第4話 黄金色の部屋
悲鳴を上げる体を無理やり動かす。つま先の感覚があやふやなまま、ユキは依頼主の家へ向かっていた。
「し……死ぬかと思った……」
昼頃には帰してもらおうと思っていたものの、結局、一日中あの牧場で、手伝いという名の強制労働をさせられてしまい、ようやく解放された頃には、日はかなり傾いていた。
「ふざけんなよ、仕事の邪魔しやがって……あの男ぜってぇ許さねえ……」
怒ろうにも体力がついてこないせいで、身体の中でぐるぐる巡るばかり。何とか声はいつも通り出せるので、誰も聞き耳を立てていないのをいいことに、普段使っている敬語を崩して、あの男に対する鬱屈した怒りを外に出していた。
暗くなる前に家に辿り着けるだろうか。不安に思いながら、街灯の無い野原の道を歩いた。
なんとか太陽が沈む前に帰って来ることができた。玄関に手をかけ、体重をかけて押し開ける。
「ただいま帰りました……」
今にも倒れてしまいそうな身体を引き上げながら、ユキは家に入った。
「……あれ」
返事が返ってこない。
玄関を進み、あたりを見回したが、セピアがかった灰色の閑寂な壁と家具があるばかり。家には誰もいなかった。
「……どこに出かけたんだろ」
不思議に思ったが、まずは荷物を置きに行こうと、廊下を歩き出したその時だった。
「……?」
一筋の光が、灰色をした侘しい空間に、まるで金色のインクで数字の1を書いたように、ぽつりと佇んでいた。
あの扉が、少しだけ開いている。
依頼主……シルヴェリオから開けてはならないと言われていた扉だ。
ユキはその場所をじっと見つめた。
「……」
その時の彼女が何を考えていたのかは、彼女自身にも分からなかった。
過酷な肉体労働のせいで疲れ果て、考えが鈍っていたのかもしれない。
あるいは、「怖いもの見たさ」だったのかもしれない。
また、あるいは……
燃えるような
使い古された木造のベッド。細かな刺繍飾りの絨毯。女性の絵が飾られた額縁。そして、花瓶の置かれた小棚。全てが黄金色と橙色に染められていた。
ユキはその場に貼り付けられたかのように動かず、ただその景色に息を呑んでいた。枯れ葉のような色をした瞳が、夕陽の橙色に染められていた。
「なんだ、寝室か。そりゃ入っちゃ駄目だね」
ほろほろと揺れる息でそう呟いた。
運よく綺麗なものを見れた。さっさと扉を閉じて自室に戻ろう。ユキは扉を閉めようとした。
「……あれ」
なぜだろう、足が動かない。腕も、扉を閉めようとしてくれない。
気がつけば、ユキの息はがたがたに震え、体はひどく
体の芯が熱い。何かが背中をぞくぞくと駆け上がる。この衝動は、この熱は、この症状は……。
――絵を描くという行為は、麻薬を摂取する行為とよく似ている。
ひたすら、衝動のまま求めずにはいられなくなるのだ。
気がつけばユキは、床にスケッチ帳を広げ、一心に木炭を滑らせていた。
この景色を、少しでも永遠のものにしなければ。他のことなんか今はどうでもいい。閉じ込めなければ。額縁の絵も、絨毯も、窓から溢れる黄金の光も、全部。
何かに追われるように、ユキは描き続けた。ひたすら怖くて、同時に興奮も覚えていた。
何かが溢れてくる。何かが再び熱をもつ。心臓が今までにない程に早鐘を打っている。
頭がぐちゃぐちゃに掻き回されて、ただただ怖い。何が何だか分からなくて、ひたすら体が辛い。
だけど、だけど――
「たのしいッ……!!」
沢山の声にならない言葉が、喉の奥でじたばたと暴れ回る。そんな混沌とした空洞からようやく溢れ出たのは、幾千もの感情のうちのたった一つだった。
黄金の時間が茜色に変わる頃、ユキの手は止まった。
これ以上は描けない。部屋の色が変わってしまったから。
「……綺麗だ」
溢れた茜色が、木炭の暴れた形跡の上に落ちる。ベッド、肖像画、絨毯、そして花瓶の置かれた棚。
「……」
あの小棚の中に、何が入っているのだろう。
ユキ息が震える。蝋燭に火の灯るような、ほんの小さな好奇心だった。
何を物色しようだとか、そんな野蛮なことではない。ただ秘密を暴きたいような、後悔すると分かっていても知りたいと思うような、幼い子の抱くような、純粋で愚かな探求心だった。
ユキの片足が、境界の向こう側を踏んだ。
――中に入ってはいけない。そう依頼主に言われただろう。
警告の声が聞こえた気がしたが、ユキには聞こえなかったようだった。
窓の向こうは、一面の茜空。部屋に浮かぶ小さな埃すら、金色に光っている。
外と中を隔てる額縁から溢れた黄金色の断片が、ユキの体の輪郭をぼやかし、落ちる影を橙色に染めた。
ユキは小棚の前に着き、その場で膝をついた。
漆で塗られた、珈琲色の小棚。
引き出しに手を掛けた。
「……っ」
ふと視線を感じ、目線を上げると、絵の中の女性と目が合った。
沈んでいく太陽のような色をした髪。深い海のような碧い瞳。顔立ちは若々しく、ユキとそこまで歳が変わらないように見える。
何となく、絵画に咎められたような気がした。
「……少し覗くだけですから」
ユキは言い訳をするように呟いた。
まだ依頼主は帰ってきていない。今ならバレることはない。
ほんとうに、少し覗くだけ。きっと大したものは入ってない。今はこの好奇心を抑え込まないと、どうにかなってしまいそうだ。蝋燭のような小さな炎でさえ、触れれば火傷を負うほどに熱いのだ。
無理やり自分を正当化して、ユキは小棚の引き出しに手をかけた。
引き出しは思ったよりも軽く、あっさりと開いた。
「……日記?」
中に入っていたのはたったひとつ。革でできた表紙の、簡素な手帳だった。紙が少し黄ばんでいる。おそらく、シルヴェリオが若い頃に書いたものだろう。
「……ほらね、何もなかった」
あっという間に燃え尽きた好奇心を嘲笑うように、ユキは寂しく呟いた。
直後、ユキは小さな悲鳴をあげた。玄関を開ける重い音が聞こえたのだ。
「やばっ」
小棚を押し戻し、大慌てで部屋を出た。
「……帰ってたのか」
部屋を出て、二階に駆け上がろうとした直前、シルヴェリオから声をかけられた。
「え、はっ、はい。部屋に戻りますね!」
裏返った声をそのままに、そそくさとお辞儀をして階段を登った。
おそらく、バレていない。そう分かっていても焦りは抑えられなかった。
「おい」
部屋の扉に目をかける直前、階下から呼び止められた。
背中に氷を押し当てられたような感覚が走る。何かやらかしてしまっただろうかと、必死で頭を回した。
「はい、何でしょう!」
「夕飯を作る。食わせてやるから手伝え」
ぽかん、と間抜けな音が鳴りそうなほどにユキは呆気に取られてしまった。
「え?……わ、分かりました」
小柄な女性と老人が、共に台所に並んでいる。一見すれば、孫と祖父に見える景色だ。
「食卓拭いてこい」
「はい」
雑な命令口調でも、文句の一つも言わずにユキは従う。
食卓に布巾を滑らせるユキを見て、シルヴェリオは呟いた。
「……嫌がらないんだな」
「まあ、仕事の範囲からは外れていますが……少なくとも、夕飯がいただけるという報酬があるので」
「……そうか」
食卓を拭き終わり、洗い場に持っていく。
シルヴェリオが鍋の火を止め、スープ皿を取るのを、布巾を絞りながら眺めた。
使い古した鍋の質感、花柄の陶器のスープ皿。深い皺の手。湯気や、仄暗い家の灯り。なかなか絵になる構図だ。
だが、あの時のように、瞳はその景色の色に染まらない。体に何かが走る気配も感じられなかった。
「お前の分だ」
そう言われて渡されたスープは、自身の思った以上に注がれていた。
「あの、こんなにいりません」
慌ててユキは皿を返そうとした。
だが、軽くその手を静止される。
「遠慮はしなくていい。手伝ったら食わせると言ったはずだ」
「それは、そうなんですが……」
「まともに食ってないんだろう。その体を見れば分かる」
心臓が苦い鼓動を響かせた。とっさに俯いて表情を隠し、唇を噛む。
その言葉は嫌いだ。何よりも尊いはずの親切心が、ただでさえ小さい胃袋をじわじわと縮めてくるから。
「……ありがとうございます」
苦い面立ちで、ユキはスープ皿を受け取った。
月の光が、窓の形に切り取られている。
用意された小部屋のベッドの上で、ユキはスケッチ帳を眺めていた。
あの夕刻の、あの部屋の絵。
仕事で描いている、当たり障りのない絵とは違い、完全に自分の見え方、自分の線の引き方で描かれている。
「……何かを必死で描くなんて、いつぶりだろう」
ユキはもともと、そこまで絵を描くのが好きではなかった。むしろ嫌いだとも言っていい。
無駄に疲れるわ、労力の割に大したものはできないわで、やるだけ苦しいものだと考えている。
だが、他の稼ぎ方をユキは知らなかったため、渋々筆を折らずに続けているのだ。
それでも、一度だけ、ユキは絵への情熱を灯した事がある。
「……」
嫌なことを思い出しそうになり、ユキは少し乱暴にスケッチ帳を閉じた。
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