買うの?買わないの?



 一人の学生が、いつものように近所のスーパーに足を運んでいた。いつもと変わらない静かな店内を歩きながら、彼はふと何かに気づいた。




「ん?今日はなんか珍しく試食コーナーがある…」




 そこには、ホットドッグの試食が行われていた。




 大きな看板には「本日限定!ホットドッグ試食会」と書かれている。店内での試食イベントはあまり見かけないので、学生は少し興味をそそられた。


 ホットドッグの香ばしい香りが漂い、試食用のホットドッグが一口サイズに切られて並べられている。焼きたてのパンとジューシーなソーセージの匂いに、思わずお腹が鳴りそうになる。




 学生はホットドッグを一口食べると、驚くほど美味しかった。




 パンの柔らかさ、ソーセージのジューシーさが絶妙で、思わず顔をほころばせた。しかし、値札を見ると、その値段は学生にとって少し重いものだった。彼は少し迷い、どうしようか考え込んでいた。




 ふと顔を上げた瞬間――




「え……」




 そこに立っていたのは、エリシアだった。

 しかも、なぜかホットドッグの着ぐるみを着ている。




 エリシアは何も言わずに学生をじっと見つめている。その無言のプレッシャーが重くのしかかる中、彼女は突然、静かに口を開いた。




「買いますの?買いませんの?」




 その声には、独特の威圧感があった。




 学生は一瞬戸惑ったが、すぐに心の中で苦学生同士で編み出したライフファックを思い出した。




 それは、迷うフリをしてもう一度試食をお願いし、結局何も買わずにその場を立ち去るという、少しセコいが有効な手法だった。




「あの…もう一口試食してもいいですか?ちょっと迷ってて……」




 学生は申し訳なさそうに尋ねた。


 エリシアは無言で、冷ややかに学生を見つめ続けた。




 結局、学生はその場で三回も試食を繰り返した。




 毎回、ホットドッグを口に運ぶたびに、彼の内心では「やった!」という満足感が広がっていた。お金を払わずに美味しいホットドッグを何度も食べられたことに、彼は心の中でほくそ笑んでいた。


 そして、ついに意を決したように、学生は軽く微笑みながら言った。




「やっぱ、いいです。」




 そう言い残し、さっさとその場を後にした。


 内心では、見事にライフファックを成功させた自分に得意げな気持ちが湧いていた。財布の中身は減らず、お腹は満たされた。したり顔でその場を立ち去る彼は、自分の勝利を確信していた。




 しかし――




 後ろを振り返ると、エリシアは一言も発さず、ただ無言でじっと学生を見送っていた。




 その目には怒りも苛立ちもない。ただ、無表情で、何かを考えているようにも見える。まるで何かが潜んでいるかのような、不気味な静けさだった。


 学生は少しだけ背筋が凍る思いを感じながらも、足を早めてスーパーの出口に向かった。




 学生は家に帰ると、ドアの前に親からの仕送りが届いているのを見つけた。




 箱を開けると、中には少しばかりの現金と共に、ティッシュペーパーや洗剤、生活用品が詰め込まれていた。




「おお、ありがてぇ。」




 彼は心の中で感謝しながら、スマホにLINEの通知が入っているのを確認する。


 親からのメッセージだった。




「いつもの仕送りね〜」

「サンキュー!助かるわ〜」




 しばらくやり取りが続いた後、次のメッセージが送られてきた。




「あ、そうそう。最近美味しいホットドッグ見つけたから、試しに一個入れとくね。」


「おお!マジで!?助かる〜!」




 彼は心の中で喜び、さっそく箱の中を探すと――そこには、親が言っていたホットドッグが。




 だが、そのホットドッグを見た瞬間、彼の笑顔は凍りついた。




「え……?」




 それは、あのスーパーで試食したホットドッグと同じものだった。




 とはいえ、学生はそのホットドッグを見て、一瞬驚いたものの、すぐに気にしなくなった。




「ああ、ただあの着ぐるみが印象に残ってただけか。」




 彼はホットドッグを手に取って微笑んだ。正直どうでもいい話だった。


 エリシアのことも、試食のことも、すでに記憶の片隅に押しやられていた。むしろ、美味しいホットドッグを手に入れたことが、今の彼にとっては最も重要なことだった。




「これは運がいいな!」




 そう思いながら、彼は軽快なステップでキッチンに向かい、夕食の準備を始めた。ルンルン気分でホットドッグを温め、これからの食事に期待を膨らませていた。




 翌日、学生はいつものように大学に向かい、授業を受けていた。




 授業の合間に時間ができたので、近くの自販機で軽いお菓子でも買おうと歩いていると、友達がやってきた。




「よっ、お疲れっす」

「おう!」




 軽く挨拶を交わし、二人は並んで座った。


 友達は自分の昼食の袋から何かを取り出し、無造作に学生の前に置いた。




「これやるよ、結構いけるぜ?」




 学生がふと見ると、そこにあったのは――あのホットドッグ。




 一瞬驚きで固まりかけたが、すぐに笑顔を作って言った。




「え?……あ、あぁ。そ、そうだな。うまいよな、これ。」




 昨晩も食べたばかりのホットドッグが目の前に再び現れ、妙な既視感に襲われながらも、学生はなんとか平静を保とうとした。




 学生は無気力なまま授業を受けていた。




「——というわけで、食事というのは古来からですね、ただ生きるためだけではなく、自然との調和、そして――」




 どうでもいい内容が延々と続く。学生はメモも取らず、ぼんやりと窓の外を眺めていた。




 そして――




「え……」




 心臓が一瞬、跳ねた。




 窓の下、キャンパスの広場に立つ初代学長の銅像。その影に誰かがいるのを目にした。




 よく見ると、銅像の陰から茶色の細長いものがニョキッとチラチラと見えている。




「ま、まさか……」




 学生の脳裏に、昨日のホットドッグの着ぐるみがフラッシュバックする。




「おい……おい!」




 その瞬間、教授の声が教室に響き渡った。学生は慌てて振り向き、机に向き直る。




「ちゃんと聞いとけよ〜、集中してな。」




 クラス全体がくすくすと笑い声を上げる中、学生は再び窓の外をチラッと見たが、もうその影は見えなかった。




 家に帰り、学生はお腹が空いていた。




 貧乏学生としては、毎日スーパーに行く余裕はない。今日は冷蔵庫にあるもので済ませようと、軽い気持ちで冷蔵庫を開けた。




「ガラ……」




 だが、ドアを開けた瞬間、彼は思わず息を呑んだ。




 ——スウウゥ……!




 冷蔵庫の中には――ホットドッグが二つ並んでいた。




 学生は驚きで一瞬固まった。確か、仕送りではホットドッグは一つだけだったはず。それをもう食べたのに、なぜか目の前にまた二つも並んでいる。




「確か仕送りでは……」




 彼は一瞬、記憶が曖昧になり、自分が知らない間に買ったのか、あるいは他に誰かが入れたのかを考えたが、思い当たる節がない。




「気のせいか……?それとも俺が、いつの間にか冷蔵庫に追加したとか?」




 不安と疑念が入り混じる中、学生は冷蔵庫を静かに閉めた。




 バイト先の喫茶店に着くと、学生はいつも通り制服に着替え、準備を整えた。




 普段は学業優先であまりシフトに入らないが、今日は少しでも生活費を稼ぐために働きに来た。


 だが、着替えを終えると、マスターが妙なことを言い出した。




「あ、これ食べていいよ。」

「ん?」




 学生が振り向くと、カウンターの上に置かれたのは――またホットドッグ。




「あ……」




 学生は無意識に息を呑んだ。


 マスターは気にする様子もなく、困ったように頭を掻きながら続けた。




「いや〜、発注先がさぁ、発注単位を間違ってよこしてくるんだよ。もう、まいったよ〜。」




 彼が指差す方向を見ると、カウンターの上には山積みのホットドッグが置かれていた。しかも、割引価格のラベルがベタベタと貼られている。




「…どうしてまたホットドッグ?」




 学生の脳裏には、昨日からの出来事がよぎり、ホットドッグがまるで自分の周りに付きまとっているように感じられて、少し不気味な気持ちになった。




「まぁ、とにかく食べて。処理しきれないからさ。」




 そう言いながら、マスターは軽い調子で片付けを始めた。




 学生はいつものように客を案内し、料理を運び、皿を洗っていた。




 仕事は順調で、何事もなく時間が過ぎていった。




 だが、ふと気になって外を見た瞬間――




「おぉ!?」




 思わず体が反応し、しゃがみ込んでしまった。




 そこにいたのは――あいつだ。




 学生の心臓がドキドキと激しく鼓動を打ち始める。


 目の前には、昨日の学長の銅像の影で見た、茶色くて細長いもの――いや、ホットドッグの着ぐるみを着た誰かが、今度は喫茶店の外に立っている。




「なんで……?」




 学生の頭の中で疑問が渦巻く。




 ——なんでなんでなんで?




 その着ぐるみの中の人物は、まっすぐにこちらを見つめている。




 明らかに学生に向けられた視線だ。その無表情な着ぐるみの顔と、じっと見つめてくる不気味さが、彼の心をざわざわと落ち着かない気持ちにさせた。


 じっと見つめられるその感覚に、彼は思わず背筋を凍らせた。




 バイトが終わると、学生は逃げるように店を後にした。




 店を出た瞬間から、背後に誰かの視線を感じるような不安がずっとつきまとっていた。




「あっ!」




 ふと目の前の電柱の影に目が止まる。




 そこには――ホットドッグの着ぐるみを着たエリシアが、無言で立っていた。




 彼女はただじっと、何も言わずにこちらを見つめている。




「うわああああぁ!」




 恐怖が一気に押し寄せ、学生は反射的に叫び声を上げ、全力で走り出した。


 心臓が激しく鼓動し、全身に冷たい汗が流れ落ちる。街灯の明かりが揺れ、夜の静けさの中で、自分の足音だけが響き渡る。


 しかし、どれだけ走っても、着ぐるみを着たエリシアの無言の視線が脳裏から消えることはなかった。




 家に戻った学生は、ドアを開けて飛び込み、慌てて扉をロックした。




 ——ガチャ!




 鍵がかかると同時に、緊張の糸が切れた。彼はその場に崩れ落ち、床にうずくまった。心臓がまだ激しく脈打っている。全身が汗でびっしょりだ。




「……ハァ……ハァ……なんなんだよ、あれ……」




 しかし、その安堵も束の間――




 ——ガチャガチャガチャガチャガチャ!




 突然、ドアノブが激しく回され、無理やり開けようとする音が響き渡る。




 ——ピンポーン!ピンポーン!ピンポーン!ピンポーン!




 連続で鳴らされるインターホン。




 学生は恐怖で凍りついたまま、床に身をすくめる。誰かが外にいる。いや、間違いない――着ぐるみのエリシアが、そこにいるのだ。


 彼の体は完全に動かなくなり、冷たい汗がさらに流れ落ちた。




「うそだろ……うそだろ……」




 ドアの向こうから、意外にも聞き覚えのある声が響いてきた。




「ちょっと!回覧板!帰ったんでしょ〜!」


「え?大家さん!?」




 驚いた学生は、恐る恐るドアを開けると、そこには確かに大家のお婆さんが立っていた。彼女はいつも通りの穏やかな顔で、回覧板を手に持っている。




「これ、回覧板ね。よろしくね。」




 学生はホッと息をつき、回覧板を受け取った。


「ありがとうございます……。」




 お婆さんはニコニコしながら去っていく。だが――




「うわっ!」


 学生の心臓が再び跳ね上がった。




 お婆さんの背後に、まるで影のようにエリシアが立っていたのだ。ホットドッグの着ぐるみを着たまま、無言で学生をじっと見つめている。




 なんで気づかねえんだ、あのババア!




 学生は慌ててドアを閉めようとした。しかし――




 ——ガシッ!




 エリシアの手がドアを掴んでいた。




 彼女の力は異常なほど強く、ドアはびくともしない。学生は全力でドアを押そうとしたが、エリシアの力に抗うことはできない。




「なんで……なんでこんなことに!?」




 心臓が激しく脈打ち、学生は恐怖に震えながら、必死にドアを閉めようとするが、エリシアはただ無言で、じわじわとドアを開けようとしている。




 エリシアはズカズカと家の中に入ってきた。




 学生は尻餅をつき、恐怖で後退りする。彼の心臓は激しく鼓動し、息が荒くなっていく。視界が揺れ、体が言うことを聞かない。


 エリシアの目は冷たく光り、無言で彼に近づいてくる。ホットドッグの着ぐるみのままで、その異様な姿が、さらに恐怖を煽っていた。




「な、なんなんだよ……!」




 声は震え、まともに出せない。学生は必死に逃げ道を探すが、足がすくんで動かない。背中が壁にぶつかり、これ以上逃げられないと悟った瞬間――




 エリシアが立ち止まった。


 そして――




 数週間後――。




 大学のいつもの席で、友達が笑いながらやってきた。




「あれ?お前、太った?」




 友達はからかうように大笑いする。




 その声が響く中、隣に座る学生は、無表情でホットドッグを貪り食っている。




 手元にはすでに数本のホットドッグの包装紙が散乱している。




 友達の笑い声にも反応せず、学生はただ黙々とホットドッグにかぶりついていた。口元にケチャップがついていても、拭うことすらしない。その無機質な動作に、友達も徐々に笑いが止まり、表情を曇らせた。




「おい……大丈夫か?」




 だが、学生は答えず、ホットドッグを一口一口、執拗に食べ続けていた。




 夕方、大学生はバイトに向かった。




 今日のシフトはスーパーでのホットドッグの試食担当。彼は黙々とホットドッグの着ぐるみを着込み、試食コーナーに立つ。


 試食を勧めながら、いつものようにホットドッグを差し出す。少し疲れた表情を隠しながら、通りかかるお客さんに声をかけていた。




「いかがですか?試食どうぞ。」




 やがて、一人の女性が試食を口に運び、満足げに一つ手に取りレジに向かおうとした。彼女は、優雅な背中を見せながら去っていく。




「あら!美味しそうですわね〜。」




 その声を聞いた瞬間、大学生はふと違和感――いや、既視感を感じた。女性の後ろ姿がどこかで見たような気がする。




 だが、彼は疲れた表情のまま、無言でその後ろ姿を見送った。




 その背中は、どこかあの日の出来事と重なっているように感じたが、深く考えることはなかった。


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