第8話 それがどうしたというのだ
身を焦がすほどの憤怒に包まれ、心が憎悪に
それがどうしたというのだ。
怒りと憎悪。
それもまた、人が生きていくうえで欠かせない感情のひとつにすぎない。
ときにはそれこそが、人を前進させる原動力にもなりうる。
人間には敵が必要なのだ。
敵を倒し、敵に倒される。
それが人類の歴史だ。
この世のすべてを敵にまわし、この世のすべてを討ちはらったあと、いったいなにが残るというのか。
それは己自身に対する憎悪だろう。
行きつくところは自壊しかない。
己を憎むために世界を憎む。
なんともはた迷惑な話だった。
いっそバカバカしいと言ってもいい。
そんなものに巻き込まれて、いままさにこの瞬間、自分は死にゆこうとしている。
私ははじめて己自身のことを惨めだと思った。
こんな終わりを迎えるのならば、さっさとエレノアを抱いておけばよかった。
あの白く柔らかな肉体を組み伏せ、甘い肌に吸いつけば、どれほどの快楽を得られただろうか。
新人冒険者の育成などとくだらない使命感に燃えて、自分の能力を浪費した事実に悔いしか残らない。
それなりに実力のあるメンバーを率いてパーティーを組んでいれば、いずれはひとかどの冒険者として名を成せたという自負はあった。
孤児院やスラム街でたむろする孤児たちなど、奴隷とたいした違いはない。
飢えない程度に食わしてやれば、なんでも命令通りに動いた。
どぶさらいをしたあと、洗ってもいない手で腹が減ったと私にしがみつく子どもたちのひてのらをほどき、井戸で一人ひとり洗っていくのにどれだけ苦労したことか。
そうだ。
てのひらだ。
私と仲間たちの記憶には、つねにてのひらが介在していた。
エレノアの柔らかく温かなてのひら。
何千何万と剣を振り続けた冒険者の、分厚く硬いてのひら。
子どもたちの小さくかすかに湿ったてのひら。
孤児だった私を育ててくれた神父は、臨終の間際、私の手を握りしめながら、おまえのことが心配でたまらないと言い残して逝った。
シワだらけで干からびたてのひらから、ゆっくりと力が抜けてゆく感触を、いまだに忘れることができない。
すべては、あのてのひらからはじまったように思う。
あのてのひらに込められた想いにこたえようと、懸命に前に進んできた。
自分にできることを増やし、誰からも心配されず、手助けを受けなくとも生きていける人間になろうと目指してきた生涯だった。
だが、冒険者として成長していくなか、自然とてのひらの意味は変わっていった。
臨時パーティーを組んだ冒険者たちと挨拶がわりに叩きあうてのひらからは、ともに死線をくぐり抜けた者だけが分かち合える生命への感謝が伝わってきた。
私を見れば群がってくる子どもたちのてのひらには、心細い毎日を送る彼らの安心と信頼が溢れていた。
そしてエレノア。
口に出して伝えられたことはないが、彼女のてのひらには、いつも私のことを心配する感情が込められていた。
私は幾多のてのひらにこたえられただろうか。
エレノアだけではない。
ギルドマスターも、ドワーフの親方も、誰もが私のことを気遣ってくれた。
誰からも心配されず、手助けを受けずに生きていくことなど不可能だ。
私自身、彼らを助けることを冒険者としての誓いにしたのではなかったか。
胸のうちに、これまでとは質感の異なる強い怒りが湧きあがった。
ここでなにもかも諦めて死ねば、あのてのひらに込められた想いのすべてを裏切ることになる。
それだけではすまない。
てのひらの持ち主たちも、無惨に死んでいくことになる。
そんなことは、とうてい容認できなかった。
杖の勇者のアストラル体とアカシックレコードを再接続させれば、とりあえず私は生き延びることができるだろう。
しかし、それでは汚染された神界による影響を受けて、世界に緩慢だが確実な死が訪れることになる。
どうすればいい。
考えた末にいたった答えは、単純であるがゆえに壮絶な苦痛を伴う選択だった。
まだ死ぬことはできない。
溢れる憎悪を身に宿し、絶え間なく突きあげてくる怒りの業火にさらされながら、なお理性を保ち続けなければならない。
生きながら肉が腐り落ち、意識のあるあいだ、永遠に怨嗟の声に
魔王、召喚者、世界の管理者たる神界の住人たち。
そんなものは知ったことではない。
この世界の破滅は、この世界に生きるものが防がなければならない。
苦痛は甘んじて受け入れよう。
それがこの世界に生まれ落ちたものの宿命であるならば。
しかし、滅びを前にして屈することだけはできない。
この身に持てる全力で抗ってみせよう。
それが、この世界に生きるものの矜持だ。
知らず、口から声が漏れていた。
はじめ、弱くか細い呻きのようだったその声は、気づいたはしから自身の制御を越え、雄叫びとなって耳を聾した。
喉を震わせて響き渡る咆哮に励起されるように、私の身体のどこか奥深くでアストラル体が姿を変えていった。
まるで大樹が根を張るような貪欲さで、縦横無尽に全身くまなく広がっていく。
知覚できるそれは、一見無造作な爆発をかたどったような無秩序な塊に思えたが、全体を俯瞰すれば不思議なほど整合性がとれていた。
抑え込んでいた杖の勇者の肉体が、再び漆黒の炎と化して燃えあがった。
だが、それは彼の意思ではない。
私が強制的に変換した結果だ。
まだ足りない。
もっと燃え盛れ。
すべての力を奪い取ってやる。
激しい炎の乱舞はさらにその勢いを増した。
燃焼だけでは負荷に耐えきれなくなったのか、幾条もの青白い雷槌を走らせながら、小規模な爆発を連続して起こした。
爆発は空気を圧迫し、風を呼びよせ、周囲のいたるところで流れが渦巻いていくつものつむじ風が立ちのぼる。
杖の勇者の肉体を構成していた黒い炎が、つむじ風によって絡め取られるように吸い込まれていくのが見えた。
それはまるでのたうちまわる蛇の群れのようだった。
苦しげに身をよじらせ、とぐろを巻く真っ黒な蛇が、数えきれないほど蠢いている。
私はその一匹を掴み取り口へ持っていくと、躊躇することなく頭を噛み切った。
切断面から腐った血液のようなドロドロとした黒い液体が吹き出してくる。
嚥下するまでもなく、染み込むようにしてそれは体内に吸収されていった。
それから先は、ある意味、単調な作業だった。
引き裂き、握りつぶし、かぶりつく。
同じ場所で行われていたジャイアント・スパイダー戦の繰り返しといってもいい。
異なる点といえば、女神がいないことと私が喰らう側にまわったことだった。
やがて、杖の勇者をすべて摂取し尽くしたとき、私の手のなかに硬質な感触が残った。
見れば、それはガラス質の結晶だった。
ふたつの四角錐が上下対称にくっつき、八面体の形状をしている。
周囲の光を吸い込むように闇色に光り、一定周期で脈動するように、細かな赤黒い輝きが内部を走っていた。
すべての生けるものが身に宿し、死と同時に溶けさるといわれているアストラル体。
本来ならば決して物質化することのない魂が、私の手の内にあった。
逆説的にいえば、これがあるかぎり、杖の勇者はまだ生きているということになる。
そこまで考えたとき、思いいたった。
魔王を消滅させることは、異世界からの転移者にしか為しえない理由。
そして、何度死しても復活する蘇生の秘儀。
「気がついたようですわね」
振り向くと、復活を遂げた女神が立っていた。
いずれ尋常な復活法ではなかったのだろう。
食われた首から上は再生しているものの、頭部全体が血まみれだった。
豪華に波打っていた豊かな金髪も、いまは朱に濡れて顔に張りつき、その奥から底光りする視線が私の手にある闇色の結晶に向けられている。
「肉体を構成するマテリアルデータを収めた終端末装置。それがアストラル体と呼ばれるものの正体ですわ」
そう言いながら近づいてくると、私の手から杖の勇者のアストラル体を取りあげた。
「通常、これは神界で保管され、地上での生涯を終えると、再使用のためフォーマットされる。けれど勇者や魔王といった、異世界から召喚、転移してきた人間の場合、終端末装置が神界の管理外にあるため、物質化して肉体に内蔵されることになる。当然、自身の終端末装置のアドミニスター権限も譲渡されたうえでのことになりますわ。これがチートや不死性の種明かし。身体能力のマテリアルデータを改竄して望み通りに最適化できるうえ、装置を破壊されない限り、外的損傷で死ぬことはないのですもの。強くて当たりまえですわよね」
それにしても、と言って私に目を向けた女神が、突然むせた。
激しく咳き込み、続けて大量の真っ赤な
「おろ、おろろろろろ。おろおろおろおろ。へけ!」
あまりに苦しそうな様子に、私は思わず、女神の背中をさすっていた。
「し、失礼いたしましたわ。再生したばかりで、鼻血が気管に入ったみたいで。……うう、女神としての威厳が」
股を開き、膝に手を当てて豪快に嘔吐するさまは、妙に貫禄溢れるものだったが、たしかに威厳は存在しなかった。
「それにしても、あなた、わたくしが恩寵を授けたとはいえ、まさか自力で存在進化するなんて思いませんでしたわ」
杖の勇者の力を奪ったとき、自分のアストラル体に起きた構造変化を思い出した。
あれが存在進化なのだろうか。
「なんなんですの、そのアストラル体。立体化されたマンデルブロ集合体? うわっ、キモ! なんかブツブツがいっぱい。あ、鳥肌。わたくしも鳥肌でブツブツした!」
わちゃわちゃと動きまわる女神を背景に、私は自身のステータスを確認していた。
これまで、数字の羅列になど意味はないと無視していたが、さきほどから視野の片隅で痛みを感じるほどに点滅し、いい加減、鬱陶しくなっていた。
そこには、新しい文言が書き加えられていた。
<称号>セフィロトに触れし者
<ユニークスキル>到達者
なにを意味するのか見当がつかないが、一点だけ、私にも理解できる箇所があった。
<種族>使徒
どうやら、私は人の道からはずれたようだった。
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