第12話 女神サイトーは神界へと帰還していった


 ひとしきりお互いの友好を確認したのち、癒やしの勇者改め、第二七代統合管理官に就任した女神サイトーは神界へと帰還していった。

 その腕のなかでしっかりと抱きとめられていた赤子も、眼下の私たちに向かって小さなてのひらを振っていた。

 たしかに、賢い子どもだった。


「メルトちゃん、なるべく早く帰ってきてね」


 宙に浮かび、やわらかな光に包まれてゆっくりとその姿をおぼろなものにしていきながら、女神サイトーは先代女神に言葉をかけた。


「ええ、このアストラル体の耐用年数は百五十年から二百年といったところでしょう。その頃には神界の事務官も冷静さを取り戻しているはずですわ。それまで、彼らのお相手、しっかりとお願いしますわね」


 女神という職責から解放されたクラウディア・メルト・デイヴィスが軽く放った発言に、後任の女神は愕然とした。


「に、二百年っ。あんたそんなに逃げまわるつもりなのか!」


「おほほほほほっ。さすらいのSランク冒険者メルトの伝説がこれからはじまるのですわ!」


「ふざけんなっ。地の果てまで追いまわしてやるからな!」


「じゃ、そんなわけで」


 浮き上がろうとする力にあらがって珍妙な動きで地上に戻ろうとする女神サイトーに、自称Sランク冒険者ことメルトが、してやったりといった態度を隠すことなく手を降って見送る。


 荘厳な昇天の光景とは裏腹に、最後まで悪態をついていた女神の姿が消えると、あとには渺渺びようびようたる大地に取り残された三人が所在なさげに取り残されるばかりとなった。


「あれ? おれ、自分の子供なのに一度も抱っこさせてもらえなかった」


 剣の勇者がぽつりと発したその言葉は、誰の返答を得ることもなく、折から吹きはじめた風に吹き消された。


「さて、と。このあたりが潮時ですわね」


 誰に向かってというでもなくつぶやいたメルトが、地平線に視線を向けた。


「冒険の日々は終わり、しみったれた日常に戻る時間がやってきたってわけか」


 メルトとは別の方向を向いたタナカがこたえた。

 彼が目指す方角には、先日までともに戦っていた王軍の前線拠点がある。

 長く続いた掃討戦も一段落を終え、いまは撤収のための混乱のさなかにあるはずだった。


「約束は、おぼえているよな?」


 タナカの問いかけに、メルトが懐から闇色の結晶を取り出した。


「杖の勇者の復活、ですわね」


「ああ。身勝手な望みかもしれないが、頼む。俺にとって、やっぱり鈴木は元の世界の大切な同胞なんだ」


「しかし……」


 言い淀んだメルトが私に目を向けた。


 旅のさなか、幾度も話し合いながら、導き出した結論。

 セフィロトを身に宿し、生命の樹の管理者権限を手に入れた私が、杖の勇者スズキコーヘイの復活の役割を担う。


 それには、長い年月がかかるだろう。

 そしてそのあいだ、私は自身の身のうちに巣食うセフィロトの力を利用し続けなければならない。

 それはそのまま、異形として生きていくしかない選択肢だった。


 私は包帯の巻かれた腕をメルトに差し出した。


 腕だけではない。

 ウエストを絞った細身のローブと深くかぶったフードで隠れてはいるが、私の全身は余すことなく包帯に包まれている。


 魔王との最後の戦いにおいてすべての血肉をセフィロトに捧げた結果、私は人間の姿を保ってはいられなかった。

 意識すればつかのまの間だけ人のシルエットをかたちづくることはできるが、いずれはたゆたうもやのように崩れ去ってしまう。

 私はわだかまる闇としてしか存在することができなくなっていた。


 いま、私の全身を覆っているのは、女神であったメルトが聖属性の魔力を浸透させた包帯だった。

 肉体を構成する闇を、聖属性の魔力でき固めることによって、かろうじて私は人としての形態を維持し続けることができていた。


 無論、痛みはある。

 闇の表面を聖魔法で溶け崩し、魔力で再生すると、人であったときの記憶が元の形状に戻ろうとする。

 むしろ、いまとなってはその痛みこそが自分が人であるというという自意識のよすがとなっていた。


 勇者の従者として掃討戦に参加していた際、王軍の兵士たちが私を遠目に見て、勇者のボロ雑巾と口にしていたのを耳にしたことがある。

 我ながら、言い得て妙だと感心した。


 少なくとも、生命の樹を植樹するまでのあいだは、この状態が続くだろう。

 たとえ生命の樹が外界で根を張ったとしても、私の肉体が再生するという保証はない。


 メルトから結晶を受け取ると、それが持つ闇の力に感応したのか、私の全身が一瞬大きく脈動した。

 包帯の隙間から黒い霞が漏れ出してくる。


 手にした結晶を強く握りしめた。

 身体の芯にズキズキとした疼痛を残して、脈動はおさまった。


 この痛みにも、いずれは慣れるだろう。

 人間はどんな状況にだって適応して生きていくことができる。

 それはこの旅路において、私が身をもって理解したことだった。


「あんたには、最初から最後まで迷惑のかけ通しだったな。本当に申し訳なかったと思う。あらためて、感謝する」


 タナカが私に向かって頭を下げた。


 返すべき思いはあったが、言葉はなかった。

 そもそも私には口がない。


 彼は戦うことを目的として、この世界にび出された。

 だがその目的を達したからといって、彼の人生が終わるわけではない。

 今後、彼の肩には大きな責任がかかってくることになるだろうことは予想できた。

 なにせ彼は、世界を救ってただ一人生き残った勇者だ。

 彼の存在感が大きくなればなるほど、選び取れる選択肢は少なく、困難なものとなるだろう。


 共に戦った仲間として、彼の行く末を見届けられないことを残念に思う自分がいた。

 そんな感情の機微が働くこと自体、不思議に感じた。

 自分でも意識しないうちに、私達三人の連帯感は強固なものになっていたらしい。


 私は彼の肩に手を置き、結晶をしまい込んだ懐にもう一方の手を添えてうなずいてみせた。


 うつむいた彼の肩から、細かな震えが伝わってきた。


「本当に……、本当にどうもありがとうございました」


 したたり落ちた雫が、荒れた大地にかすかな染みを描いた。


 そっぽを向いているメルトからも、鼻をすする音が聞こえた。


 私にも、こみあげてくる思いはあった。

 しかし、いまの私にはそもそも目がなかった。


「この混乱が落ち着いて平和な世の中が戻ってきたら、みんなで一杯やろう。それまで、ふたりとも元気でいてくれ」


 赤みの残った瞳を笑顔で隠すように、タナカが陽気な声をあげた。


「勇者の次は、内政チートで目指せハーレムですか。なんとも調子のいいことですこと」


「はは。そんな楽なもんじゃないってことは身に沁みてわかったよ。でも、やってみる価値はあると思うんだ」


 メルトは静かにタナカを見つめた。

 女神の座は辞したとはいえ、その瞳には深い慈愛が籠もっていた。


「大丈夫。あなたなら、きっとたくさんの人を笑顔にできますわ。せっかく拾った命です。後悔しないよう、自由に生きてゆきなさい。あなたの行く末に、幸多からんことを」


 大きくうなずいたタナカが、空を振り仰いだ。

 強く食いしばった歯の隙間から、ありがとうという言葉を、震える声でしぼり出した。


 見上げれば、突き抜けるような青空が広がっていた。

 上空は風が強いのか、真っ白な雲の塊が、飛ぶような勢いで流れていた。

 それはたしかに、私が見たいと願っていた空だった。


 きっと、多くの人が同じようにこの空を見上げていることだろう。

 そして、その人々は世界を救ったこの男の帰還を待ち望んでいるはずだ。

 彼の生きる世界は、そこにある。


「また会おう。必ずまた会おう。その日を楽しみにしている」


 きびすを返して立ち去るタナカの背中が見えた。

 はじめて出会ったときのオドオドとして不安な雰囲気など微塵も感じさせない、盤石ばんじやくとして大きな背中だと思った。

 帰るべき場所があり、守るべき相手のいる人間の背中だった。


 私にも、帰るべき場所がある。

 懐かしい人々との再会はかなわないかもしれない。

 出会ったところで話すことはできず、相手は私のことを気づくことすらできないかもしれない。

 それでも、もう一度あの街の、私を育ててくれたギルドの人々の姿を見たかった。


 私は新しい一歩を踏み出した。

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