ハレーション

東山蓮

ハレーション

 真夏日の太陽が、府中競馬場の芝生に陽炎を立たせていた。観客たちは思い思いに過ごしているものの、どこか落ち着きがない。その原因の大半は、今まさに発走しようとしている一世一代の祭典・日本ダービーにあるのだろう。


 フォーエールドライヴはゲート裏で待機しながら、全身を覆う視線の重みに思わず震えた。単勝1.7倍という数字が語る期待。その視線の正体が、自身の血にあることを理解している。父・祖父・曽祖父と3代続けて日本ダービーを制した「ダービー血統」。

 彼の父は、母がフォーエールドライヴをみごもった年にこの世を去った。最後の世代の子である自分が、この偉業を4代へと繋げる使命を負わされている。


「必要なのは俺じゃない。」


 勝負服の袖と手首の境目は、日焼けで手袋をはめたようになっていた。その境界はゆっくりとぼやけていく。フォーエールドライヴの安全毛布となったこの言葉が、震える体に染み込んだ証だった。

 そうしていると、ようやく日本ダービーの開始を告げるファンファーレが鳴り響く。自然と会場全体に緊張感が走った。ファンファーレ中の手拍子は、演奏者には迷惑だと聞いたことがあるが、今日は一段と大きな音で聞こえるような気がした。


頼むから、この血に微笑んでくれ。


 使命は祈りに変わる。各馬がゲートに収まり、息をつく暇もなく開いた。立っているだけで汗を滲ませるような暑さも忘れ、19頭はその世代の、たった一頭のダービー馬を目指して食らいつく。

 激しい先行争いは、出走表明時から逃げを宣言していた3番が制した。あいつは普通じゃ持たないようなペースで飛ばすし、そもそもこのレースの距離である2400mは絶対に持たない。無理に追う必要はないだろう。

 それよりも、己をマークして走る各馬の動向に注意すべきだ。今は体内時計が正確な11番の斜め後ろを確保し、中段やや後ろの10から14頭目にいる。外を回される格好になったが想定内。馬群に閉じ込められてマイペースが保てない方が面倒だ。

 あっという間に先頭の3番が1000mを通過。肌感覚だと59、いや58秒も切ってそうな勢いだ。2番手との差は30mくらいはあるだろう。一頭だけ自滅的なハイペースで走っている。

 第3コーナーの上り坂を上りきったところで、マークしていた11番が一気に速度を上げた。


クソ、おかしくなりやがった!


 第4コーナーまではうまいこと風除けとペースメイカーとして使おうと思っていたのに!このまま一気に進出してしまおうか、いや、そんな予定はない。おおむね予想通りに運んでいるのに、かき回すのは賢明な判断ではない。

 レースは迷いを待ってはくれない。最終の4コーナーに入った瞬間、気がついた。


3番の走りに余裕がある。


 しまった。完全に見誤った。発表されている調教がスタミナ強化メニューだったことをようやく思い出した。あいつは2400m持たせる気で、1000mぶっ飛ばしたあとにペースを緩めていたのだ。そしてそれにいち早く気がついた11番は、残りの1400mを気持ちよく走りきりたい3番を捉えにかかった。

 迷っている暇はない。過集中状態から抜け出したために、疲労の主張を始める左ももをひと叩きしてスパートを開始する。

 自身をマークしていた馬たちもほぼ同時に脚の回転を速めた。

 最終コーナーに入る。外に回して馬群を回避し、進路を確保。ここからは、純粋なスピードの世界。

 歓声も聞こえない。おれの末脚とお前の粘りの勝負だ。一歩、二歩と進むごとに3番の背中が大きくなる。ああ、この快感。サラブレッドに生まれることができて本当に幸せだ。

 脳がびりびりと痺れる。これだ、この瞬間。先頭に躍り出たときの景色。


あと50m。


見ろ!この脚を、走りを、おれに宿った才能を!


激しい追い風がふいた。

黒い影が不気味に揺れる。


 その正体に気がついたのは、ゴールにもつれ込んでからずっと先。ごうごうと聞き慣れない音で耳が埋め尽くされたときだった。


「ああ、俺が差しきっとる」


 腹を打つ低音の喧騒のなかでかすかに拾った声が何度も何度も何度も何度も反芻した。声の主は、興味のないテレビ番組を見るように、掲示板に刻まれた数字を眺めていた。

 ゆらり。そこらじゅうでゆらめく陽炎と同じ、芯を持たない怠惰な仕草でこちら体を向けると、ぱつんと音を立てて左手の白い手袋を外す。


「楽しかったわ」


 指先からポタリと汗が滴り落ちていた。それを眺めていたために、この牡(おとこ)から握手を求められたことに気がついたのは、「どないしはった?」と首を傾げられてからだった。


「いかれてんのか、それとも嫌がらせか?」

「どぉして?...まあ、きみはずいぶん期待されとったみたいやけど。親子4代で〜って。」

「...分かってんならさっさとウイニングランに行けよ。お前の担当が迎えに来てる。」

「おん、行ってくる。あっ、せや、なあ、自分、次どこ走るん?凱旋門、菊、天秋...BCもあんなあ!それとも夏競馬とか前哨戦とか行くん?」


 気持ち悪いほど瞳を輝かせて、子供のように話すウジノサンセットの頬を引っ叩きたくなる衝動を抑えこむ。死ねと言わなかっただけ、褒めてほしい。

 早めに撤退するために自身の担当のもとへ小走りで向かう。


「あっ、こら!サン!」


 人間の慌てた声にふり返ると、黒黒とした瞳がふたつ。こちらに日陰を提供してくださっている。

 

「また走りたいわ。次走決まったら教えてくれへん?自分みたいな走り、はじめてや。今まででいちばん楽しかった」

「.....俺もお前みたいな、才能にあぐらをかいてコミュニケーションを怠ってきたこれまでの馬生が容易に想像できるサラブレッドははじめてだよ。今まででいちばん不快だ」


 できるだけきれいな言葉で嫌味を吐くと、ウジノサンセットの担当らしい中年の男がわかりやすく顔を歪めた。当の本馬はぼんやりとした読めない表情のまま変わらない。きれいに切り揃えられた濡れ鴉の髪から、汗の滴が零れるより前にここから去りたくて踵を返すと、手首を捉えられた。

 成熟した馬とも遜色ない骨と肉付きに、舌打ちが咽頭までせり上がる。


「...秋までには努力してみるわ。どうせ夏はずっと休みやし。暑いのあかんねん、俺。」

「ああそう...」


 またな、とこちらを一瞥すると、どよめきが祝福に変わりだした観客席に飛び込んでいく。もし「また」があったら、次はお前に言ってやるよ。「ああ、俺が残した」って。

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ハレーション 東山蓮 @Ren_East

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