ある画家の物語
しの
第1話 列車にて
――絵を描くという行為は、麻薬を摂取する行為とよく似ている。
布と、木材と、石油のような匂い。
人体の上半身を模った石膏像が部屋のあちこちに置かれ、無数のイーゼルが、それらを囲む形で並べられている。ひとつの石膏像に群がるイーゼル達は、神を拝む大勢の信者のようだ。
刃物と木材の擦れあう特有の音が、部屋のあちこちで聞こえてくる。
鉛筆を削る音だ。
ひとつのイーゼルに、一人の学生。ここは、美術を専門に学ぶ学校だった。
これから、授業の課題で石膏像を描く。一日という長い時間を掛けるとはいえ、できるだけ描写に時間を割きたい。それ故に、準備は入念にしておかなければならなかった。
質のいい象牙色の木材に包まれた、それぞれ硬さの違う黒鉛が削られる。鈍く光る刃物への恐怖は、この時だけ、意識の外へと追いやられてしまう。
開始を合図する鐘が鳴るまで、あと少し。
皆、職人のようなまんまるで鋭い目をしながら、武器の手入れをするように、先端を尖らせていた。
カリカリと滑りのいい音のする中、ザリザリと明らかに鉛筆とは質感の違う音がする。
木炭を削る音だ。
モノで溢れかえったアトリエの、誰も目を向けないような隅の方。ぽつりと佇むイーゼルの陰に、隠れるように一人の生徒がが座っている。小さな背を、さらに背を小さく丸めて、黙々と刃物を動かしていた。
硬い鉛筆とは勝手が違う。力任せに削ることは出来ない。木炭となるべく平行になるように、刃をねかせて削る。ひたすらに細く、限界まで尖らせようと、時々刃物を動かす手を止めて、眼球の目の前まで削ったものを近づける。
そしてまた、紙を折って作った、即席の屑箱の真上へと戻す。
指の先はもう真っ黒で、爪の中にまで、削った際に出た粉が入り込んでいるようだ。
後少しで、最後の一本が削れ終わる。
ザリザリ。ガシガシ。
あともう少し、自分の納得のいくまで。
――ガラン、ガラン、ガラン。
開始を合図する鐘の音が突然「さあ描け。描くんだ!」と、アトリエ中に響いた。
「っ……!」
ペキ、と乾いた音が、手の中で聞こえた。
修復師は目を開けた。
ゴトゴト揺れる、木材と簡素な布の座席と、膝に置いたスケッチ帳。
夢を見る前に見た景色と、全く同じ。
大きく欠伸をした後、遠慮せずに体を伸ばした。乗ったのが平日の夜汽車だったためか、車内はがらんとしている。煙草を吸う男性と、未だ寝ている様子の老人。そして、自分。
念の為、座席の下に潜り込ませてあったトランクを引き摺り出し、中を確認する。切符と財布はポケットに潜り込ませてあるし、トランクの中だって、何も目ぼしいものはないはずだ。
案の定、何も変化はなかった。トランクの大半を占めている画材と、その隅で窮屈そうに身を縮めている数枚の着替えと、小さなカンバスが一枚。トランクに括り付けてあるのは、折りたたみ式のイーゼル。
それだけだった。それらが閉まった場所に、そのまま残っていた。
やはり二等席を選んでおいて正解だった。自分にとっては決して安くない値段だったが、こうして荷物を盗られる心配なく、座席に座っていられるのだから。修復師はトランクを閉じ、また座席の下へ押し込んだ。
窓の外は、広大な草原。早朝のためか、景色は灰色がかってぼんやりとしている。
随分と遠くまできた。と、修復師は実感した。
スケッチ帳を開き、短い鉛筆をポケットから取り出して、窓の外の景色を描き始めた。
草原自体が、一枚の木の葉のようだ。一面の緑に、葉脈のように幾つもの道が枝分かれしている。遠くに見える、複数の弧を描いているものは、水道橋だろうか。
観光になるものは何ひとつない。簡素で、だだっ広い、どこにでもあるような町。依頼を受けなければ、一生此処に来ることは無かっただろう。
ガタゴトと全身を揺さぶられる中、修復師は、小指ほどの長さの鉛筆を動かし続けた。
修復師の名はユキと言った。東の遠い島国から、美術を学びにこの国へ越してきた若者だ。
だが、五年前に美術校を中退し、今はこの国で画家兼絵画修復師として生活している。
黒鉛と煤がこびりついた指先。ろくに手入れのされていない髪。色の落ちたシャツと、サスペンダー付きのズボンを履いている。いかにも「売れない画家」という格好だ。
実際に画家としての腕前は微妙。決して悪くはないが、これと言って褒める要素もない。
商売の腕前も微妙で、これまで売れた絵はたった一枚。それも、美術校の同級生にあげたという、商売と呼んでいいのか、かなり怪しいものだった。
こんな調子で、あまりにも売れていないため、今では修復師が本業と化している。
もうじき駅に着くのだろう。汽車が減速を始めた。
いつの間にか目を覚ましていた老人は荷台から鞄を下ろし、煙草を吸っていた男性も火を消した。
ユキもスケッチ帳を閉じ、ポケットに鉛筆を突っ込んで、揺れる車内から降りる支度を始めた。
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