ボロアパート



 エリシアは一時的な拠点として格安アパートを選んだ。




 築数十年の古びた外観、隣の音が筒抜けになりそうな薄い壁、そして床に染み付いた何とも言えない古臭い匂い——環境は最悪に近い。


 しかし、彼女は気にする様子もなく、その部屋に荷物を置いた。




「まあ、長期滞在するわけではありませんし……こんなところにコストをかけるのは馬鹿馬鹿しいですわね。」




 エリシアは視線を部屋全体に巡らせながらそう呟いた。




 天井には剥がれかけたクロス、窓は開けるたびに軋む音を立てる。キッチンはコンロが一つだけで、風呂場は水漏れしそうな古い蛇口が付いていた。


 それでも、エリシアにとっては拠点として必要最低限の機能があれば十分だった。目的を果たすための計画が優先であり、こんなところに贅沢を求めること自体が時間の無駄だと割り切っている。




 彼女は大きな荷物をその場に置き、壁に寄りかかると、少しだけ疲れた様子でため息をついた。




「さて……必要な間だけ、我慢することにしますわ。」




 窓の外には、薄汚れた街並みが広がっている。エリシアはそれを一瞥し、次の行動を考え始めた。彼女の頭の中では、すでにこの場所を出るための段取りが進行していたのだった。




 ふと目を向けた壁に、小さな穴が空いているのが気になった。




「やれやれ……。」




 エリシアはしゃがみ込み、その穴を覗き込んだ。




 そこから見えるのは、隣室の真っ赤な壁紙らしきもの。派手な色合いがこのアパートの雰囲気にそぐわず、なんとも奇妙だった。




「赤い壁紙……趣味が悪いんですのね。」




 彼女は一言呟き、穴を塞ぐ気にもならず立ち上がる。指で少しだけ周りの壁を触ると、砂のように脆く崩れた。




「ま、いいですわ。どうせここに長居するわけでもありませんし。」




 エリシアは壁の穴を気に留めることなく、再び荷物の整理に戻った。この部屋がどれほどボロくても、彼女にとっては目的のために使い捨てる拠点に過ぎない。




 数日後、エリシアは家賃を支払うために大家を訪ねた。そのついでに、例の壁の穴のことを報告することにした。




「一応言っときますけど、最初から空いてる穴ですので、修理費は払いませんわよ!」




 エリシアは強めに念を押すように言った。

 大家は苦笑いしながら、二つ返事で答えた。




「いや……そりゃ全然構いませんが……」




 しかし、その言葉はどこか歯切れが悪い。いつも通りの勢いで話が進まないことに気づいたエリシアは、怪訝そうな顔をして大家を見つめた。




「何ですの?何か気になることでも?」




 大家は少し困ったような顔をして口を開いた。




「あの部屋、生まれつき目が赤い人が住んでるんです。」


「えっ?」




 思わず声を上げるエリシア。隣の部屋の奇妙な赤い壁紙が頭をよぎる。




 エリシアは結局、別の部屋へ移ることにした。




 新しい部屋もボロさは相変わらずだったが、余計なトラブルに巻き込まれる可能性が減るだけマシだと自分に言い聞かせた。


 荷物を置き、一息ついたエリシアは部屋を見渡す。すると、ふと壁の一角に目が留まった。




「……また壁の穴?」




 その穴は前の部屋と同じように、隣の部屋が透けて見える小さなもので、何とも不快な気分にさせられる。




 だが、覗いてみると、前の部屋のような「赤い壁紙」ではなく、ハート柄の奇妙な模様が照明に照らされて浮かび上がっていた。




「はぁ……今度はこれですの?」




 エリシアは少し呆れながら、壁越しの光景を見つめた。


 流石に、「目がハート柄の人」が住んでいるなんてことがあったら驚くどころの話ではない。彼女は軽く笑って頭を振った。




「そんなわけありませんわよね。」




 それ以上考えるのも馬鹿馬鹿しいと思ったエリシアは、壁から視線を外し、再び荷解きを始めた。隣が何であろうと、自分の目的に影響しないなら気にする必要はない——と、そう割り切ることにしたのだった。




 ——カサカサ。




 部屋の片隅から聞こえてきた不快な音に、エリシアは眉をひそめて振り返った。


 すると、床を疾走する黒い影——ゴキブリ!




「キエえエェええぇ〜!」




 突然の訪問者にエリシアは奇声を上げ、足元にあったスリッパを手に取った。普段の優雅な佇まいはどこへやら、彼女は猛ダッシュでゴキブリを追いかけ始めた。




「逃げるんじゃありませんわよ!待ちなさい!そこですわ!」




 ゴキブリはテーブルの下をくぐり、冷蔵庫の横へと逃げ込む。だが、エリシアの目は鋭い。




「見えていますわよ!そこですの!」




 ——バシン!バシン!




 スリッパを手に、必死に仕留めようとするが、ゴキブリは小刻みに動き回り、なかなか捕まらない。エリシアの奇声とスリッパの音が部屋中に響き渡る。




「いい加減におとなしくなさい!チッ……あ、こんの〜!……キエエエえぇえ〜!」




 追い詰められたゴキブリは窓際に逃げ込み、エリシアも最後の一撃に力を込めてスリッパを振り下ろした——!




 エリシアは、スリッパを手にゴキブリとの死闘を終えた後、深くため息をついた。




「やっぱりこの部屋、ボロすぎますわ……。」




 汚い部屋、隙間風、そしてゴキブリ——すべてが耐え難い。これでは仕事どころか、まともに心を落ち着けることすらできない。




「さっさと仕事を終わらせて、こんなところから退散するのが一番ですわね。」




 荷物を片付ける気も失せ、彼女はベッドに腰を下ろしたが、またもや不快な音が耳に入ってきた。




 ——グルグル……ゴボゴボ……。




「えっ?」




 音の正体を探るために耳を澄ますと、どうやら隣の部屋からの音らしい。排水溝のような、トイレから聞こえてくるような妙な音が続いている。




「……これ、トイレの音が丸聞こえですの?」




 エリシアは呆れた表情で壁の方を振り返った。前の部屋では奇妙な「赤い壁紙」だったが、今回はこれだ。




「何なんですの、この物件……!」




 彼女は壁を一瞥しながら不快感を募らせ、改めてこの場所がいかに早く去るべき場所かを再確認したのだった。




 エリシアは今月の家賃を大家に手渡しながら、いつものように部屋の不満を口にした。




「トイレの流れる音?あれがねぇ〜めっちゃうるさいんですのよ〜。まぁ、あなたが悪いわけじゃありませんけど〜。」




 皮肉を込めた言い方に、大家は困ったような表情を浮かべた。そして、少し言いにくそうに切り出す。




「いや……それなんですけどね。」

「えぇ?」




 エリシアは訝しげに眉を寄せる。

 大家は小声で続けた。




「あなたの隣の住人、無口なんですけどね……その代わりに、変な呻き声ばっかり出すんですよ。」


「……は?」




 エリシアの脳裏に、さっきから聞こえていたトイレの排水溝のような音が浮かび上がる。




 ——ゴボゴボ……グルグル……。




 まさか、それが「呻き声」だというのか?

 エリシアは顔を引きつらせながら、大家を見つめた。




「ちょっと待ってくださいまし。それってどういう……?」




 大家はさらにバツが悪そうな表情を浮かべ、目をそらした。




「あぁ……ほら、壁越しに聞こえるあれ、きっとそうなんじゃないかと思って……。」




 嫌な予感が背筋を這い上がるようにエリシアを襲い、彼女はますますこの部屋から早く退散すべきだという決意を固めたのだった。




 しばらくして、このアパートに新たな住人がやってきた。




 大学生の彼は、下宿先としてこのアパートを選んだ。実家は裕福ではなく、バイトでなんとかやりくりするつもりだったので、家賃の安さが何よりの決め手だった。


 しかし、実際に住んでみると、そのボロさに少し閉口した。壁は薄いし、床はミシミシと音を立てるし、天井の隅には怪しい染みが……。それでも、彼は気にしないよう努めた。




「まあ、人間って慣れるもんだよな。」




 そう自分に言い聞かせながら、荷物を片付けていく。

 だが、夜が更けたころ——。




「……ん?」




 彼は耳を澄ました。どこからか妙な音が聞こえてくる。




 ——キエー!キエエエェェ!




「……鳥?」




 最初はそう思った。音がどことなく鳥の鳴き声に似ているからだ。だが、よく考えるとこのアパートには「ペットはご遠慮願います」としっかり書かれていたはずだ。




「誰かこっそりペット飼ってんのかな……?」




 そう思って気にしないようにしたが、その鳴き声は断続的に続き、彼の耳に不気味に響いていた。




「なんだこれ、やっぱ変なアパート選んじゃったか……?」




 彼は小さくため息をつきながら、翌日大家に相談するべきか考え始めたのだった。




 大学生は家賃を支払うために大家を訪ねた。




「これ、今月分です。」




 封筒を手渡しながら、ふと思い出したように口を開く。




「ところで、ここってペット禁止でしたよね?」




 大家は少しぎこちない笑みを浮かべながら答えた。




「ええ、まあ……そうなんだけどね。」




 その返答にはどこか力がなく、大学生はすぐに気づいた。


(これ、絶対何かあるやつだな……。)


 確かに、このアパートには隠れて猫に餌付けしている老婆が住んでいるなど、ルールが徹底されていない部分もある。大家自身も半ば諦めているようなところが見え隠れしているが、それでも一応「ペット禁止」は守られているはずだった。




 しかし、大家の様子が妙に歯切れが悪いことが気になった大学生は、さらに問い詰めることにした。




「いや、本当に。夜中に変な鳥みたいな鳴き声が聞こえるんですよ。隣からっぽいんですけど……。」


 大家は観念したように小さくため息をつき、渋々説明を始めた。




「いや……実はねぇ、あなたの隣の部屋の人なんだけど……怒るとすぐ、“キエエエェ〜!”とか叫んで当たり散らすんだよ……。」




「……えっ?」




 大学生は思わず硬直した。その鳴き声が「鳥」ではなく「隣人」だったことに衝撃を受ける。


 大家は困り顔で続ける。




「こっちだって怖くて仕方ないよー。金払いはいいんだけどさぁ……なんの仕事してるかわからないし。」




 大学生は苦笑いしながら、内心でこのアパートの選択が本当に正しかったのかを深く悩み始めるのだった。

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