第7話 その肉体はすでに意識が失われている
その肉体はすでに意識が失われているのか、全身を弛緩させて、だらりと四肢を揺らしている。
魔物の口からぐちゃぐちゃと
私がとっさに女神の身体をつかみんで引き寄せると、首から上を失った肉体がべちゃりと音を立てて、地面に転がった。
一瞬ののち、
魔法使いの青年が、狂ったような悲鳴をあげていた。
女神を屠ったジャイアントスパイダーが、次の獲物を杖の勇者に定め、今まさに襲いかかろうとしているところだった。
それは純粋な恐怖の発露だったのだろう。
技もなにもなく、ただ膨大な魔力だけを込めて振りまわした杖がジャイアントスパイダーの甲殻に接触した瞬間、空間を叩き割るような音とともに、巨大な火球が膨れあがった。
それは瞬時にして敵を燃え尽きさせるに足る威力を有していたが、同時に、生み出した術者の肉体をも包み込んだ。
もはや杖の勇者から叫び声が聞こえることはなかった。
全身を燃え上がらせ、関節の構造を無視して転げまわる姿は、人の形をした
奇妙な踊りにも似て激しくのたうちまわっていた炎の塊が、徐々にその動きを緩慢なものしていく。
私はなすすべもなく、それらすべての過程を見つめることしかできなかった。
やがて、かつて勇者だったものが完全に静止したとき、気がついた。
風が吹いていた。
まるで周囲の空気を吸い込むように。
それは私がこの世界で最も恐れるもののひとつだった。
瘴気溜まりで手負いとなった魔物が持つ最後の手段。
憎悪と怨念に満ちた本能が、周囲の
バーサークだ。
まさか、と思った。
勇者は人間だ。
魔物ではない。
これまで、やむを得ず瘴気溜まりで戦闘に及ぶことも幾度もあった。
そのさなかで死んだ人間も幾人も見てきた。
だが、凶暴化してモンスターと化す人間の話など聞いたこともない。
しかし、ならば眼前で起きつつあるこの現象をどう説明すればいいのか、私にはわからなかった。
ただでさえ魔素の濃いダンジョン内部。
さきほどまで数百は下らない数はいたジャイアントスパイダーを全滅させたことで、現在この空間は身体を動かせばねばついた重さを感じるほど、濃密な瘴気に満ちている。
そして、吸い込まれていく風。
「お、おい。いったいなにがどうなってるんだ!」
生き残った剣の勇者が、隠しようのない震えを帯びた声をあげた。
逃げろ、という私の言葉は声にならなかった。
ただ一点、異なっていたのは、その身を構成する炎は、黒かった。
かろうじて顔と分かる部位に、ふたつの瞳と耳元まで裂けた口だけが、赤い色彩を揺らめかせていた。
「最初からこうしておけばよかったんですよ」
その口から放たれる言葉は、以前と変わらぬ、まるで危機感を感じさせない口調だった。
「勇者? 魔王? そんな分類にはなんの意味もない。この世は弱肉強食です。弱い物が強い者に隷従する。そんな当たり前のことにどうして気づかなかったんだろう。ああ、異世界から召喚した勇者にしか魔王は消滅できないんでしたっけ。ならば僕のするべきことは決まっています。田中くん。僕はチャラチャラしたイケメンの君のことが大嫌いだったんですよ。だから君が死んで僕が生き残れば、僕だけが絶対唯一の正義になる。正義と最強。ふたつを兼ね備えた僕に逆らうことなど許されはしない。死んで当然なんだ! そうだ、皆殺しだ。弱いくせに偉そうな顔をしたウジ虫どもに正義の審判をくだすことこそが、僕の使命だ!」
モヤのように揺らめいていた黒い炎が、物質的な圧力をともなって剣の勇者に襲いかかった。
彼は手にした剣を構えることも忘れ、呆けたように立ち尽くしていた。
防ぐ手段は他に思い浮かばなかった。
剣の勇者に体当たりをして弾き飛ばすと同時、私の肉体は黒い炎に包まれた。
それは絡みつくように私の身体を押さえ込み、全身をくまなく焦がし尽くした。
皮膚がやぶけ、脂肪が沸騰し、筋肉が骨から剥がされていく。
呼吸を求めて息を吸い込めば、口腔から侵入した熱気が臓腑を内側から炙っていった。
それでもなお、私は死ねなかった。
私の魂に蓄えられていた膨大な魔力が、失われていくそばから血と肉を再生しつづけた。
「鈴木っ、頼む、正気に戻ってくれ。俺たち、同じ日本人じゃないか!」
遅まきながら、剣の勇者が聖剣を構えなおした。
もはや杖の勇者は、原型を留めていない。
見紛うことなく悪意の塊と化していた。
そして彼を抑え込む私もまた、全身を黒い炎に侵食されていた。
周囲から見れば、私が杖の勇者に取り込まれたも同然に見えるだろう。
それでいい。
あとは剣の勇者の覚悟にかかっている。
体内に残った魔力を総動員して杖の勇者にしがみついた。
掴みどころのないモヤのようだった黒い炎が、パキパキと音を立て、凍りつくように個体化していく。
灼けた喉のせいで声を出すことができない。
私はすがる思いで背後に立つ勇者に目を向けた。
為すべきことは彼にも伝わっているはずだ。
女神は言っていた。
彼らには徹底して危機意識が欠けている。
目の前にいる敵を倒さなければ、生き残ることなどできはしないのに。
しかし、今はちがう。
殺さなければ、殺される。
使命感からではなく、単純な生存本能の命ずるままに、勇者は握りしめた剣を突き出した。
背中に鋭い衝撃を感じた。
見れば、私の胸元から生えた剣が、杖の勇者に突き刺さっていた。
だが、これだけでは足りなかった。
私が凍らせたことで黒曜石のように固まっているが、私が死ねば、黒い炎としての実体を取り戻し、一切の攻撃を受けつけなくなるだろう。
女神から恩寵を授かったときのことを思い出した。
アストラル体をフルスキャンして、アカシックレコードとダイレクトリンクさせる。
それこそが勇者の持つ力の根源だと。
女神と同じことが私にできるはずはない。
しかし、彼のアストラル体に直接アクセスするだけならば、私にも可能なように思えた。
いま、私と杖の勇者は物理的に一本の剣で繋がっている。
その剣は、勇者だけに与えられる聖剣だ。
魔力の伝導体として、これ以上のものはないだろう。
胸を貫く刃を両手で握りしめた。
炭化した指がぼろぼろと崩れ落ちた。
すでに痛みを感じることはなく、肉が再生する気配もなかった。
もう、限界が近いのだろう。
残された時間は多くない。
意識して魔力を流せば、あっさりと杖の勇者のアストラル体を知覚することができた。
あるいは、私が死にかけで肉体から魂が抜けかかっていたことが、目的を容易にしていたのかもしれない。
杖の勇者のアストラル体は、すでに言語化できる意識を有する状態になかった。
理不尽な怒りとおぞましい恐怖、そしてすべての生命に対する強烈な憎悪だけで満たされていた。
私はその正体を悟って慄然とした。
これこそが、魔王と呼ばれるものの本質だ。
世界にあふれる悪意のみで作られたアストラル体。
それが神界のアカシックレコードと直接繋がり、逆流することで、世界に満ちるエーテルが汚染される。
木々は新鮮な空気の代わりに瘴気を吐き出し、湧き水は毒に変わり、すべての生き物が魔物へと姿を変える。
魔王と勇者とは表裏一体なのだ。
エーテルを汚染するのが異世界転移者であるならば、それを浄化するのも同じ転移者の役割だった。
いまも、膨大な悪意がアカシックレコードを通じて神界を汚染しつづけているのがわかった。
私は自分にできることをやった。
杖の勇者のアストラル体を構成するマナコードを書き換え、アカシックレコードとのリンクを解除した。
飽和した憎悪が周囲に爆発的な拡散を及ぼすことを避けるため、聖剣をバイパスとして、私のアストラル体に誘導する。
思考が真っ黒に染まった。
世界に対する圧倒的な破壊衝動。
己を包み込む巨大な恐怖と、それをはねのけるために必要な暴力への渇望。
死にゆく者が抱く生ける者への羨望。
ギルドマスターが手にした棍棒で私をめった打ちにする光景が脳裏に写った。
ドワーフの親方が、それを見てゲラゲラと笑っている。
孤児院の子どもたちは手にした石くれを
殺意に満ち、ギラギラとした目を光らせて私を追い詰める冒険者たち。
うずくまる私に唾を吐きかける街の住人。
首に縄をかけられ、馬で引きずり回される私を無感動に見つめる王や宰相たち。
吊るされた私が最後に見たものは、ナイフを振りかぶるエレノアの嫌悪に塗れた表情だった。
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