消えない残影
「笹原さん俺、両親もじいちゃんばあちゃんもみんなバリバリ元気で生きてるんすよ」
寂れたアパートを後にしながら、おもむろに言葉を落とす湊。
視線をずらせば、沈んだ湊の横顔が見えた。
「ご健在で何よりじゃないか」
「いや、そういうことじゃなくて……なんつーか、怖いなって思って」
「怖い?」
「この仕事してたら時々思うんす。病院のベッドで家族に囲まれながら老衰できる人間なんて実はめちゃくちゃ限られてて、超ラッキーケースなんだなって。それって裏を返せば俺のじいちゃんとか母ちゃんとかが、将来ああなる可能性も無きにしもあらずってことじゃないすか」
湊は先ほど見た人型のくぼみを思い返しているのだろう。
「怖くてたまらないすよ」と続けられた言葉に、誠人は過去のことを思い出していた。
これほど時が経った今でも、昨日のことのように反芻される記憶。鉄のにおい。蝉の姦しい幻聴と胃酸がこみあげてくる感覚が心の中をざらつかせていく。
それはちょうど、十年前のこと。二十六歳の夏だった。
茹だるような暑さの日。
土曜日の午前0時、駅のホームにいる人は誠人を含め数人で、皆疲れ切った顔で電光掲示板を見ている。日中の猛暑に比べればまだ幾分か落ち着いたほうだが、それでも体力を奪うには十分な暑さだった。汗粒が全身を伝い、シャツがじわりと肌に張り付く。誠人は額の汗を手の甲で拭い、胸ポケットに入っていた携帯電話を取り出すと、営業先からのメールを確認した。
メールは二件。一つは同僚からのもので、もう一つは恋人である
誠人はその時、どちらも開くことなく携帯を閉じた。理由は特になかったが、あえて理由付けするならば、疲れていた、とか後で返信するつもりだった、とかそのあたりだろう。
携帯をしまい、思考さえ茹だってしまいそうな暑さのなかで、誠人は菜穂のことを考えていた。菜穂と付き合ってもう五年が経つ。恋に浮かれ、相手に好かれようと熱をあげていた時間はいつの間にか穏やかな日常へと変わり、存在が当たり前のものになった。
菜穂は幼い頃に父親を亡くし、郊外のマンションで母親と二人暮らしをしている。その母親とは一度偶然鉢合わせし軽い挨拶を交わしたのだが、ゆったりとした口調で話す大人しそうな人だった。菜穂はその後に「今度ちゃんとお母さんに挨拶しに来てほしいな」とはにかみながら言った。照れを隠す時に見せるその表情を無意識に可愛らしいと思ったし、その反面すこし面倒だとも思った。彼女の言う『ちゃんと』とはどういう意味を指すのかもちろん頭の中では理解していた。実際何度も菜穂との未来を想い描いた瞬間がある。しかしそのどれもが現実感というベールに包まれた非現実、という気がしてなんとなく真剣に考えたくなかったのだ。
その日はそのまま家に帰り、散らかった部屋の中で唯一綺麗なベッドへとなだれ込むようにして身を流した。エアコンのリモコンを探し当て、電源を入れる。そして設定温度を二四度へと下げた。
一度菜穂に「そんなに寒くしてたら電気代もったいないよ」と諌められたことがある。好きにさせてくれよ、と呟き、段々と気温が下がっていく部屋の中でそのまま目を閉じた。
目を覚ましたのは、日がのぼってからだった。いつの間にかタイマー設定になっていた冷房はとっくに消えていて、蒸された部屋に容赦ない日光が降りそそぐ。
携帯を確認すると、見たことのない番号から何件か着信がきていた。そして、そのうち一件には、ひとつの留守電メッセージ。まだ覚めない頭のまま、何気なく再生をする。もう一度、再生をする。もう一度、もう一度……もう一度。
誠人がそこに残されていた音声の意味を理解したのは、再生を五回繰り返した時だった。
ゆっくりと、脱ぎ捨てられた服を着て、家の鍵をさがし、携帯と財布をカバンに入れ、玄関に置く。靴を履いて家を出て、階段にさしかかったところでもう一度家に戻る。玄関に置き去りにされたカバンを持ち、再び家を出る。
頭のなかで繰り返されるのは、何度か話したことのある菜穂の友人からの留守電メッセージだった。
『――……もしもし、誠人くん? あのね、誠人くんの番号、何人かに聞いてやっとわかったんだけど、さっき菜穂のお母さんから取り乱したみたいにして電話がかかってきて……菜穂がね、マンションのベランダから落ちて、亡くなったみたいなの。私もよくわからなくて混乱してるんだけど、とりあえず早く誠人くんに言わなくちゃって思って私……』
ぼうっとした頭で菜穂の家への道のりをただ歩く。蝉の鳴き声がやけにうるさかった。
誠人がそこに着いたとき、マンションの前は騒然としていた。
群がる野次馬と、立ち入り禁止のテープをはっている途中の警察官。その中心、赤く染まったコンクリートの上で身体を伏せている女がいた。菜穂の母親だった。穏やかで大人しそうに見えた母親は、立ち退かせようとする警官の手を乱暴に振り払い、瞳孔の開ききった目で何かをしきりに呟きつづけていた。
野次馬をかき分け、彼女が一心不乱に呟いていた言葉の全容を把握した瞬間、身体が粟立つのを感じた。髪を振り乱し、その身体が汚れることも厭わずに、彼女はただ目の前の娘に語りかけていた。
「菜穂ちゃん、菜穂ちゃん、ねえ、いい子だからおうちに入ろう? 痛かったね、痛かったね、でも大丈夫だから……お母さんが何とかしてあげるから」
まるで菜穂がまだ生きているかのように優しく声をかけ続ける恋人の母親。その様子を遠目からにやけた顔で指さす数人の若者。吐き気がした。
母親には、なにも見えてはいなかった。おかしくなっていた。どう見ても死んでいる娘に対して話し続けるその様子は、おぞましいほどに哀しかった。
むせかえりそうな程の鉄のにおいが脳髄を侵し、思考を麻痺させる。
菜穂のことを愛していた。だから早く悲しまなくてはいけない。今すぐ目の前に残された恋人の母親の肩を抱き、その手を止めさせなくてはいけない。しかし、涙が出ない。身体も動かない。自分は本当に彼女のことを愛していたのだろうか。どうして涙がでないのか。重たくてたまらない、耐えられない、手放してしまいたい。自分は、この母親のようにはなれない。
感情の波が押し寄せてくる。手足は汗ばみ、ただ冷たくぶら下がる。感覚をなくした身体はこの非日常のなか、まるで他人事のように浮いていた。
「にいちゃん、にいちゃん大丈夫か」
どれくらいの時間が経っただろうか。かさついた低い声に誠人が顔を上げると、水色の作業服に身を包んだ初老の男がこちらを覗き込んでいた。いつの間にか母親の姿はなくなり、沢山いた野次馬も減っている。あたりには何やらメモをとる警察と、男と同じ作業服を着た作業員が慌ただしく動いているだけだった。
「俺……菜穂は……」
「にいちゃん、亡くなった姉ちゃんの縁戚か?」
「……えっと」
「ああ、すまん、……無神経やったな」
一瞬、悪い夢でも見ているのではないかと思った。焦げ付いてしまいそうな日差しがマンション脇に植えられた花を枯らし、夏枯れしたそれがこちらを見ている。熱気で蒸された血の匂いとハイターの匂いが混ざり、胃の奥底から酸っぱいものがこみ上げるのを感じた。
「さっき、警察が母親を連れて行ったよ。事故か自殺かはわからないけど、当たりどころが悪くてな、あんな風に……。この姉ちゃんはここで終わったかもしれないけどよ、こんな風に残されちゃったら、終わらないし、終われないよなぁ。だってこっちは生きているんだもの」
やめてくれ、と言おうとした口は動かない。呼吸が荒くなり、上がってくる胃酸が濃くなっていく。
「それでもこっちは生きてかにゃならんのよ。辛いだろうが、戻ってこんといかんよ、にいちゃん」
♢ ♢ ♢
「笹原さん? どうしました?」
「いや、なんでもないよ」
あれから一年後に、ずっと開くことのできなかった菜穂からのメールを開いた。どんな恨み言が書かれているのか、と身構えていたが、そこには『前食べたがってたシュークリーム、近くのコンビニに売ってたよ』とだけ書かれていた。
そこで初めて、ああ、彼女は本当にいなくなったのだな、と思った。
「……急に死なれたら困っちゃうよな」
それからそれまでやっていた仕事を辞め、特殊清掃員の仕事に就いた。心のどこかで残る後ろめたさへの戒めのつもりだった。あるいは、許されるに足る理由を探し求めていたのかもしれない。菜穂がどうして死んだのか、何を思っていたのかはもう二度と分からない。本当にただの事故だったのかもしれない。この先一生答えが出ない問いが産むのは後悔と未練だけだった。
「そうですよ。笹原さんも長生きしてくださいよ、まずは禁煙っすよ禁煙」
「はいはい、ありがとね」
時間薬なんてものは存在しないし、鼻腔に染みついた鉄のにおいは一生消えない。「それでもこっちは生きてかにゃならんのよ」という男の言葉が頭に響く。車の窓を開けると、ほのかに金木犀の香りがした。
「……怖くてたまらないな」
誠人が呟いた言葉に、湊は返事をしない。ひとり言となったそれは、秋の夕暮にただ消えていった。
残影を偲ぶ 結木あい @yumeko_yunoki
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