第2話

 アラーム音で目を覚ました。上体を起こし軽く伸びをしてから立ち上がる。時刻は二一時を指していた。

 職場は暑く、大量に汗をかく。そのため足指ソックスを履き、冷感シャツを着る。その後軽い夕食を取ってから車のキーを取った。車のドアを開けると、暖かい空気がむわりと全身を包む。キーを挿しエンジンを掛け、車を走らせてから窓を開けた。車内を吹き抜ける風が心地よい。

 運転して五分もしない内に、車内へ入る風に潮のかおりが混じりはじめる。道路の両脇から住宅が消え、代わりに大きな建屋が姿を現し始めた。

 海沿いの工業団地の中をしばらく運転すると風の中に生臭さが混じり始める。僕はいつものように車の窓を閉めた。

 家畜の飼料工場、それが僕の職場だった。ロッカーで作業着に着替え、工場入り口のドアを開けると、臭気と熱気が僕を出迎えた。

 工場は巨大だった。一〇階建てのビル程度の高さがあり、蒸気管や鉄柵、コンベア、階段が設けられ、その広い空間をぎっしりと埋め尽くしていた。構内はお世辞にも綺麗とは言い難く、飼料の原料となる魚粉があたりに堆積しており、生臭い臭気がそこら中に染みついている。堆積した魚粉を食べているのか、丸々と太った巨大なゴキブリやら紙魚しみやら蜘蛛くもやら、そのたぐいむしたちが至る所で蠢いていた。工場に入る時、僕はいつもまるで鉄でできた怪物のはらわたの中に入ってしまったかのような気持ちになる。

 いつものようにエレベーターに乗って三階へ上がり、製造室の詰め所へ入った。

「お疲れ様です」

「おう榎本えのもと、どうした眠そうだな」

 後田うしろださんが笑顔で挨拶を返してくる。その声は弾んでいた。仕事終わりだからだろう。これから僕が後田さんのシフトを引き継ぐというわけだ。

「ちょっと昨日というか今朝、遅くまで起きていたんで」

「なんしとったんか、また寂しい絵でも描いとったんか」

 林田はやしだが茶化すように言う。

「いや」

 一瞬言葉に詰まった。もう描かないことにしたんです、とは言えなかった。

「ちょっとバーベキューしてたんですよ」

「は? なんで俺を呼ばんかったっちゃ」

 林田がにやにやしながら言う。

「一人だけいいもん食いやがって、この!」

「やめてくださいよ。まったくもう」

 林田がスパン、と僕の頭をはたき、それに苦笑しつつ文句を言ってみせる。

「今日は特にトラブルもなく順調や。遅れも無いし」

「へぇ、珍しいですね」

 後田さんの言葉にニヤニヤしながら返すと、林田がすかさず口を開く。

「なんや失礼なやっちゃなー。俺と後田さんがいつもトラブル起こしとるみたいやないかい!」

「あれ? 違うんですか?」

「ちがうわ! 後田さんも何か言ったってくださいよ」

「森口と俺らを一緒にするなよ? 俺らはちゃんとやってるからな」

 笑みを浮かべつつ後田さんが言い、そうだそうだと林田が追随した。

「榎本も一年目はひどかったよな」

「真鯛の五号、トラウマだろ?」

 また始まった、と内心うんざりしつつ、僕は笑顔を作った。

「いやほんとですよ。できた餌が全然沈まないんですもん。結局あの日は三時間くらいやってできずに飛ばして次の餌作りましたからね。

 僕一人で品種切り替えしたり、原料や包装に連絡したりで大変でしたよ」

 二人は何かと僕のことを〝真鯛の五号〟の失敗のことでイジってくる。五号というのは作る餌の大きさのことだ。号数が大きいほど、餌のサイズも大きくなる。

 内心嫌だったが、失敗したのは事実であるし、餌の製造の腕も二人にはかなわないので何も言い返せない。

「おはようございまーす」

 のんびりとした声が響く。振り返ると森口さんが立っていた。

「おはよう」

「おはようございます」

 後田さんと林田が一言ずつ返した。

 沈黙が降りた。ヘマをやらかし、他人の足を引っ張る人間に対して、二人は厳しかった。後田さんはこの職場に入って一〇年目のベテラン、林田は五年目、僕は三年目だ。森口さんは七年目なのでベテランのはずなのだが、製造が下手だった。廃棄量や不良品が多いし、予定を遅らせてしまい次の人にしわ寄せが行くこともしばしばだ。

 にもかかわらず森口さんは変わらなかった。努力する様子も無く、当然ながら仕事の腕前も上がらない。それがますます職場の人間の神経を逆撫でし、それを察しているのか森口さんも口数が少なかった。結果、森口さんとまともに話すのは僕だけになっていた。

「じゃあ引き継ぎするぞ。今日は……」

 引き継ぎ事項を伝えると、後田さんと林田は昨日の競馬の話をし始め、一〇分ほどしてから詰め所を出て行った。

 急に詰め所の中が静かになった。

「じゃあ僕からやるよ。ぶりの一〇号ね」

「わかりました、切り替え作業行ってきます」

 ヘラを片手に詰め所を出る。足音に驚き逃げていく蟲たちを尻目に、僕は乾燥室へと入る。

 製品の製造に取り掛かる時、その直前に製造した製品が混入しないよう、掃除を行う必要がある。製品が通るライン全てを掃除する必要があるが、それを僕たちは切り替え作業と呼んでいた。

 四階建ての工場なので、ラインの長さはそれなりにあった。意外と時間が掛かり、移動距離も長いので下っ端がやる仕事として位置付けられている。

 切り替え作業を終えて一階から四階へ上がろうとした時だった。チチチ、と鳴き声が聞こえた。振り向くと、白く小さいものが視界を横切った。

「鳥?」

 僕のつぶやきは機械の立てる騒音に掻き消されてしまった。

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