第5話 籠宮紗代という人

 籠宮紗代という人がいる。

 五年前、いつも私の隣で絵を描いていた人。

 妙に人懐こく、やたら私にかまってきた迷惑な人。

「大天才」と謳われていた、私とは何もかもが違う人。


 紗代とは、美術学校に入学してからの仲だった。

 式が終わり、校内を案内されているところから、話は始まる。

 どこにいても絵の具の匂いのする校舎の中で、私はまるで戦場へ赴くような顔立ちでいた。

 様々な石膏像やモチーフがいくつも置かれている棚や、生徒や教授が描いたのであろう絵画が並ぶ壁。全て、私には見慣れないものばかりの景色だった。

 そして、今教授が話している言葉。

 私が身を固くしている一番の理由。

 この、海を越えたはるか西にある異国の地では、当然使われている言葉も全く違った。

 使う言葉も、背の高さも、髪の色の明るさも違った人たちで溢れかえる廊下を歩く途中、おずおずと袖を引かれた。

「ね、あなたってもしかして、この言葉通じる……?」

「えっ」

 すぐ後ろを歩いていた黒い髪の少女が話しかけてきたのだ。

 私が故郷で使っていた言葉で。

「その言葉、なんで……」

 思わず同じ言葉で返した私を見て、少女は花が咲くように笑った。

「よかったぁ……! 私ずっと不安だったの!」

「はあ……」

「ね、隣歩いていい?」

「……お好きにどうぞ」

 警戒して、思い切り構えている私に、少女はぐいぐいと詰め寄ってきた。

 思った通り、私と少女は故郷の国が同じだった。

 彼女曰く、故郷を遠く離れて心細かったところに、私を見かけ、もしかしたらと思わず声をかけたそうだ。

 夜を閉じ込めたかのような黒い髪。襟のついた真っ白なシャツと、藤色のベレー帽。そして、葡萄色をしたプリーツのスカート。ほんの微かだが、花のような香りもした。

 一瞬で彼女との身分の差を悟った。

「私、籠宮紗代っていうの。あなたの名前は?」

「……恒久夕希」

「夕希ちゃんだね! これからよろしくね!」

「……はい」

 紗代は、故郷の国や歳が同じである私をいたく気に入ったらしく、その後も紗代から一方的に話しかけてくるようになった。

 これが、また厄介なものだった。

 私が苦学生であると気がついた日から、過剰なまでに世話を焼いてくるようになったのだ。

 私が昼食を食べていないと分かれば、学食へ引っ張り、お金を持っていないと言えば、奢るからちゃんと食べなさいと、半分叱りながら勝手に注文を進めてしまう。

 素描の実習のたびに隣に座ってきては、鉛筆や筆や絵の具を、頼んでもいないのに私に貸してきた。

 一番面食らったのは、鼬の毛でできた面相筆を私に貸してきた際、そのまま譲ると言い出した時だ。慌てて押し返そうとすれば、その手を制し「絶対気にいる」と、的外れなことを言って、受け取ってくれなかった。

 共に過ごすほど、紗代の人物像が浮き彫りになっていく。どうもこの人は、あらゆることに対して優しすぎる。言葉を選ばずに言えば、世間に対して甘い。

 いくら私が哀れに見えたとして、出会って数ヶ月もない人間をここまで甘やかすその親切心は、不可解を超えて、もはや気味が悪かった。

 きっと、家族から花のように育てられたのだろう。世間知らずな箱入り娘の彼女を、私は不気味に思いつつ、心のどこかで軽蔑していた。

 あの日までは。


 その日は、最初の課題の講評日だった。

 身の回りの空気全てが凪ぐような、それでいて全身の細胞が騒ぎ立つような感覚が、私の体を駆け巡った。

「講評が始まる前に、あなたに一番に見てもらいたかったの」

 そう言って、紗代は笑う。

 十八の可憐な少女が描くには、あまりにも荘厳な絵の隣で。

 目を見開く私の前に立っていたのは、王者のようにその木に佇む、大きな鳥を描いた絵だった。

 地層の断面図のような胸元の羽毛。鼈甲飴のような黄色い虹彩と、その中心には真っ黒な瞳孔。

 その絵は、完璧だった。

「鷹……」

「そう、ハイタカだよ」

 紗代は絵の側から立ち上がり、私の右隣へ立った。ただそれだけで、息を軽く圧迫される。

「私ね、鷹が好きなの。なんだか、ずっと見つめられると、殺されちゃいそうな気がして」

「へえ……?」

「ごめん。変だったかな」

「いえ、別に……」

「そう? ありがと」

 上の空で紗代の声を聞いているうちに、号令の鐘の音が響いた。

 私の絵の評価がどうだったか、よく覚えていない。そもそも自分がどんな絵を描いていたのか、もう私には思い出せない。

 覚えているのは、紗代の絵は講評でも絶賛されていた事くらいだ。


 籠宮紗代は、絵を描くために生まれてきたような人だった。

 紗代は本当に美しかった。肌は白く、左目の目元には黒子があり、夜空の色をした瞳には、冬空の一等星のような気高い光が宿っていた。

 きっと、故郷の古くからの言葉で「大和撫子」と形容されるのだろう。彼女ほど、この謳い文句が似合う女性はいない。

 何よりも目を引くのは、絹のような長い黒髪。

 月から地上へ降り立った姫君の御伽話がある。彼女の髪はまさに、幼い頃私の心に描いた姫君の御髪おぐしと瓜二つだった。

 その傷ひとつ付いたことのない肌や、長い黒髪を、絵の具が汚してしまうのを気にしないほどに、紗代は絵を描くことに情熱を注ぐ人だった。

 彼女の描く絵に、才能に、誰もが魅了された。「美しい」と、誰もが口を揃えた。

 そんな、絵画における大天才は、いつも私の隣に座り、私のことを助けてくれていた。

 だから、辛かった。


 私は、紗代とは何もかもが違う。

 絵画に少しだって情熱を注ぐことができないのだ。

 無駄に疲れるし、労力の割に大したものができる保証はない。絵は本気になればなるほど苦しいものだとしか、私は思えなかった。

 全てにおいて、紗代は私と真逆の存在だった。

 そんな私に、紗代は過剰なまでに親切にしているのだ。お下がりとはいえ、鼬毛の面相筆を譲ってくるほどに。

 あの時渡されたこの筆は、私はまだ一度も使えていない。完全に重荷となっている。

 紗代は私の事を勘違いしている。無意識に、私に同じくらいの熱量を求めてくる。重たい親切心と共に。

 きっと、このままではお互いに良くない。

 この価値観の齟齬に、私は今苦しんでいるし、いずれ紗代も傷ついてしまうだろう。

 早く彼女の誤解を解いて、私のもとから離れていってもらおう。


「私、絵を描くの好きじゃないんです」

 昼休み。雲の多い日だった。

 校舎庭のベンチでスケッチ帳に鉛筆を走らせていた。顔を手元に向けたまま、私は切り出した。

 紗代が今どんな顔をしているのか、想像に容易い。

 分かっている。美術学校の制服を着ている人が言うような言葉ではない事くらい。

「……彫刻科行きたいってこと?」

「なんでそうなるんですか」

「だって、夕希ちゃん……」

「そもそも私、この学校に通う気なんか無かったんです」

 私は、ちらりと紗代のほうを見た。想像した通り、紗代は心底不思議そうな目で私を見ていた。

 再び視線を手元のスケッチ帳に戻す。

 話すつもりはなかったが、嘘をついたとて、その先ずっと誤魔化しきれる自信がない。なのでいっそ、全てを正直に話してしまおう。

「何もできない落ちこぼれの子。でも、他人より少し上手く絵が描ける。それだけの理由で、父と母は私を船に乗せました」

 美術学校に入学させるという話が出た時、私は必死になって反対した。

 この学校は、私の家が通うには、金銭的にあまりにも無理があるところだったから。

 上手く描けるだけであって、それが画家の才能に直結する訳ではない。確かに私は絵を描くことしか能のない人間だが、他に出来る仕事をきっと見つける。無理して通う意味なんかない。そう説得した。

「まあ……結局、押し切られてしまったんですけどね。何故なんでしょうね、光るとでも思ったんですかね、私の絵の才能」

 ふう、と鼻でため息をつきながら空を向く、ちょうど雲が日の光を蝕むところだった。

 景色全てが暗い灰色がかった色になる。私と紗代の肌も、くすんだ色に染まっていた。

「でもやはり、私はここでも落ちこぼれました。分かってましたけど」

 入学してから、これまでいくつも課題が出されているが、私の絵が高く評価されたことは一度も無い。

 皆、私の絵を悩ましげに眉を顰めながら見つめ、そして、ため息をつかれながら修正点などを指摘される。自分の絵に自信がある訳では全くないが、これをされて良い気分にはなれない。

 本音を言ってしまえば、今すぐにでもこの学校をやめたかった。でも、両親が無理をしてまで、私に期待してここに通わせていることが枷になり、やむなくここにいる。

 それが、紗代がやたらと世話を焼いている、私という人間の正体だ。

 私は紗代の方へ顔を向けた。

「だから、紗代さん。もう私に構うのはやめてください」

「え……?」

「あなたには、もっと関わるべき人が沢山います。話を聞いて分かったでしょう? こんな落ちこぼれに世話を焼いたって、何にもなりません。もっと絵を学ぶ意欲のある人と交流したほうが、ずっとあなたのためになります。私は、もともとここに来るべき人ではないのですから」

「……」

 話が終わった後も、紗代は、変わらずこちらを見つめている。

 瞳孔と虹彩が同じ色をした目。無の表情。体の内側で、冷たい錘の感触がした。

 彼女があまりにもころころと表情を変える人だから忘れていた。黒の瞳は、本来は感情を読まれにくい、少し不気味な目だということを。

「……では、私は教室に戻ります。これも、お返ししますね」

 紗代の膝の隣に、面相筆を置く。

「……これ」

「私への同情なのか知りませんが、このような物を、そうやすやすと他人にあげてはいけませんよ」

 寒気のようなものを背中が背負い込む前に、私は校舎庭を後にしようとした。

 校舎内に足を踏み入れる直前、肘あたりの袖を引かれた。

「待って、夕希ちゃん」

 振り返れば、再び真黒な目と視線が合う。

 眉間に皺がよるのを感じながら、私は口を開こうとした。

 だが、私が何か拒絶の言葉を喋るより、紗代の言葉が先だった。

「あなたは落ちこぼれなんかじゃないよ」

「えっ」

「私は、あなたがここに来てくれて本当に良かったと思ってる」

「急に何の話ですか」

「あのね、――

 その美しい造形をした顔の、美しい音を奏でる唇は、ひどく優しい言葉を紡いだ。

――夕希ちゃんの描く絵、私は好きだよ」

 私はこの時、生まれて初めて息を呑むという行為をした。

 左胸の近くに落ちた言葉は想像以上に重く、返事を紡ぐのに、かなりの時間を要してしまった。

「私の絵が……?」

「そう、あなたの絵が。きっと、あなたの両親も、私と同じこと思ったんじゃないかな」

 紗代の言葉に、きっと嘘はない。

 だからこそ、不可解だった。どうしてあなたほどの人が、私にそのような言葉をかけることができるのだろう。

「……知ってるでしょう。私の絵、一度も褒められたことないですよ」

「だからって、その絵に価値がないということにはならないよ」

「……綺麗事を」

「かもね、でもこれが私の本心だから。夕希ちゃんの絵が無価値だって、私は思えない」

 雲の隙間から、真昼の碧い光がさす。

 紗代が私に何かを握らせてきた。私が返したばかりの面相筆だった。

「この筆の価値は知ってる」

 面相筆を握らせるように、紗代の両手が私の手を包んだ。

「だからこそ、あなたに使ってほしいの。夕希ちゃんには、もっと何不自由なく絵を描いて欲しかったから」

 握られている手を振り払えない。

 何かを言おうにも、なぜだか何も言葉が見つからない。

「だから、ここに来るべき人じゃないって言わないで。私はもっと、夕希ちゃんの描く絵を見ていたい。何よりね、私はあなたの隣で絵を描いていたいの」

「……」

「……だめかな?」

 私はすっかり、困り果てていた。

 長い沈黙の末、折れたのは私だった。

「……分かりました、もうそんなことは言いません。これからもあなたの隣で描いてあげます」

 どんなに意固地になろうとしても、結局流されてしまう。昔から直せない、私の性分だ。

「良かった」

 困ったように眉尻を下げるのは、紗代の微笑む時の癖だ。真正面から見るのは初めてだった。

 紗代に袖を引かれるまま、先程まで座っていたベンチに連れ戻される。

「昼休み、まだあるでしょ。もっと描いていようよ」

 紗代がスケッチ帳を開く、紙同士の擦れる渇いた音がする。

「……そうですね」

 彼女の隣に、再び腰を下ろす。

 心臓に灯された特殊な律動に、名前をつけるのはやめておくことにした。

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