第2話 俺のスカート
十一月末の日曜日、さあちゃんと一緒に買い物に行った。淡い灰色のニットスーツに白のハーフコートを重ね、臙脂のタイツでおめかしした彼女はユリカモメみたいだ。勇み立つ彼女に手を引かれ、着いたのは、電車で七駅先にある街中のデパートだった。
開店と同時にまだ夢うつつの店内に入り、エスカレータで三階に上がる。照明がワントーン落ち着いた色調に変わった。その一隅にさあちゃんお目当ての店があった。店頭では数体のマネキンが上品な服をまとい、優美なポーズでさりげなく客を見定めている。由緒正しき洋装店らしい。さあちゃんが俺の手を少し強く握った。さあちゃんはこげなところでいつも服を買うんとささやくと、初めて、とこちらも小さな声で返す。
「いらっしゃいませ。よろしければお手伝いいたしましょうか?」
心地よい声が耳をくすぐった。どこからともなく現れたにこやかなお姉さんは、髪をきっちりおだんごにまとめ、眉も、目も、頬も、くちびるも、控えめな照明下でじゅうぶん映えるよう、しっかりめの化粧が施されている。俺は化粧をする趣味はないし、さあちゃんのことだって、そばかすだらけですべすべの素肌が大好きだ。それでも、信念をもって作り上げられた美は繊細な工芸品のようでほれぼれする。見とれていると、再び手をぎゅっと握られた。
「彼に似合うミニスカートを探してるんです」
厳かな口調でそう答えたさあちゃんに、お姉さんは目を見開き、俺は焦る。「あ、あの、ミニと言っても膝上程度の……」そう言うと、お姉さんは、すぐにとろけるような極上の笑みになった。
「まあ、素敵ですね! よろしければお手伝いさせてください。ちょっと失礼いたしますね」
そう言うと俺の体にほとんど触れることなく、するりと巻き尺を巻きつけて、数か所のサイズを測った。そして軽やかな取りで売り場をひらりひらりと歩き回り、あっという間に五、六着のスカートを手に戻ってきた。
「このデニムのミニは季節を問わずお召しになれます。カジュアルに着こなすのに重宝しますよ。こちらの黒のシフォンスカートは生地にやや重みがあって、自然に落ちるシルエットが美しいんです――」
解説しながら、細長い姿見を引き寄せ、俺のウエストにスカートを当てて見せる。さあちゃんが食い入るような目で見つめる。その目は、あれだ、ひよこ堂のスペシャルカスタードクリームパンを物色するときの鋭いまなざしだ。クリームの多いやつを見極めようと穴が開くほど見つめるさあちゃんにひよこ堂のおじいさんが苦笑した。たしかにうちのは目分量で入れているからよお、そうつぶやいたのを聞いてから、ますます鑑別に気合が入った。
「こちらのプリーツスカートは、薄めのツイード素材ですが、色合いが落ち着いていますので、秋冬にお召しになっても素敵かと思います。それから、こちら、ちょっと長めの丈なのですが、お客様はとてもスタイルがよろしいので、このような緩やかなマーメイドスタイルもお似合いになりそうです。よろしければ、お試しになってみてください」
隙の無い笑顔でよどみなく説明するお姉さん。さあちゃんが小さな声で「おおう、攻めてきよった」とつぶやいたのは俺にしか聞こえなかっただろう。
「あーくん、どれ着てみる?」
いきなり俺に振る? それなら――
「さあちゃん、どれが似合うと思う?」
「うーん、ミニならしっかりした生地んかな。ツイードのプリーツスカート、いいかも。あと、最後のマーメイド、それ、良さそう。悔しいけど」
悔しいけど? でも、俺もプリーツスカートとマーメイドが特に気になっていたので、それを試着させてもらうことにした。
プリーツスカートを履いて試着室のカーテンを開ける。
「どう?」
さあちゃんがほおを緩める。俺をくるりと一回転させ、数歩後ずさったり寄ったりして、しげしげと眺めた。
「よく似合っちょる。レンガ色とカーキ色のチェックって、渋くて引き締まるな」
「そのソックスのお色にもよく合っていらっしゃいますよ」
と満足げにほほえむお姉さん。今日はこのためにダークグレイのハイソックスを履いてきたのだ。ふむ、この色の組み合わせは似合うわけね。覚えておこう。
マーメイドを履いて出てくると、さあちゃんが目を丸くした。
「へえ、ぜんぜん雰囲気が違う。バーのママだ」
それは褒め言葉? ってか、さあちゃん、バーとか行ったことあるんだ。
「お客さま、腰回りは苦しくないですか? よろしければちょっと歩いてみて、具合を確認なさってみてください」
「うんうん、あーくん、ちょっと歩いてみてよ」
お姉さんとさあちゃんに促され、靴を履くと、右にスカート、左にパンツがならぶ狭い通路を少し歩き、戻ってきた。
「へえ、ふつうに歩けるんや。歩きにきいんかっち思ったけど」
仔犬のように目を輝かせるさあちゃん。
「サイズは問題なさそうですね。歩いてらっしゃるお姿も問題なさそうでしたが、いかがでしょう?」
「太ももの辺りはぴったりしてますけど、膝辺りから緩やかに広がってるから、思った以上に歩きやすいです」
俺はその場で軽く足踏みし、左右に足を広げて見せる。さあちゃんが、ふんふんと言いながら俺の回りをぐるりと回り、腰回りのフィット感をあちこちさわって確かめる。いや、ちょっとそれは止めて。
「うん、いい感じ。で、あーくんはどっちが好き?」
「そうなあ、ツイードのきちんと感も捨てがたいけど、このマーメイドのシルエットもいいなあ。やっぱりさ、ミニはちょっとまだ臆するところがあるし」
お姉さんの笑顔が艶を増した。さあちゃんがふうん、とうなずく。あ、そうだ。
「なあなあ、さあちゃんも、おそろいにするんやろ? さあちゃんも着てみらんと」
さあちゃんの顔がわずかにくもる。
「マーメイドは私の体型じゃあ、ちょっと……」
「えー、そう? じゃあ、ツイードにしてみる?」
お姉さんのくるんとカールしたまつ毛に縁どられた目が素早くさあちゃんをスキャンする。
「ご試着になられますか? ウエストのサイズは……」
さあちゃんの顔が赤くなった。
「76……」
お姉さんがちょっと困った顔で言った。
「申し訳ございません。こちらのスカートはあいにく76センチの在庫を切らせておりまして……。マーメイドのほうですと、あるのですが……」
さあちゃんが赤い顔のままぱたぱたと手を振る。
「いえいえ、すみません、あのう、私のことはお気になさらず。あーくん、あーくんがマーメイドがいいなら、それに決めよか?」
「うーん、でも、俺、もうちょっといろいろ見て選びたい。せっかくさあちゃんが見てくれるんやもん。お姉さん、すみませんが、これ、いったんお返ししますね」
お姉さんは上品な笑顔でうなずいた。
「せっかくスカートを履いてみようと思われたのですから、納得できるまで、いろんなタイプをお試しになってみてください。当店は比較的フォーマルなタイプを扱っておりますが、もっとカジュアルなものや、ガーリーを極めたものをお試しになるのもよろしいかもしれませんね」
あでやかな笑みにいたずらな顔がのぞいた。
試着室で自分の服に着替えると、もう一度ふたりでお姉さんにお礼を言ってブティックをあとにした。
「さあちゃん、俺、この上に行ってみたい」
そう言うと上りのエスカレーターに乗った。さあちゃんが無言のままアヒルのひなのようについてくる。どんどん上っていく俺にさあちゃんが尋ねた。
「どこ行くん?」
「最上階」
そこはレストラン街だ。
「ちょっと疲れたやろ? お茶でも飲も? おごるけん」
そう言って店を見て回るが、なんと、どれも開店前だった。あれ、あれ、と焦る俺に無言だったアヒルのひなが噴き出した。
「あはは、あーくん、レストラン街のお店は十一時にならんと開かんよ。私たち、十時ちょうどに来たんやもん、まだ開いとらんっち」
そうなん? とがっかりした俺に、さあちゃんは得意げな顔で付け加えた。
「あーくんがどうしても私にご馳走してあげたいっち言うんなら、他の階にある喫茶室を見てみらん? そこならデパート開店と同時に開いちょると思うで」
そのとおりだった。さあちゃん、すごい。俺たちは五階の紳士服売り場の片隅で静かに営業していた上品な喫茶室で紅茶とレモンケーキを注文した。
ホワイトチョコでコーティングされたレモンケーキをぱくりと食べて紅茶を飲むと、さあちゃんはほうと息をついた。にっと笑う。
「素敵なお店やったねえ。でも……」
「でも?」
「へへ、背伸びしすぎたかも。私にはちょっとハードルが高かったわ」
俺は紅茶をひとくち飲んでから言った。
「さあちゃん、今日はありがとね。俺ひとりじゃ、こげんとこ来れんかったし、あげんいろんなスカートを見せてもらうこともできんかった。さあちゃんのおかげ。ほんと、いいもん見してもらいました。これからも、さあちゃんといっしょに、もっといろんなもの見ていきたい」
さあちゃんはこっくりと甘いレモンケーキのような笑顔を浮かべている。ピンクパールの口紅をつけていたくちびるはホワイトチョコでてかてかと光っている。「美味しいなあ」と一口ごとに漏らすその声はいかにも名残惜しそうだ。「じゃあさ、もう一つずつ食べて、これをお昼にせん?」と提案すると彼女の笑みがいっそうまばゆさを増した。
「さあちゃん、帰りに寄りたいところがあるんよ」
「いいよ、一緒に行こう」
二個めのレモンケーキから目を上げて、にっと笑う。
俺がさあちゃんと手を繋いで訪れたのは、この地域に数店舗展開している衣料品チェーン店だった。おしゃれな店とは言い難いけれど、手ごろな価格で子供からお年寄りまでの衣服を提供している。さあちゃん家にもここの袋があったのを見たことがある。
「さあ、いろいろ着てみるぞ!」
さあちゃんにチェックしてもらいながら、俺はツイードのロングスカートと赤系のタータンのプリーツスカートを買った。ツイードスカートはさあちゃんと色違いのおそろいだ。俺のはカーキ色、さあちゃんのは灰色。さあちゃんの見立てでボクサーパンツと暗灰色のタイツも買った。すべて一か所でそろえられるのはとてもありがたい。
「次の日曜日、おそろいのスカートで散歩に行こう?」
「うん、行こう」
手をつないだ俺たちは、少しだけ傾いた太陽に背中をぽかぽかと温められながら、のんびりと駅に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます