第3話 養豚場にて

 「……どうしよう」

 酒瓶と小袋を見つめながら、ユキは呟いた。

 実のところ、このような絵画や芸術とは縁がなさそうな土地でどうして依頼が来たのだろうと、道中ユキは疑問に思っていた。

 何となく予感していた通り、まともな依頼じゃなかった。

「こんだけボロボロの絵を再現しろなんて、鬼畜もいいところだ……」

 いつ製造されたかも分からない酒瓶の絵の再現。原画についての唯一の手がかりは「その辺を歩け」という、あまりにも抽象的すぎるもの。

 この、視界がほぼ草原の土地を歩いたところで、何が分かると言うのだろう。かといって、これ以上あの老人から何かを聞けそうにない。

 悩みに悩んだが、とうとうユキは決断した。

「歩いてみるか、その辺……とりあえず、隣の牧場まで向かってみよう」

 一方的とはいえ、お金を受け取ってしまったのだ。今更断るのはユキにはかなり難しいことだった。

 酒瓶とスケッチ帳をそれぞれ両手に抱え、八方塞がりになってしまった哀れな修復師は歩き出した。


 「疲れたぁ……」

 情けない声と共に、牧柵へ寄りかかる。さすが農村地、「隣の牧場」といっても、その距離はかなりのもの。その場の適当な思いつきで行動してしまったことを、ユキは後悔した。

 ろくに体力も無いユキの体にとっては、ひたすら長い道を歩くだけでもなかなかの苦行になる。短い足と靴底が悲鳴を上げていた。

 疲れ切った目でぼんやりと睨むのは、景色の大半を圧迫する水道橋と、未だ遠くの方に聳え立っている三つのサイロ。

「……ん」

 もそもそ、すりすりと、子供に袖を引かれるような感覚がした。

 振り返り視線を落とすと、牧柵の内側から数匹の豚がユキの元へ寄ってきていた。服やスケッチ帳の匂いが気になるのか、執拗に朱色の鼻を近づけてくる。

「何も持ってないですよ、私は」

 大声で追い払うことも、歓声をあげて撫で回すこともしない。困ったように少しだけ微笑みを向け、囁く。

 薄紅色の生き物達は、しばらくふがふがと匂いを嗅いでいたが、やがて興味が失せたのか、ユキのそばを離れて行った。

「随分と人懐こいな。この子達……」

 ユキは不思議に思ったが、視線を酒瓶に移すと盛大なため息をついた。

 絵になるほどの絶景があるのかと微かに期待していたが、どこに行っても、特に目立つ景色はない。似たようなものばかりが続く景色に、溺れてしまいそうだ。

「もういっそ、適当にそれっぽいのを描いてしまうとか……」

 自分で言ったものの、すぐにその考えは打ち消した。

 流石にそれは依頼主に失礼すぎる。自身の評判に響くようなことは絶対にしたくない。

 ともすれば、一番現実的なのは……

「ダメ元で酒場で聞いてみるか……?」

 酒については、もともと苦手で飲まないためにかなり疎かった。だが、新しい酒瓶を買わずに、修復師を依頼してくるあたり、もうすでに売っていない商品なのだろう。

 つまり、酒場に行っても望みは薄い。酒瓶のラベルなんて、わざわざ覚えておく人などいるのだろうか。

 赤黒い酒瓶を、光に透かす。

「あれ……?」

 ユキはある箇所に目を止めた。

 汚れと損傷だらけで、微かにしか分からないが、ラベルの右端に大きな弧がいくつも描いてあるのが確認できた。

「……?」

 体の中が渦巻くような、不思議な感覚にユキは陥った。頭が、必死で何かを掘り起こそうとしていた。

 この景色、すごく見覚えがある。ついさっきまで、見たことがある気がする。

「あっ」

 ユキは顔を上げた。ラベルと、今見えている景色を照らし合わせる。

 視界の右にある、どこまでも続く水道橋。牧柵の内側にいる、薄紅色の毛皮をした生き物。遠くに描かれている、三つの背の高いサイロ。

 デ・キリコの絵をのどかにしたような、昼下がりの牧場。

 全て、ラベルの絵と一致した。

 ユキは凝り固まった魂を吐き出すように、長く息をついた。

「……その辺歩けば分かるって、そういうこと……」

 呆然とした声で微かに笑う。何でこうも分かりにくい言い回しをしたのだろう。

 ともあれ、モデルとなった土地は見つかった。これだけでも大きな一歩だ。

 ユキはスケッチ帳を開き、木炭をポケットから取り出した。


 一通り描けた景色のスケッチを中断し、柵の向こう側にいる豚のクロッキーに取り掛かる。

 動物はあまり描いたことがない。豚ともなれば尚更描き慣れていなかった。

 よく見て、隅々まで観察して、既に三ページが丸々とした生き物で埋まっていた。

「おい」

「ん?」

 不意に声をかけられ、ユキは振り返った。

「……え」

 「でっか」と言いそうになり、寸前で声を飲み込んだ。

 もともと小柄な体格をしているためか、ユキはものを見上げる癖がついている。それでも一番はじめに見えたのは土で汚れた洋服の胸元だった。

 さらに視線を上げ、ようやく声の主と目が合う。

「あ、あの時の……」

 タオルで巻かれた頭。薄い琥珀色の目。依頼先に行く際に、道を教えてくれた人だ。

 ユキは立ち上がり、丁寧に頭を下げた。

「あの時は道を教えてくださり、本当にありがとうございました」

「……」

 男性はユキを見下ろし、低い声で尋ねる。

「子供がこんなとこで何をしている」

「は?」

 ユキの顔が、ぱきっと強張った。それに気がつかなかったのか、男性はしゃがみ込んで目線を合わせてきた。

「爺さんの親戚か?」

「いや、あの、どこから突っ込めば……」

 ユキが慌てて訂正を入れようとするも、男性はまじまじとユキを観察した後、勝手に納得したように大きく頷き始めた。

「なるほど、お前さては家出だな? それで爺さんのとこに逃げ込んできたんだろ?」

「違います」

 冷静に否定する。

 だが男性は眉間に皺を寄せて苦笑するだけだった。

「そうだよな、認めたくないよな。小僧」

「間違ったまま話進めないでください。あと私は男ではな――

「まぁ何でもいい、俺も丁度人手が欲しかったんだ」

「だから私は……って、ちょっ何するんですか!」

 男性はユキの腕を掴むと、のしのしと大股で歩き始めた。

「仕事、手伝え」

「嫌です!」

 地面に踏ん張り、抵抗しようとするも、あっさりと引きずられてしまった。

 下手をしたら肩ごと引き千切られるのではないかと思ってしまうほどに、男性の腕は逞しかった。

 力じゃ敵わない。一眼見た瞬間から分かりきっていた事だが、掴まれた腕がビリビリと痺れていくのを感じ、ユキは改めて痛感した。

 ……少しだけ手伝って、さっさと解放してもらおう。

 これ以上抵抗する勇気も失せ、せめて男性と同じ速度で進めるよう、ユキは早足で隣について歩いた。

「俺はテオドーロ。テオとでも呼べばいい。お前は?」

「ツネヒサ」

 こいつに名前を呼ばれるのは何となく癪にさわる。教えるのは苗字だけにした。


 両手でギリギリ抱えられるほどの大きな袋を、全身を使って抱える。

 家畜用の飼料が入っている袋の何種類かをバケツに入れて混ぜ、餌台まで運ぶ。たったこれだけの作業だが、ユキにとって袋を持つことでさえ重労働だった。

「軟弱だな、お前」

 同じ袋を軽々と片手で抱えているテオの、ぼそりとした呟きが、容赦なくユキを抉る。

 カチンと青筋が立ったものの、言い返す強い言葉が咄嗟に思いつかない。

「本業じゃあ……ないのでねぇ……!」

 結局口から出たのは、絞り出すようなガタガタした呻き声だった。

 結局、仕事があることと、あくまで手伝うだけということは分かってもらえたものの、それにしたってこの労働はユキにとっては拷問そのものだ。数回しか往復していないが、もう既に身体がボロボロになっていた。

 汗だくになりつつ、なんとか一通り作業を終えたユキは、崩れるように床にへたり込んだ。埃だらけの軍手を外すと、手のひらは真っ赤に熱くなっていた。

「次こっちやってもらうからな」

 テオが容赦なくこっちへ来いと手招きしてくる。

「……手伝いの範疇超えてますよね?」

 じとっとした目でユキは睨んだが、彼はさっさと台車を走らせてしまった。

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