その日は学校から帰るのが遅くなってしまった。帰りの会が終わった後に先生に呼び止められ、おうちに知らない男の人が出入りしているのかと聞かれたのだ。

 ぼくは否定したが先生はあらゆる訊き方で同じようなことを質問してきた。

 ぼくとママはずっと二人暮らしで、男の人が家に入って来たことなど一度もない。どうしてあんなことを聞かれたのかさっぱりわからなかった。

 やっと解放された頃には、空は夕日でオレンジ色に染まっていた。

(早く水をあげなきゃ)

 ぼくは息切れしながらアパートの敷地に駆け込んだ。――そして愕然と立ちすくんだ。

(お父さんがいない‼)

 あまりのショックに、目の前が真っ白になった。

(がんばって大きくしたのに、だれかが横取りしたんだ!!)

 その時、取扱説明書の一文が頭をよぎった。


『発芽から約一ヶ月経つと、お父さんは土の中に潜ります。それが収穫時期です。』


(あっ)

 そういえば、地面は土饅頭のようにこんもりと盛り上がっている。誰かが掘り返した形跡もない。

(土の中にもぐったのか)

 ぼくは安堵の息をはいた。

(でもどうやって収穫するんだろう。芋みたいに掘るのかな――)

 その時、地面がもこもこと隆起し始めた。

 ぼくは息を飲む。土はおうとつを繰り返しながら盛り上がり、ずぼっと生白いものが飛び出した。

 一本の腕だった。

 腕はさ迷うようにくうを掻き回すと、フェンスの網をがしっとつかんだ。力任せにぐいっと肘を曲げる。土で真っ黒の頭と肩が、ずるっと地面から引き上がった。その土まみれのかたまりは腕の力だけでフェンスを這い上り、まるでプールからあがるように地面から抜け出した。

 ぼくが呆然としていると、黒いかたまりはぐりんと首をねじり、こっちを見た。

 闇の中に目が白く光っている。

 ぼくは恐ろしくて全身ががくがくと震えた。

(こんなのお父さんじゃない。化け物だ……!)

 逃げ出そうにも、脚がすくんで動けなかった。

 逃げたらきっと追いかけてくる。つかまったら――きっと想像もできないようなおぞましい目に遭わされるのだ。

 ふいに、ぽっかりと開いた口からたくさんの土がごぼごぼと溢れ出た。

「ぎゃあああ!!」

 恐怖が全身を貫き、一目散に駆け出した。だが、ぼくはすぐに立ち止まった。ママの一言を思い出したのだ。


 ――あんたが欲しがったんだから、自分で責任持って育てんのよ。


(……ここでお父さんを放って逃げたりなんかしたら、ママに怒られる)

 目の前の化け物よりママの圧のほうが恐ろしく、お父さんに対する恐怖がすっとさめてしまった。

 ぼくはごくりと唾を飲み込み、恐る恐る振り返った。

(どうしよう……言葉、通じるのかな)

「あの、立てますか?」

 お父さんはフェンスからそっと手を離した。脚がぷるぷる震えている。まるで産まれたての小鹿のようだ。

 とりあえず意思の疎通が出来たことに少しだけ安堵する。

 ぼくはまわりに人の姿がないのを確認すると、お父さんのそばに寄った。

「手を貸しますから。歩けますか?」

 するとお父さんはぐらりと倒れ込むように覆い被さってきた。

 ぼくは突き飛ばされてフェンスに激突し、さらにはお父さんと挟まれるかたちになった。

 あまりの重さと痛さと土臭さに、たまらずぼくは叫んだ。

「自分の足で立つんだよ!」

 お父さんはぐぐっとフェンスから身を離し、ゆっくりと手を離した。身体が前後にぐらんぐらん揺れている。

「ぼくの肩につかまって。体重はかけないで!」

 がしっと両肩をつかまれた。膝をつきそうなのをぐっとこらえる。

 ゆっくりと進んでゆくと、だんだん歩行に慣れてきたのか肩への荷重が少なくなっていった。

 アパートの入り口に着くころには、お父さんはすっかり歩けるようになっていた。

 ぼくはお父さんをアパートの部屋に連れ込むと、ひとまずお風呂場に連れて行ってシャワーで土を流した。

 土を落としてしまえば普通の大人の男の人だった。

 広い肩幅や背中、しっかりした首、長く筋張った手足。お父さんは、ママともぼくとも全然違う生き物だと思った。ぼくは学校の先生くらいしか男の人を見たことがないので、どきどきしてしまった。

 体を拭いてやって腰にバスタオルを巻いてやり、リビングのソファーに座らせた。するとがくりと首を落とし、ピクリともしなくなった。

 廃人とはこうゆう人をいうんじゃないだろうか。

 裸でぐったりしているさまはなんだかあわれで、ぼくは寝室から毛布をとってくると肩からかけてやった。

 そして大急ぎで着替えて、泥で汚れた服を洗剤につけおきし、風呂場の掃除をした。

(ママが帰ってくる前に外や家の中もきれいにしないと)

 掃除道具を抱えて玄関ドアを開けると、もう完全に夜だった。

 満月がきれいに見えて――ぼくはとつぜん空腹に気づいた。

(そうだ。ご飯もつくらなきゃ……)

 ひもじさと疲れが身を襲う。ぼくは泣きたい気持ちで廊下の土を掃いた。



「あら、なかなかいい男じゃないの」

 ママは仕事から帰るなり、たいして驚きもせずにそう言った。

「でもぜんぜん動かないんだ」

「そりゃそうよ。まだだもの。ちゃんと取説読んだ?」

 ぼくは疲労しきった身体をやっと持ち上げて、説明書を取ってきて広げた。


『下記のURLからお父さんのデータをインストールしてください。』


「インストール?」

 唐突のIT用語にぼくは目をしばたく。

 そもそもぼくはインターネットにつながる端末を持っていない。我が家にあるのはママのスマートフォンだけである。

 でもママは絶対に触らせてくれないと思う。

「どうしたの?」

 逡巡していると、ママが説明書を覗き込んできた。そして案の定、ものすごく嫌そうな顔をした。

「もうっ。一回だけだからね」

 ぼくはびっくりして顔をあげた。

 ママはスマホを操作し、充電器からケーブルを引っこ抜いてスマホに繋いだ。そしてお父さんを冷ややかに見下ろす。

「舌を出しなさい」

 お父さんは言われるがままに身を起こして口を開け、ぬっと舌を伸ばした。舌の先端には溝が一本横に入っていた。

 ママはその柔らかそうな溝に、USBケーブルをぬちゃりと押し込んだ。

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