第5話
大学のすぐそばにそのビルはあった。真四角でこぢんまりとしたその建物は、独特な雰囲気を放っていた。外壁には言葉やイラストが印刷された色とりどりのステッカーが無数に重ね貼りされている。ここを訪れた人々の言葉、叫びが可視化され、視界の中で踊っている。洗練された美しさは無いが、見る者の心の片隅をうずかせるような、奇妙な魅力があった。
ビルの軒先には折り畳み式の木製のテーブルとパイプ椅子が置かれていた。
開演時刻より二〇分前に来たにも関わらず、あたりには派手なシャツを着た人々がたむろしており、煙草のにおいがあたりに漂っている。真夏の夕方、閉め切ったビルの前に静かに集まる人々はまるで、海底に集まった魚の群れのようだ。
開場五分前になると、ビルのドアが開いて黒い半袖のTシャツとデニムパンツを着た金髪の男女が出てきた。二人が軒先のテーブルに座ると、人々は即座に列を成した。
「はーい、開場です。チケットを見せてください」
二人の係員はそう言いつつ、チケットを確認し始めた。前の人に続きチケットを見せると、五〇〇円のドリンクを強制的に買わされた。プラスチック製のグラスにコーラが注がれ、それを持って僕は会場へ入った。
内装は黒で統一されていた。広さは小学校の体育館の半分程度だろうか。前方には一段上がったステージが設けられ、その下にはスピーカーやアンプ等の音響機器、さらにステージと観客のフロアを隔てる手すりがあった。黒い内装のせいだろうか、部屋には緊張感があった。フロアには椅子は無く、人々は思い思いの場所でしゃがんだり立ったり壁にもたれたりしつつ、開演までの時間を潰していた。
時刻になると照明が消え、ステージが照らされた。急に室内は静かになり、緊張感がぴんと張りつめた。
最初に出てきたバンドの演者の中には、浅川はいなかった。彼らは何事かを話した後、突然爆音が鳴り響き、気づくと演奏が始まっているのだった。
ギターがけたたましくメロディを刻み、ドラムの鳴らすハイハットの音が耳を突き刺し、ボーカルがマイクに向かって何かを叫ぶ。それらの背後でバスドラムのキックと、ベースのメロディがうねる。だが演奏の激しさに対して観客の盛り上がりはいまいちだった。
前座のバンドの演奏が終わり、次に四人組の男女が出てくると、観客席から大きな歓声があがった。
「みんな、来てくれてありがとう!」
叫んだのは、浅川だった。彼の言葉が終わると同時に、ハイハットの刻みが始まり、そこにギターが鋭く叫ぶような高音のリフを乗せた。ワンフレーズが終わるとベースが裏拍から入り、さらにワンフレーズ遅れて浅川のギターがリフを重ねた。
浅川のギターが入ってフレーズが終わった次の瞬間、腹の底まで響く重厚な音の奔流が観客を襲った。ドラムとギターとベースがぴたりと同じリズムを刻み、分厚い音の層でできたユニゾンを奏でていた。音の洪水に人々は思い思いの歓声をあげ、いつしか僕は彼らの演奏に呑まれていた。
彼らの演奏はまるで魔法のようだった。浅川たちが奏でる音楽にのせられ、僕の感覚はその場の人々と一体になり、自分の境界があいまいに融けてしまったかのような感覚に襲われた。それら、
観客らを呑み込む圧倒的な音のシャワーの中で僕たちは体を揺らし、思い思いに踊り、もみくちゃになり、何事かを叫んだ。
あっという間に一曲が終わり、僕は耳に残る残響を心地よく感じつつ、ステージ上の浅川を見つめた。
「みんな、生きているかい? 死んだように生きていないかい?」
浅川の声に応えて、観客から歓声があがった。ステージのライトに照らされ、浅川の輪郭は光を放ち、後光が差しているかのように見えた。逆光の中で、長身痩躯にギターを下げているその姿は、神々しさと、何かいたいけで純粋であるが故の鋭さ、激しさを感じさせた。
「普段ゾンビみたいに生きている奴、今日は生き返る日だ! 翼の折れた鴉ども、今日は俺たちがその翼を蘇らせてやる!」
浅川の視線が僕を射抜き、眩暈のような感覚をおぼえる。脳裏に、暗闇の中羽ばたく白い小鳥の姿と、河川敷で燃えるカンバスの光景がフラッシュバックした。
「行くぞ!」
浅川の叫びと共に、僕たちは再度爆発的な演奏に身を任せ、熱狂した。
ライブが終わり、呆けた気分で僕はライブハウスの外へ出た。むわりとした夏の夜の熱気が僕を包み、少し酔いが醒めたかのような気分になった。耳には残響が残り、まるで布一枚隔てたように外界の音が遠く感じた。
ライブ中声をあげ体を揺らし続けて汗をかいていたが、疲れは無かった。むしろ晴れた朝の青空の下に立っているかのような清々しさがあった。ふと、体も足取りも軽くなっていることに気づいた。
「翼か」
僕は目を閉じた。まなうらに、暗い工場の中を飛び去る真っ白な小鳥の姿が浮かんだ。
「ありがとう、浅川」
僕は何色の絵具を買おうか考えつつ夜道を歩いた。
昼。僕はスマホの着信音で目を覚ました。画面の表示を見ると製造課長だった。今日は夜勤のはずだ。まだ出勤時刻には早いが何の用だろうか。
「ああ、榎本くん。今日の製造は中止だ。警察が入ることになってな。明後日から稼働再開の予定だ」
「えっ? 何かあったんですか?」
「労災だ。参ったよ。夏の忙しい時期にやらかしてくれちゃって」
それだけ言うと電話は切れた。
翌日、僕は後田さんから浅川が労災の被害者だったと聞かされた。餌となる魚粉を送り込むスクリューに右手を巻き込まれたとのことだった。
「あいつやる気なかったし、労災起こして皆に迷惑かけやがって。しょうもないやつやったほ。あんな奴入社させるなっちゃ」
後田さんは心底楽しそうに笑いながら電話越しに言い放った。僕は絶句した後、そうですね、とつぶやいて電話を切った。思いがけない胸の痛みに僕は動揺した。
三日経っても浅川は出社してこなかった。四日目の朝、僕は思い切って浅川の電話番号にかけた。
「はい浅川です」
電話に出たのは、浅川の母親だった。浅川の様子が心配で電話したと言うと、感謝の言葉をかけられた。
「あの子に会ってもらえませんか。
看護師に先導され、緑色のリノリウムの廊下を歩いた末に辿り着いた病室は、白を基調とした内装で統一されていた。
内装は清潔感を演出しようと意図されていたが、どこか健全ではない、荒涼とした空気を僕の鼻は嗅ぎとった。それは、病室の静けさのせいか、あるいは病人たちのせいなのだろうか。
唾を呑みつつ、浅川の寝ているベッドへ近づいた。
間仕切り用の白いカーテンを引くと、浅川が居た。白いベッドの上で、浅川は目を見開いたまま静かに仰向けに寝ていた。僕が居ることにも気づいていないかのように、彼の視線はまっすぐ天井に向いたまま動かなかった。
「浅川、元気か」
「榎本さんですか。何しに来たんですか」
僕はため息をついた。
「お前の様子を見に来たんだよ。あと、自分で言うのもなんだけど、他人の、それも職場の先輩の気遣いに対してその反応はどうかと思うぞ」
「ありがとうございます」
感情の籠もらない声が聞こえ、後には沈黙が残った。耐え切れず、僕は予め考えていた話題を口にした。
「浅川、この前はありがとう。ライブ凄かったよ。あんなに感動して清々しい気分になったのは久々だった」
初めて、浅川が顔を僕の方へ向けた。そこには怒りの表情が宿っていた。
「なんで今それを言うんですか? 俺をバカにしに来たんですか?」
僕は浅川の視線を真正面から受け止め、ゆっくりと話した。
「いいや、お前にお礼を言いたかったんだ。それだけだ。お前のMCにも感動した。あの翼のくだりは最高だった」
低い嗤い声が聞こえ、僕は顔を上げた。
「折れた翼が元に戻るとは限らない。人生、諦めが肝心ですよ」
「何をバカなことを言ってる」
「なら榎本さん」浅川の怒鳴り声に、僕は思わずはっとした。「俺の右手は、指は元のように動くって言いたいんですか?」
「それは……だが、何もかもが終わったわけじゃない」
「俺の手はスクリューに巻き込まれてぐちゃぐちゃになったんです。ギターはもう弾けないって医者にも言われたんですよ。なのに榎本さんに何がわかるんですか?」
浅川は僕の目の前に右腕を突き付けた。彼の右腕は、肘から先が包帯で巻かれてい、掌があるべき場所でぷつりと途切れているのだった。
「演奏ができない人生にも今のおれにも、価値なんて無いですよ」
叫んだ後、浅川は静かにベッドへ身を横たえ、無表情で天井を見つめ始めた。彼の瞳の色は昏く、その視線の行く先は天井の向こう側、はるか彼方を指しているように見えた。
僕は何も言えなかった。ただただ、ベッドの脇に立ち尽くしていた。
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