一杯のかけそば


 夜遅く、雨が降り頻る中、閉店待ちの蕎麦屋は静まり返っていた。




 店主はもう客は来ないだろうと判断し、洗い物を終え、椅子をテーブルに上げていた。




 ——ガラ。




 突然、店のドアが開く。店主は驚いて振り返る。




「……!」




 こんな時間に客が来るとは珍しい。思わず「いらっしゃ……」と口を開くが、その言葉は途中で止まった。




 ——全身から汗が吹き出した。




 入ってきたのは、外国人風の金髪の女性と、全身がメタリックシルバーの異様な男だった。二人は雨にずぶ濡れになるのも気にせず、無言で椅子に座る。




「あ……、あの、ご注文は?」




 金髪の女性、エリシアがポツリとつぶやいた。彼女の声は低く、どこか不安げだった。




「……かけそばを、一杯。」




 その一言に、店主は驚きを隠せない。




 こんな時間に、しかも雨に濡れたままで「一杯だけのかけそば」を注文するとは、一体どういうつもりなのか。




「そ、そうですか……。お待ちください。」




 店主はとりあえず厨房へ向かい、心の中では不安が広がっていく。彼女たちの目的は何なのか、そして、この異様な男の正体は……。蕎麦を茹でる間も、彼の視線が気になって仕方がなかった。




 店主は蕎麦を茹でながら、ちらりと二人の様子を盗み見た。




 金髪の女性とメタリックシルバーの男が向かい合って座り、どこか緊張した空気が漂っている。二人でかけそばを一杯だけなんて、きっと金の工面に苦労していたのだろうと、店主は思った。




 自分にもそんな時があった。




 金がなく、どうにかして食いつなぐしかなかった日々を思い出す。苦しいものだ。お腹を空かせたまま、どうしようもない状況に置かれるのは、誰にとっても辛い経験だ。




 気がつけば、店主は思わず二杯目の蕎麦を茹で始めていた。




「せっかく来てくれたんだから、温かい蕎麦を食べてもらいたい。」




 心の中でそんな思いが芽生えていた。自分の経験を通じて、他人を助けたいという思いが自然に湧き上がってくる。




「お待たせしました。かけそば、二杯です。」




 店主は、もう一杯の蕎麦を器に盛りつつ、心の中でエリシアとその男に微笑んだ。彼女たちがこの温かい蕎麦を楽しめることを願って、心からのサービスを提供しようと決意するのだった。




 エリシアは小さく何かを呟いた。




「……ですわ。」

「へぇ?」




 突然、彼女の声が一変する。




 ——くわっ!






「たりねええええぇですわ!」




「えっ?」






 その瞬間、ヴァイがいきなり立ち上がり、大声で吠えた。




「おいおい!こんなのわんこそばじゃねえかよ!」




 店主は驚いて目を丸くする。彼の手元から盛り付けた蕎麦がすっかり忘れ去られてしまった。




「そばを“いっぱい”持ってこいって言ったでしょ?聞こえませんでしたの!?」


「そうだぜ!あと10杯は茹でろよ!金はいくらでも出すっつってんだろ〜!」




 店主は愕然として言葉を失う。




「え、ちょ……」




 エリシアは彼女の横に座るヴァイの言葉を聞いて、自信たっぷりに微笑んでいる。まるでこの状況を楽しんでいるかのようだ。




「そうですわ!こんな量じゃ満足できませんわよねえぇ!?」




 店主は「金はいくらでも出す」という彼らの言葉に少し動揺しながらも、蕎麦をもう一度茹でることを決意する。




「わ、分かりました!それではお待ちください!」




 不安と期待が交錯する中、店主は再び厨房に戻り、追加の蕎麦を茹で始めた。




 二人は大量の蕎麦を食べ漁り、満足げに店を出た。




「やっぱ、食べログ星5は伊達じゃありませんわね!」

「あぁそうだな!」




 彼らの声は弾んでいて、満足感に満ちていた。店主はその様子を見送りながらも、少し驚きと戸惑いを隠せなかった。




 ——ブゥううぅん!




 黒塗りの高級車がエンジン音を響かせて、二人を乗せた。車はスムーズに発進し、瞬く間にその場から去っていった。


 店主はその光景を眺めながら、思わず呟いた。




「なんか……違う……」




 彼はその日常の一コマに、異様なものを感じていた。彼らが持つ圧倒的な存在感、そして金銭の力。それがもたらす影響は、彼にとってはただの蕎麦屋の一日を超えていた。

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