骨の降る街で

ぐらたんのすけ

1

 私は冬が嫌いだった。それは、とても小さい頃の話。


 寒いからとか、そういう理由ではなくて、ただ何となく恐ろしさを感じてしまうからだった。

 木は枯れて、町からは生物の気配が消えていく。

 次第に白く染め上げられていく町が、何だか生気を吸い取られている様にも見えたのだ。

 その内、私まで枯れてしまう様な気がして怖かった。

 冬の、味気ない刺さる様な北風が、耳を麻痺させて仕方ない。


 でもあの、ザクっ、ザクっと粉雪を踏み締めながら歩く感覚は好きだった。

 まだ誰も跡をつけていないまっさらな旅路に、そっと足を踏み下ろす。

 その言葉に出来ない些細な征服感が、冷えた体の内に仄かな熱を灯すのだった。


 あの日も、確か新雪が積もった日だった。

 足跡が二人分。雪の降る中、自宅への侵略を進めていた。


「なーにがきーみのしーあわせー……。なーにをしーてよーろこぶ……」

「ん、アンパンマンのお歌?上手だね」

「……うん」


 母を見上げると、頬を優しく染めながら笑っていた。

 凍える様な寒さの中、母に握られた手だけが暖かかった。


「ねぇ、今日の晩御飯は何がいい?」

「……かれーらいす」

「そう?……今からカレー作るの大変だから、コロッケにしない?」


 そう言う母の手には、スーパーの惣菜のコロッケが入ったビニールがぶら下げられている事を私は知っていた。

 知っていたけど、言わなかった。母が頑張ってきて、そのお金で買った食べ物だ。

 それが聡い事なのかは分からなかったけれども。

 父は居ない。私が物心付く前に母と離婚してしまった。

 理由は分からなかった。でもそんなこと関係なしに、母は私のことを愛してくれていたから、私も何も聞かなかった。

 

 恐る恐るながらも、確かに、その小さな歩幅で歩みを進める。

 その横で、カシャリとプラスチックの揺れる音と、母の足音が連動して鳴っていた。

 ゆっくりと、テンポを刻むように鳴っていた。

 

 私は当時から無口な性格であったから、よく愛想の無い子だと言われた。

 別にそのことに何ら疑問は抱いていなかったし、むしろ言われて当然の事とまで幼ながらに思っていた。

 誰かと仲良くしたくなかったのだ。自分の領域に踏み込まれてしまうのが怖かった。

 喋りかけられるのも、喋りかけるのも、自分の内から何か体液のような物が流れ出していくような気がして。

 理由は分からなかった。

 皆でいるより、一人が好き。

 簡単に言ってしまえばそれ以上ではないのだが、何処かもっと深くにある、私も知らない私がブレーキを踏んでいるから分からなかった。

 モヤモヤとした気持ちも、嬉しい気持ちも、一人で抱えて煮詰めている方が安心できるのだ。

 でも私は、煮詰まった感情を孤独に処理できるほど、強い人間では無かった。

 だからなのか、私は歌を歌うのが好きだった。歌には、私の中身が混じらない。

 歌声に感情が乗ったとしても、私の中身は知られない。

 震える空気に感情を希釈して押し出してしまうのだ。

 

 よく、一人で歌っていた。口ずさむように、見えない誰かに語りかけるように。

 気持ち悪いとよく言われたものだ。

 幼稚園児くらいの幼い子といえば、皆庭で走り回ったり、おままごとをしたり。

 大人しい子だとは言っても、普通はもっと可愛げがあるはずなのだが。

 笑いもせず、無口。何を考えているか分からない女児が、ぼーっと宙を見ながら歌い出すのだから、周りからしてみれば相当に不気味なものであっただろう。

 褒めてくれるのは、受け入れてくれるのは母だけだったから、それがやけに温かかった。


「わからないーまーまー、おーわるー……」

「そーんなのーは、いーやだっ!!」

「きゃっ!」


 母は突然私を抱きかかえると、白い息を吐きながら笑った。

 驚いて母を見上げると、その白い母の輪郭が見えた。

 やけに朧気な輪郭だったのを、今でも覚えている。

 雪の結晶がひらひらと舞い落ちてきて、母の頬に張り付いた。

 それはじんわりと溶けて消えてしまった。

 そうして濡れた母の頬の端の方から、輪郭が崩れていっているようにも見えて。


「……どうしたの?ぼーっとして」

「……なんでも、ないよ」


 私は母の胸に顔をうずめた。

 母の匂いがした。柔軟剤と汗の入り混じった優しい匂いだった。

 不安な気持ちも覆い隠してしまいたくて、ずっと深くまで顔を押し付けた。

 母は私にとって、絶対だった。

 絶対に安心できて、絶対にそこにいて、絶対に温かい。

 ずっと、そこに居るはずの。

 ずっと、そこに居て欲しかった。


「ねぇ、お母さん」

「ん?」


 ――大好き。


 言えれば良かったなと。

 もっと沢山、お母さんと一緒に喋ればよかったな。

 もっと沢山、お歌聞いてほしかったなんて思うと、今更ながらに視界が滲む。


 母の足取りがふらついて、私も振り落とされそうになったので、思わずびっくりして母の服を掴んだ。

 

「ちょっと……お母さん頑張りすぎちゃったかも、何か目眩が……」


 そう言いながら母は私を雪の上に優しく下ろした。


「大丈夫?」

「うん……。ほんのちょっとだけ、クラっとしただけ……。ほら!早く帰ってご飯食べよ」

「……うん!」


 私はそう言って、じっと母を見つめる。

 なんだか心の内がザワザワといやに苦しくなって。

 私は母の手を握らずに歩いた。

 ザクザクと、その音だけを頼りに俯向きながら歩いた。

 だから、母がもう私の隣を歩いていない事に気が付かなかった。


「お母さん……?」


 振り返ると、そこには誰も居なかった。

 茶色いコロッケが雪の上に散らばっているのが見えて、近づいてみると母が倒れていた。

 雪に半分顔を埋めて、動かなかった。

 

 そのまま、母は死んだ。


 暫く経って、母は火葬場に来ていた。

 その火葬場の煙突から、白くたなびく煙が立ち上っているのを私は見ていた。

 涙は溢れなかった。いや、わざと溢さなかったのかも知れない。

 もくもくと、母が空に登っていくのを見ながら、私は口ずさんだ。


「なーんのたーめに、うーまれて。なーにをしーて……いきるのか……」

「……ちょっと、やめなさい!」


 私が歌い始めたのを聞いた祖母は、私の黒い袖を強く引っ張った。


「……どうして?」


 私は純粋な疑問からそう祖母に尋ねた。

 どうして歌ってはいけないのか。母はどんな場面でも私が歌うと笑顔になってくれたのに。


「どうしても何も無いでしょう……。いい?みんなお母さんのお見送りをしていて、悲しい気持ちなのよ?」


 そんな事は分かっている。私だって悲しいのだ。今すぐ泣いてしまいたいのだ。

 でも、それ以上に泣くのが恐ろしいから。だから、歌っているのだ。

 この胸の底から溢れ出す、まだ名前も付けてあげられていない感情を、どうやって吐き出せというのだ。

 私は反論しなかった。



 それから、何度かの雪の季節を超えて。また、この街に新たな雪が降り注いでいる。


「行って来ます、お母さん」


 仏壇に置かれた母の遺影にそっと手を合わせる。

 昨日の晩が、母の命日だった。線香の香りがまだ香っている。

 ふと窓の外を見ると、枝木に雪が降り積もってたわんでいた。

 チラチラと降ってくる雪の結晶たちは、あの頃と比べてしまえば随分と小さく儚いものに思えた。

 この間まで暑いくらいだったのに、最近随分と冷え込む様になってきたものだ。

 それと同時にもう、何年も経つんだなと感慨深く思う。

 あの日から何もかもが変わってしまった。


「何してるんだい、もうとっくに朝ご飯は出来てるよ」


 ガタッと開いたふすまの方に目をやると、祖母が呆れ顔でこちらを見ていた。

 私はなんだかそれに素直に返事を出来なくて、つい強い口調で言い返した。

 

「別に……要らない」

「要らないって……。あんた、昨日も朝ご飯食べないで学校に行ったじゃないか」

「……お腹すいてないから」


 祖母はため息をついた。私はそれに反応して、更にむっとする。


「いい加減にしなさい!そんなんだからアンタは……」


 祖母はいつもこうだ。いつも小言を言ってきて、鬱陶しい。

 別に正直朝ご飯なんてどうでもいい。

 けれど、そもそもの言い方が気に食わないから喧嘩になるのだ。


「だから、いいって」

 

 私はそう言って、祖母の横を通り過ぎた。

 

「……はぁ……。全く……」

 

 祖母もため息をつきながら、私の背中を見送った。

 玄関まで来ると祖母の気配も感じなくなり、ふと後ろを振り返って見たが誰もいなかった。

 遠くで少しだけ、荒げた咳の声が聞こえてくる。

 私は昨日まで履いていたスニーカーは下駄箱に閉まって、棚の奥の方でホコリを被っているブーツを取り出した。

 靴紐を結ぶのに少し苦戦していると、私の見えないところで祖母が私に言った。


「……行ってらっしゃい」


 別に返事はしなかった。そのドアノブに触れると、なんだかいつもより冷たくて、思わず握る手に力が入った。

 

 雪は降っていなかったけれど、やっぱり外は寒かった。

 コートを羽織って来て良かったと心底思う。マフラーもしてくれば良かったかな……なんて思いながら、校門をくぐる。


「あ、京華ちゃん。おはよう」

「あ……マキ。おはよう」


 同級生に声をかけられる。私は少し小さめな声で返事をして、軽く会釈した。


「なんだ、なんかいつもより声がちっちゃいね」

「別に......こんなもんでしょ。ちょ、くっつかないでって」

「えー、いいじゃん。寒いんだし」


 マキはそう言いながら私の腕に自分の腕を絡ませてきた。

 私はそれを軽く振り払うと、またマフラーを首に巻いた。


「あら、京華さん。それにマキさんも、朝からお熱いですね」

「あ、ふーかじゃん。おはよ!」

「……おはよ」


 後ろから声をかけられて振り向くと、その艷やかな長い髪を揺らしながらクラスメイトのフウカが笑っていた。

 私は少し会釈する。マキはそれに明るく返事をして手を振った。

 マキは私の頬を優しくつつきながら怪訝な顔をした。

 

「京華ちゃん、今日朝ご飯ちゃんと食べた?」

「……食べてない……けど……」

「やっぱり?ダメだよー!育ち盛りなんだから!」

「いや、でも……別にお腹空いてないし……」

「そんな事言ってー。じゃあ今日のお昼ご飯はちゃんと食べなきゃダメだからね!」

「……えぇ」


 私はうんざりしながらそう言った。すると、フウカがまたクスクスと笑った。


「京華ちゃんってほんと少食だよね!そんなんだから背も伸びないんだよ?」

「うるさいなぁ……」


 そんなの分かってるよと心の中で呟く。

 私は昔から身長が低くて、よく同級生から揶揄われていた。

 それだけだったらまだいいけど、芯が細くて、いっつも黙ってて完全に根暗なヤツ、というレッテルを貼られるようになってからは少し煩わしかった。

 正直今じゃそんな事なんてどうでも良い。もう慣れたし、今更気にもしていない。


「それに比べてフウカちゃんは相変わらずスタイル良すぎだよね〜ほんと羨ましい……」

「おい、お前」

「あら、そう?ふふ、ありがと」

 

 マキとフウカは女子トークに花を咲かせていた。

 そんな2人を眺めながら、私は寒空に舞う雪の粒を密かに眺めていた。

 晴れ間から光が優しく差し込んでいて、結晶をキラキラと輝かせている。

 そして舞い落ちた粉雪の表面を、私が着たならば10センチヒールを履いてでも引き摺る様な、フウカの長いトレンチコートが優しく削っていく。その後をなぞる様に付いて行くのだ。


 自分でも、昔と比べれば随分と社交的になったものだと感心する。

 誰かと挨拶をする事でさえ億劫に思っていた程の私とは、やはり正反対の所に立っている様に思われるマキやフウカとも、何とか仲良くなることが出来ている。

 けれど、私は未だにこの2人に対して、どこか距離を置いている。

 あははと、未だに愛想笑いで様子を伺う自分が嫌いだ。

 私は小さくため息をついてから、頬を軽く数回叩いた。

 私と「晴れ間を見せる空と雪」はよく似合う。

 明るい表情のまま、センチメンタルになった私。

 違うのは私が輝くような結晶では無いということ。

 そのまま引き摺られる風になって地面に横たわっていたいと思った。

 母娘共々、雪の中で死んでしまえば多少はロマンチックか。そう思えたのだ。


 ガヤガヤとした人の群れの音が教室中に広がっていく。

 暖かい空気が服に付いた小さな雪を融かして服を濡らした。

 私も小さな結晶たちに別れを告げて席につく。

 お尻に触れる木の板は、寒空の中登校した私達ですら冷たく迎えた。


 学校の授業というのは、些か退屈なものだ。

 頬杖をずっとついているから、頬が少し赤くなってしまうけど、そんな事は気にもならなかった。

 教科書を読み上げている初老の教師は、先月腰を痛めたらしい。いかにも辛そうな仕草で腰をしきりにさすっていた。

 毎度の様に同じ様な中身ばかり繰り返す教師も、飽きが来ないのだろうか。

 私はとっくの昔に飽きてしまった。理解はしていないのだけれども。


「……ねぇ、京華」


 半分眠りの世界へ陥っていた私の肩を、マキが優しくトントンと叩いて起こす。


「今日の放課後さ、どっか遊び行かない?」


 コソコソと私にも聞こえるか怪しい声で耳打ちする。

 先生は板書をしている様だったが、一度チラリとこちらの様子を見て何も言わなかった。


「うーん……いいけど、どこ行くの?」

「えと、カラオケとか?」

「あー、んじゃ、パス」

「もー、なんでよ〜……」

「ちょっと、そこうるさいぞ!」


 低く鈍い声が教室に響いて、マキも「ヤベっ」と小さく肩を竦める。


「じゃぁ、マキさん。ここ、板書してね」

「ちぇっ……はーい」

 

 マキは渋々ながらも、笑顔で立ち上がって黒板へと向かった。

 あの顔は、問題なんて簡単に解けてますよ〜、の顔だ。

 授業なんてまともに聞いていないのは彼女も同じな筈なのに、どうしてこんな差が生まれるのか。

 小麦色の癖毛をぴょこぴょこと揺らしながら綺麗な文字で、恐らく正解であろうものを黒板に書き連ねていった。

 教師も自分で当てたのにも関わらず、その様子を苦い表情で見つめていた。

 るんるんと跳ねる様に帰って来たマキは、今ひとつ反省はしていない様子でまた私に言った。


「でさ、さっきの続きなんだけどさ」

「もう、いいって。また先生に怒られるよ?」

「え〜……」

 

 めっ!と口の前でバッテンを作る仕草をすると、マキはしゅんとして、また私じゃ無い方の隣の席に喋りかけていた。

 そしてまた私も懲りずに、夢の世界へと誘われるのだった。


「いいじゃんカラオケ! 何でそんなに嫌がるの?」

「ほらほら、無理強いしたら駄目ですよ? ……あ、最近駅前に出来た新しいクレープ屋さん。あそこ行きましょうよ」

「あっ、いいねクレープ、行くー!!」


 マキはまたフウカに腕を絡ませて、クレープクレープらんらんらん〜、と二人で能天気に口ずさんでいた。

 雪は昼過ぎにもなるとほとんど溶けてしまって、草陰にちらほらと白い姿を見せるだけだった。

 

「駅前のクレープ、私も気になってたんだよね」


 まだそれでも吐く息は少し白くて、フウカの口からふふっと笑みが溢れるのもよく分かる。


「じゃあ、ちょうど良かったですね。そこにしましょう」

「いくぞクレープー!!うぇっ、 滑るっ!」

「あぁ、もう。落ち着いて!」


 濡れた草派を踏んでひっくり返りそうになるマキの背中を押しながら、私達は駅へと向かった。


「クレープ、美味しいですね。京華さんのそれ、何味ですか?」

 「ん?苺いっぱい入ってるやつ。食べる?」


 既に半分齧られてしまったクレープをフウカに向けると、フウカはじゃあ遠慮なく、と言うかの様に口を開けて齧り付いた。

 美味しいですね、とくぐもった声で私に笑いかけるその所作一つ一つは大したものでは無いのだが、何処となく上品さを崩さず保っているのはやはり、フウカがお嬢様だからなのであろうか。


「あら、マキ。ほっぺにクリームがついてますよ?」

「んーっ、フウカとって〜」

「仕方ないですね」


 フウカのポケットからは優しい花柄のハンカチが出て来て、マキの頬を優しく拭いた。

 ふと、自分のポケットには何が入ってあるのかと気になって確認してみたが、ぐちゃぐちゃのポケットティッシュと、おばあちゃん柄の古びた手拭いしかなかった。

 それが何だか恥ずかしくて、私は思わずクレープのゴミと一緒に手をポケットへと突っ込んでしまった。


「寒いね〜」


 誤魔化す様に、二人は何も気付いてはいないだろうが、それでも何となしに喋りかける。


「もう、雪溶けちゃったけどね」

「私は、寒い方が好きですね。少し暑がりなので」

「私は夏の方が好きーっ。夏の方が、沢山遊ぶところあるからね。海とか〜、山とか!」

「あら、冬にも色々ありますよ?ほら、スキーとか」

「えー、私、スキーしたこと無いんだよね」

「そうなんですか?それは良いですね、今度みんなで一緒に行きましょうよ」

「それっ、賛成。んんー、雪よ、降れー!」


 マキは両手を天に突き出して、念じる様に眉間に皺を寄せた。


「マキったら、さっきまで夏が好きって言ってたのに」

「夏も、冬も好き!」


 私は堪えきれずに笑い出す。それにつられて、二人も笑った。

 通りすがる野良猫も、建物の上の空を見てふわぁとあくびを漏らしていた。

 日はもうだいぶ傾いていて、何だか頬にあたる西陽が暖かかった。


「じゃあね、フウカ」

「二人とも、送ってくれて、有難うございました」


 手を振りながら豪邸の中へと姿を消していくフウカを見送りながら、私とマキも帰路についていた。

 フウカの家を訪れるたびに、あぁ、この人は凄い人なんだと漠然と実感する。

 私が帰るのは田舎臭くてボロボロの、カビ臭い昭和が染み付いた可愛そうな家。

 進める足が少し重たくなるような気がしたのは、日が落ちてまたチラチラと雪が降り始めたからだろうか。

 隣を見ると、マキも何処か浮かない顔で俯いていた。

 二人きりの時はいつもこうなる。誰かのいる前だと仲良しだけど、二人きりだと特に喋ることもない。

 私は待っている雪を一つ捕まえて、その冷たさで掌を濡らしながらマキに喋りかけた。

 

「また、雪降ってきたね」

「……うん」

 

 フウカの家を訪れるたびに、あぁ、この人は凄い人なんだと漠然と実感する。

 私が帰るのは田舎臭くてボロボロの、カビ臭い昭和が染み付いた可愛そうな家。

 進める足が少し重たくなるような気がしたのは、日が落ちてまたチラチラと雪が降り始めたからだろうか。

 隣を見ると、マキも何処か浮かない顔で俯いていた。

 二人きりの時はいつもこうなる。誰かのいる前だと仲良しだけど、二人きりだと特に喋ることもない。

 私は待っている雪を一つ捕まえて、その冷たさで掌を濡らしながらマキに喋りかけた。

 

「フウカは凄いよね、あんなおっきいお家に住んでて」

「そうかな?」

「そうだよ、私の家なんてお化け屋敷みたいなものなんだから」


 手を伸ばして、雪の結晶を次々と捕まえていく。

 乾いた空気と乾いた掌の間に、じんわりと水が染み込んでゆくのを感じていた。

 そしてマキがずっと黙っているものだから、私は何となくマキの顔を覗き込んでしまったのだ。


「でもさそれって、フウカが凄いんじゃなくて、フウカの親が凄いだけだよね」


 唇の隙間からふっと白い息が漏れた。

 少しそばかすが見える頬は、ひどく冷たかった。

 マキは時々怖い顔をする。決まって私と二人きりのとき。この顔をするマキは、いやに聡い。

 いつも見せるおちゃらけた姿とは対極にあるような、冷たくて、冷酷で。

 私は少し驚いてしまってから、マキが何か言う前に慌てて取り取り繕うように「そうかもね」と言った。

 沈黙の間には雪はしんしんと降り続いていて、何だか気まずくなってしまって、それきり何も喋れなくなってしまった。

 マキもその空気に耐えかねたのか、大きく息を吸い込んで言った。


「雪、強くなってきたね!」


 もったいぶった態度とは裏腹に、出てきた言葉が些細で明るいものだったから、私も胸をなでおろす。


「うん」

 

 喉の奥につっかえた言葉をそのままにしながら、何とか返事をした。

 マキは俯いていた顔を持ち上げて、私が雪を捕まえるのを見ていた。

「ねぇ」と、マキの口が動く。「ん?」と私が答える。


「……フウカってさ。最近、調子乗ってるよね」

「……え?」


 私は思わず足を止めた。そしてまた雪を一つ捕まえようとして、間違えて空気を掴んでしまった。

 掌に雪を捕まえた時よりも、その冷たさが嫌に目立って掌に広がる。

 マキも止まって私を見た。


「そう、かな……?」


 エヘヘと、乾いた笑い混じりに呟いてみると、マキは少しいたずらっぽく微笑んだ。

 そしてそのまますぐ止めていた足をまた進めた。


「そのエヘヘって笑って誤魔化すの辞めたら?いっつもそうだよね」

「え、あ……」


「別にいいんだけどさ」とマキは前を向いたまま言ったから、私は少し小走りでマキに追いついて、その横顔を覗いた。


「フウカってさ、私達のこと馬鹿にしてるんだよ。お金持ちだから、ね?分かるでしょ?」

「そんな……こと」


 あるわけ無いじゃん、と言おうとして口が止まった。

 やけに世界が静かすぎて、雪の降る音すら聞こえてきそうな街の中で、私とマキは二人きり。

 蝉の声もすっかり消えたその世界では、私達の音しか聞こえないような気がした。

 しばらくしてやっと口を開いたのはまたマキの方だった。


「みんなでさ、フウカのこと、無視しない?」

「へ?」思わず変な声を出してしまった私を、やれやれとでも言いたげにちょっと笑った。

「……って言ったらどうする?」


 笑ってそのまま、私の耳元に顔を近づけて呟いた。

 やけに生暖かい吐息が耳にかかって、首筋に鳥肌が浮かぶ。


「冗談だよ?」


 またいたずらっぽく笑うから。何が本当か分からない。


「全部冗談、忘れてくれていいから。あ、もう京華の家着いたね」


 急に声を低くして、やけに大人びた顔して言うから、自分の見えないところでじわじわと亀裂が広がっているんじゃないかって不安になってしまう。

 あの時もそうだった。母を失ったあの日も、どれだけ母が無理をしていたのかなんて知らなかったから、いつの間にか大きく開いた溝に足をすべらせて消えてしまった。


「……忘れた方がいいの?」


 つい聞き返してしまった。返事は、してくれなかった。既に背中は遠くなってしまって、捕まえようとしてまた手を伸ばしたけれども、それは空を切るに終わった。

 すっかりあたりは暗くなってしまって、街頭がチカチカと点滅しながら私だけを照らしている。

 増幅したもやもやが足に絡みつくのを服についた雪と一緒に払って、私は小さく明かりのついた玄関の扉を開けた。


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