第2話 牧場にて
ユキは汽車を降りてすぐ、小走りでホームを後にした。
依頼を受けた行き先は、この町からしばらく離れた所にある牧場。最寄りまで駅馬車を使う。
汽車が停車する時間と、駅馬車の発車するまでの時間が少ししか無いため、急がなくてはならないのだ。
迷路のような駅の中を、案内板を頼りにきょろきょろと彷徨わないよう進んでいく。トランクがユキの身体に対して少しばかり大きく、がちゃがちゃと走るのを邪魔する。
ユキが停車場に着く頃には、馬車が今にも出発しようとしていた。
「待ってください!」
静かな早朝の空気に、鳶ような声が高く響いた。
幸い、その声は馬車に届き、ユキは急いで車内に飛び乗った。
早い時間にもかかわらず、馬車はそれなりに人が乗車していた。馬車の中は、比較的治安の良かった汽車の二等席とは、雰囲気が全く違う。煙草の煙が、視界を遮ってくるほどに多く、ぜえぜえと息をするユキの肺を埋め尽くしていった。
いきなり馬車を止められた苛立ちからか、はたまた旅行者が物珍しいのか、皆、ユキをじろじろと見下ろしている。
ユキはトランクを抱きしめ、気まずく俯きながらも警戒して隅に座った。
この馬車しか依頼が来ている牧場への最寄りに行かないのだ。それに、ここよりもっと治安の悪い駅馬車や列車もある。無法地帯よりは幾許かマシな方だろう。煙草の煙に頭痛を催しながらも、そう自分に言い聞かせ続けた。
停車場に着く頃には、早朝の灰色で薄暗い空は、真っ青な天井へと姿を変えていた。
「……ぷはぁ」
最寄りで降りた瞬間、ユキは大きく息をついた。
いつまで経っても、煙草の煙は苦手だ。ひとつ息を吸うたびに寿命が縮んでいくような気がする。頭の痛みが引いていくのを確認しながら、ユキは周囲を見渡した。
視界のほぼ大半を、青か緑が占め、その中に埋もれるようにぽつぽつと建物が存在している。振りかえれば、汽車で見たあの水道橋が、未だ遠くに、緑色の草原と青色の空を一直線に分割していた。
スケッチ帳に挟んでおいた、住所と地図を確認しながら歩き出す。どうやらあの水道橋に近い所に、牧場はあるらしい。
駅周辺は市場やら酒場やらで賑やかな町だったが、ここは自分の歩く足音と、時折吹く風の音くらいしか耳に入ってこない。
草原と、小道と、遠くの水道橋と、たまに牧場の柵。
こういう目立つような特徴がない道は苦手だ。一面ののどかな草むらは、ちゃんと目的地へ向かえているのだろうかと、じわじわと自信を無くさせていく。
不安に思いつつ歩き続けていると、周辺の匂いに独特のものが混じり始めた。
牧場の匂いだと、ユキはすぐに気がついた。微かだが動物の鳴き声も聞こえる。良かった、どうやら道を間違えてはいないようだ。
二股に枝分かれしている道を、ユキは睨みつけていた。
「どっちだ……」
遠くの景色を見てみたが、どちらの道の先にも、畜舎らしき建物が見える。
「……はぁーめんどくさい」
地図を確認しようとポケットから探り出し、広げた。
「……えーと」
道順を覚えるのも苦手だが、地図を読みとくのはそれ以上に得意ではない。トランクを地面に置いて腰掛ける。今、どこにいるのだろう。
苦手な作業に悪戦苦闘し、もう失礼を覚悟で賭けに出てみるか、と思い始めた時だった。
来た道の方から、幌馬車がゴトンゴトンとゆっくり近づいてきた。
馬車を操縦しているのは、タオルを頭に巻いている大柄な男性。この土地の人だと、ユキは瞬時に理解した。
声をかけるにはかなりの勇気を必要とするような人物だが、ここでずっと地図に苦戦するよりはと、ユキはトランクから腰を上げた。
「すみません、道をお尋ねしたいのですが」
思ったよりも大きな声が出てしまった。
馬車は止まってくれたものの、ギロリと不機嫌そうな視線を向けられる。薄い琥珀色の目は、まるで猛禽類のよう。上から押さえつけられるような視線に、ぎゅっと体に力が入る。
怖気付いてはいけない、ただ道を聞くだけだ。そう心で唱えながら、口を開いた。
「シルヴェリオという方の経営する牧場は、どちらでしょう」
「……」
男性は黙ったまま、右側の道を指差し、自分は反対の道へと馬車をゆっくりと走らせて行った。
「……ありがとうございます」
ユキは頭を下げ、再び歩き出した。
ドアベルを鳴らし、しばらくして現れたのは髪も髭も灰色をした老人だった。
「はじめまして、絵画修復師のユキと申します。シルヴェリオ様でお間違いないでしょうか」
「ああ、間違いない」
鈍い雷鳴のような声だった。
限界まで伸びきっている髪と髭は、入り交じって絡み合っており、ほぼ同化している。「白い獣のようだ」と、ユキは心の中で呟いた。
淡々とした冷たい声で、ユキは挨拶をする。
「この度はご依頼していただき誠にありがとうございます。数日の間ですが、お世話になります」
顔面の谷底から光る、氷のような青い虹彩。その中心に、黒い瞳孔がくっきりと浮かんでいる。
睨まれているわけではない。長い間この国で暮らしてきた為に、その事は分かっていた。だが、この萎縮感は数年経っても未だ拭えたことはない。
「入れ。ついて来い」
「……失礼します」
頭を下げ、老人の背中について行く。
今日からここに泊まり込みで仕事をする。依頼された手紙に、泊まり込みを許可すると書かれていたことには少し驚いたが、宿を取る必要がないのはかなり嬉しい。
老人の家はとても簡素なものだった。テーブルやタンスなど、ひとりが生活する際の必要最低限のものは置いてあるものの、それ以外のものは一切置いていなかった。
廊下を進んでいくと、ある扉の前で、老人が足を止めた。
どこにでもある、普通の扉だった。重たい茶色の木材に、長い円筒状のドアノブが付けられている。老人は扉に向かって指を刺した。
「この家のどこにいても構わない。だが、この部屋にだけは入るな」
「了解いたしました」
数日とはいえ、他人が自宅で生活するのだ。こうして最初の方に教えておいた方が、トラブルが少なくて済む。ユキ自身も、変に面倒ごとは起こしたくない。
この扉にはなるべく近づかないようにしようと、頭の中に入れておいた。
「この廊下の先に階段がある。そこを上がった所にある部屋がお前の自室だ」
「はい」
「……さて、仕事の話に移るとしよう。テーブルで話す。トランクを置いたらすぐに来なさい」
ユキは「了解しました」と頭を下げ、トランクを抱え直し、小走りで階段に向かった。
「……え?」
目の前に出された空の酒瓶を前に、ユキは呆気に取られていた。
「聞こえなかったか? お前の仕事はこの酒瓶の修復だ」
老人はユキに酒瓶を押し付けた。
「いやその、聞き取れはしたのですが……」
赤黒い硝子でできた円筒が、ユキの小さな手に収まる。かなり古いものであると、触って実感した。
直すのは、古びた酒瓶のラベルだと言う。この、大半がボロボロに剥がれ落ちた絵を、直せというのだ。
――流石に、これは……。
ユキは絞るような声で老人に顔を向ける。
「申し訳ありません。いくらなんでもこれは、私には修復は不可能です」
「なら紙に再現しろ。ラベルの絵の部分だけでいい」
「えっ」
何を言っているのだろうかこの人は。
一瞬思考が停止しかけたものの、なんとか持ち直した。修復は無理だが、再現するとなれば、私でもなんとかなるかもしれない。
「このラベルの絵がどんなものだったのかを教えてください。完全再現は私には難しいですが、多少は元の絵に近いものが描けるかと……」
「その絵か。それならその辺を歩け、いずれ分かる」
「……は?」
思わず素が出かかってしまう。
二度も面食らってしまい、ついに思考がフリーズしてしまった。
その辺を歩け。とは、どういうことだろう。
「あの、この絵の情報が欲しいのですが……。例えば、この絵の作者とか……」
老人の目が、ユキを睨んだ。苛立ちを感じ取り、ユキは反射的に口をつぐんだ。
「だからその辺を歩け。歩けば分かると言ったはずだ」
「いや、ですから……」
「分かったら描け。描くのはお前の仕事だろう」
老人は声を荒げ、ユキを酒瓶と共に家の外へと押し出してしまった。
玄関が閉まる直前に、老人はひょいと何かをよこした。布の小袋だった。
「え、何ですかこれ……」
「前払いの約束だったはずだが」
そう言うと、老人はドアを閉めてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます