残影を偲ぶ
結木あい
線香の煙
鼻腔に染み付いた鉄のにおいが、脳をじんわりと蝕んだ。
澄んだ冷気が地面の土から漂い、身体に湿気を孕ませていく。木陰から漏れ出したぬるい陽炎の筋が、緑を枯らしている。住宅街から少し離れたところにあるこの裏山は人の気配がなく、手入れが行き届いていない木々が鬱蒼と茂っていた。
「……さん、笹原さん!」
束の間の安らぎを少ししゃがれたハイトーンが破る。声の聞こえた方を見ると、頭に黒いタオルを巻き、マスクを顎までずらした青年が怪訝そうにこちらを覗き込んでいた。
「こんなとこで何してたんすか? しばらく車で待ってたんですけど、全然戻ってこないしバックレたのかと思いましたよ」
「あー、すまん。すぐに戻ろうと思ったんだけど」
「……まあ、サボりたくなる気持ちも分かりますけどね。俺ら、ニオイのせいで寄り道とか絶対できないし」
「今日はあともう一件か」
「そっす。えーと確かここからそんなに遠くないアパートっすね」
「そうか、じゃあすぐ向かおう」
無造作に停められた車に乗り込み目的地を確認する。その横で湊はふうと息をつき、冷房の温度を二度下げた。この明け透けな青年とチームを組んでもう一年になる。仕事場に向かう時は、湊が助手席で誠人が運転席、というスタイルが定着しつつあった。
昼下がりのやわらかな日差しが入り込み、車窓から見える木々は鮮やかに色づき始めていた。
「ここ、か? ここだな」
目的地のアパートは、車を一五分ほど走らせたところにあった。
「……うわぁ、予想はしてたけど結構さびれたとこすね」
周りは雑草が茂り、日の当たらないところに建つアパートの壁面には草のツルが伸びていた。その他にもコンクリートのいたるところにひびが入っていて、全体的に近寄りがたい雰囲気をまとっている。誠人は心の中で湊に同感し、車の後部座席に積んでいた防護服を取り出した。ずしりと重いビニールの質感が両手に伝わってくる。
「鍵は?」
「事前に大家さんから受け取ってます。……えーと、あー、あったあった、これっす」
「ん。これは……孤独死だな」
「はい、夏場じゃないだけまだマシってとこすね」
厚い防護服をはさんで湊がため息をついた。
「……開けるぞ」
ねちゃり、と粘着したドアを開けると、耐え難い死臭が誠人たちを包んだ。防護服をも通り抜けて伝わってくる、こもった熱気の生温かさに誠人は思わず顔をしかめる。
どこか甘さを含んだタンパク質の腐った臭いにはいつまでたっても慣れることがない。そればかりか、数を重ねるごとに嗅覚が過敏になっている気さえした。
狭い玄関に置かれた靴は履きつぶしたサンダルが一つだけ。先に続く廊下にはそのままにされたチラシ類や溜まった督促状が散らばり、床の隙間を埋めていた。
「ああもう……換気くらいしといてほしいすよね。ご遺体は警察が持ってっちゃってるからまだいいけど、実際現場で一番キツイのって俺ら清掃員すよほんと」
湊が咳き込みながら言う。彼の言葉はもっともだ。孤独死や自殺の場合、特例がない限りは遺体が撤去されてからの作業となる。しかし部屋の主がいなくなってもなお濃密に残る死の痕跡は、特殊清掃員として長く勤めている誠人でさえくるものがあった。
奥の部屋に入ると、臭いはより一層強くなった。日当たりが悪く、淀んだ空気が広がる六畳一間。その中心に敷かれた薄い布団には体液がしみ込んでおり、茶色くくぼんでいる。人型に残った跡は悪臭を発し、蝿や蛆が数匹たかっていた。かたわらには髪の毛のような黒い束がかたまり、そこに人がいたということを生々しく連想させる。
テレビ一つない部屋の中、枕元にはさびた扇風機と、脱ぎ捨てられた男物の靴下、そしてチラシの上にそのまま置かれた果物ナイフ。横にはそのナイフで剥かれたであろう梨の実が転がっていた。
干からび水分を失った梨と、蒸発した水気によってしわついたチラシをそっとゴミ袋の中に入れると、誠人はその場で手を合わせた。静かな、それでいて張りつめた時間が流れる。
「梨、食べてたんすかね」
湊がぽつりと呟く。
脳裏に浮かんだのは、音のない静かな部屋で背中を丸めて一つ一つ梨を剥く、寂しい男の姿だった。
湊の言葉に返答することなく、布団をめくりあげる。下には冊子のようなものがいくつか散らばっていた。
「これは……」
「保険のパンフレットすか? 何冊もありますね」
「生命保険のものがほとんどだな。自分が死ぬことが分かってたみたいだ」
病を患っていたのだろうか。部屋を見渡してみると、病院で処方されたと思われる薬の残骸がいくつかあった。
「この写真、一緒に写ってるのは娘さん……とかすかね」
保険のパンフレットに紛れて落ちていた写真には、不機嫌そうに顔をそむける高校生くらいの少女と、四十代後半くらいだろうか、おどけた表情でポーズを作る作業服姿の男の姿がうつっていた。裏には二〇〇八年六月、と記載してある。十年前の写真だ。
「亡くなってた方、奥さんと離婚してからここで一人暮らしをしてたっぽいっすよ。ろくに働けてなかったせいで生活はかなり苦しかったみたいっす。家賃もよく滞納してたって大家さんがぼやいてましたし」
「その元嫁と連絡は取れたのか?」
「いや、そこは絶縁状態らしくて。でも、一人娘とはつながりがあったみたいす。実際今回俺らに清掃を依頼してきたのも大家さん経由とはいえその娘さんですし」
これは後でご遺族の方に渡しましょ、と写真を端に置くと、湊はそのまま布団を畳み上げた。幸い下の畳には体液は染み込んでおらず、比較的スムーズに作業を進めることができた。
悪臭を放つ布団類を全て密封袋に入れ外へと運び出す。部屋のものは遺品としてそのほとんどを遺族に渡す必要があるため、慎重に選り分けなければならない。整理していく内に、身に着けるものや嗜好品で新しいものが一つもないことに気が付く。スマートフォンは型落ちした古い機種。数枚しかなかった衣服はくたびれ、シミのついたものばかりだった。
「笹原さん、ちょっといいすか」
湊の言葉に顔を上げると、神妙な面持ちをした湊の後ろに一人の女が茫然と佇んでいた。家主の遺族だろうか。うつむいたその顔は見えない。
「すみません、まだ中、終わってなくて……」
誠人が話しかけると、女は顔を上げ、何度か浅く息を吐き出した。
数秒間、きまずい沈黙が流れる。
「ご遺族の方、でしょうか。この度は……お悔やみ申し上げます」
耐えかねた誠人がもう一度声をかけると、女はこくり、こくりと二回頭を下げた。
ひゅう、と口元から空気の漏れる音が聞こえる。血の気が引き、すこし白んだその顔は、ついさっき写真で見た少女の面影が残っていた。
「わたし……大家さんに言われて」
か細く消え入りそうな声色を聞き、はっとして着ていた防護服を頭まで脱ぐ。女は誠人の動きを一瞥することもなく、たどたどしく言葉をつづけた。
「その……腐敗が進んでいたって聞きました。見つかるのが、遅かったって。だから、えっと……遺体の確認も流れ作業で。あの、父は本当に、ここで?」
女の震えたまつげの先は、暗い部屋の中に向けられていた。しんと静まり返った廊下には誰もいない。残っているのはかすかな腐敗臭と、家全体に染みついた家主の生活臭のみだ。それでも、女の視線は貼りつけられたように部屋の中を凝視していた。
「……布団の横に梨の実が剥かれていました。きっと梨を食べてたんだと思います。自分で皮を剥いて。そして食べてるうちに眠くなって、ひと眠りしようって感じで横になって、苦しむこともなく眠るように亡くなったんだと、思います」
誠人はそう言うと、布団に付いていた人型のくぼみを思い出した。広がることなく付いたその痕跡は、暴れることも苦しむこともなく、ただ静かな最期を迎えたことを物語っていた。
「においが……こんなにおい、嗅いだことなくて」
「……はい」
「ずっと来なくちゃって、ちゃんとしなきゃって思ってたのに、わたし、なんで」
ふるりと、見開かれていた女の瞳孔が揺れる。そして少しずつ玄関に近づくと、一足しかなかったサンダルの前でゆっくりと崩れ落ちた。
「……梨は、わたしが父に送ったものだと思います。でも、父を気遣って送ったとか、そういうのじゃないんです。多くもらったから、ただちょっとした気まぐれで。あの人、すぐお礼のラインを送ってきたんです。すごい嬉しそうにはしゃいで、絵文字なんか使っちゃって……それなのにわたし、返信もしなかった」
すす汚れたサンダルを両手でつかみ、うずくまる女はそのまま続ける。
「わたし、何も言えなかった。お父さんが病気だって分かってからも優しくなんてできなかった。うまく話せなかった。今日だって、大家さんに言われて初めてここに来て……。一人で死なせちゃった。この人、最後までこんな、ずっと一人で、すごい臭くなって、どうして、どうして、こんなに……」
喉からやっと絞り出した悲痛な嗚咽がその場に響き渡る。それは、誰に向けたものでもない憤りのようだった。行き場がない怒りの矛先は自分自身へと向かう。その耐え難い痛みを、誠人は知っていた。
幼い子供のように声を上げて泣きじゃくる女に、誠人は何も言うことができなかった。
どれくらいの時間が経っただろうか、ふと香ってきた線香の匂いに顔を上げると、黒いスマートフォンを持った湊が立っていた。
遺品であるそのスマートフォンを受け取った女は、そのまま震える手で電源を入れた。
「は……はは、なにこれ、わたしとのライン画面じゃん」
力なく笑った女の顔がぎゅっと歪み、ほろほろと大粒の涙がこぼれ落ちた。
「ねえお父さん、何を言おうとしてたの? 分からないよ、これじゃ……」
暗い玄関で、スマートフォンの液晶だけが光っている。ふと見えたトーク画面には一方通行で終わった父親のラインと、送られることのなかった『(^^)』の顔文字だけが残っていた。
陶器で出来た線香立てを置きながら、湊が口を開く。
「……俺たちは何にもしてあげること出来ないですけど、最後に供養してあげるのも仕事の内なんです。よかったら……本当によかったらなんですけど一緒に弔ってあげませんか、お父さんのこと」
湊の言葉に、娘はうつむいていた身体を上げる。そして突っ伏していた玄関から部屋の中を見て、涙の痕が付いた顔でゆっくりとうなずいた。
かつて布団が敷かれていた場所には娘と父親が並んで写る写真が置かれ、その前に花束と線香を並べた。物がすべて持ち出され、殺風景となった部屋に秋風が流れ込み、線香の煙を揺らす。写真の中に写る父親は上気した顔で、とても楽しそうに娘の肩を抱いていた。
「お父さん」
写真に向けて小さく語りかけられた言葉の先は無かった。どうしようもできないことを押し殺し、まぶたを震わせながら手を合わせるその姿は、か弱く痛々しい。それでも、彼女は静かに、父の死と向き合おうとしていた。
鼻を刺す腐敗臭が線香の香りに紛れ、少しだけ、薄らいだ気がした。
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