脆くなっていた心にとどめが刺されたみたいだった。

 じわりと滲んだ視界に下を向く。

 

「お、おい、嬢ちゃん」

 

 焦ったような声が聞こえるけど、もう誤魔化せないくらい目に涙が溜まっていた。

 

「わかってるわよ。でも今はちょっと顔が上げられないの。目にゴミが……」

「そうじゃなくて! 前! 前!」

 

 前?

 鼻を啜りながらちょっとだけ顔を上げると、無駄に長い廊下の遥か遠くの先に何やら人影が。……アルベール様とお兄様だわ!

 

「むがっ!」

 

 咄嗟に目の前に浮いていた本を両手で閉じて脇に抱えた。

 腕の中で抗議するように震える本に、小声で「シッ! 黙ってて!」と言いながらぎゅっと押さえつける。……本って呼吸とかしてないわよね? 窒息とかしないわよね?

 

「おや、これはこれは。我が妹じゃないか」

 

 そんなことをしているうちにいつのまにか二人も私のことに気がついたらしい。

 お兄様……レノーヴル家の長男であるレオンお兄様が、意地悪な笑みを浮かべてそう言った。アルベール様と同い年で同じクラスなので、授業終わりに移動でもしていたところなのだろう。

 

「あらアルベール様、お兄様、ごきげんよう」

 

 引き攣った笑みを浮かべてそう返す。

 

「どうしたんだい? こんな学園の端の棟で、しかも一人で」

 

 嫌味ったらしくにやにやとするお兄様。私が最近取り巻き達にすら避けられているのを知っての言葉だろう。

 この人は昔からこうだった。外面はとても良く権力者に媚びるのだけは上手で、けれど立場の弱い妹の私には意地悪をしてばかり。私と同じくらいに性格が悪くて馬鹿な人。

 アルベール様は警戒するようにお兄様の隣で私のことをじっと見ている。私がこの憎たらしい兄になんて返そうかと考えていると、アルベール様はおもむろに口を開いた。

 

「その本は?」

「え? ……あ、ああ、これは……」

 

 しまった、と固まった。

 私は恋愛小説以外の本は読まない。そして恋愛小説なんて外には持って行かない。普段はせいぜいが魔術の教科書くらいで、そんな私が分厚い本を持っていたらそりゃ珍しく思われるだろう。

 しかもこいつの表紙はとても装飾がきらびやかで、可愛らしくて、どこからどう見ても大衆小説の本だった。女の子が、それこそあのエレオノールが好むような。

 私が言葉に詰まったのを見て、お兄様が「おやおや」とばかりに目を細めた。

 

「まさかお前がエレオノール様と同じ趣味を持ってるとはね。仲が悪いと思っていたが、案外気が合うんじゃないか?」

 

 せせら笑うような声。

 駄目だとわかっているのに、ついカッとなってしまった。

 

「……冗談!」

 

 勝手に口が開いて、意地悪な言葉が飛び出ていく。

 

「なんで私が庶民みたいなはしたない趣味を持たないといけないわけ? あんな子供騙しにもならない価値のないお話、興味のかけらもないわね! この本だってそこら辺に落ちてたのを拾っただけよ? 誰がこんなくだらないもの、読んだりするもんですか!」

 

 慣れたようにすらすらとそう言った。

 アルベール様が顔を顰めるのが見えたのに、コントロールが効かない。止められない。

 ああ、またやってしまった。

 

「……人はどんな趣味を持っていてもいいと思うけどね」

「あ、いや、」

 

 ハッとなって口を閉じたところでもう遅い。

 

「それじゃ、僕は失礼するよ」

 

 強張った表情でそう言って立ち去っていくアルベール様。

 その背中を呆然とした気持ちで見送る。

 

「なんだよあいつ、ノリが悪いなあ」

 

 馬鹿で能天気なお兄様は、アルベール様の態度をいまいち理解できなかったようだった。

 当然か。実家が没落しかけていることも、アルベール様が私との婚約破棄を考えていることも、そしてまさか代わりに聖女との婚約をする未来も知らないのだから。

 

「……」

 

 そして私がアルベール様にどれだけ嫌われているのかも。

 黙りこくってしまった私を面白くないと思ったのか、お兄様もアルベール様を追ってさっさと廊下の向こうへ消えてしまった。

 残された私はその場に立ち尽くすしかない。静まり返った人けのない廊下で、脇の本がブルブルと震え出す。

 

「ぶはっ! おいおい、いい加減俺のこといきなり閉じるのやめろって!」

 

 そして私の手から抜け出して開口一番これだ。

 むしゃくしゃとした気分をぶつけるために、私は思いっきり眉を顰めた。

 

「うるさいわね! だからあんたみたいな本と会話してるのなんて見られたら、どうなるかわかったもんじゃないって言ったでしょう!」

 

 完全に八つ当たりだ。でもイライラと悲しさが止まらなかった。

 だってみんなお兄様みたいなことを言うんだもの。アルベール様はあんなことを言うけれど、本当にそんな風に思ってくれる人なんてこの学園じゃほとんどいない。

 あの女みたいに聖女でもない、魔法も使えない、性格も良くない私がそんなことをしたら、一体どんな目で見られるか。庶民の生まれで聖女だから、なんでも許されるあの子のことが妬ましくて仕方がなかった。なんでもできる人だから、なんでも好きでいられることが羨ましかった。いっそ憎たらしいほどに。

 せっかく楽しかった昼食の時間が全部台無しにされたような気分だった。その原因が自分自身にあることも含めて。だから余計に悲しくて、腹が立って俯いた。

 腕の中に抱えた本が、私の罵倒に珍しく黙り込んだことにも気づかずに。

 

「……今日はもう、帰るわ」

 

 すっかり気落ちして、私は次の授業をサボることにした。今までだって気分でそうしてきたので、うるさく怒る先生もいないだろう。

 とにかく今は教室に行っても、ちゃんと授業を聞けるとは思えない気持ちでいっぱいだった。

 

「……おう」

 

 だからいつもだったら「ちゃんと授業は受けろよ」だとか口うるさく言ってくる本は、やけに素直にそう返事をしていた。

 

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