06.ガラスペンが解き放つ叫び

「魂の暴走を抑えるには、言葉にすることが最善だ」


 ユキコさんを救う、という覚悟を決めたおれに、フリッツさんが静かな声でゆっくりと話しはじめた。


「カンデラ堂は迷える魂を導き、解放するための店。しかし、解放というのは必ずしも良いことばかりではない。魂が抱える痛みや執着が大きいほど、それが暴走し、周囲を巻き込むこともある。解放にはリスクが伴う」


 天井から吊り下げられたシャンデリアが、ゆわんと揺れている。フリッツさんの言葉を聞いて、揺れるシャンデリアを見て、すぐにピンときた。

 ああ、だからか。と思う。サリさんのときもそうだった。彼女が感情を暴走させている間、ずっと苦しそうだったから。悲しみと痛みで押し潰されそうになりながら、助けを求めていた。それはきっと、ユキコさんも同じだ。


 フリッツさんはさらに続ける。


「生きている人間がカンデラ堂の客にならないのは、この店が生きた人間にとって劇薬だからだ。店の中では簡単に感情が暴走し、魂が捻れてしまう。捻れた魂は身体うつわからあふれ出し、やがて身体を失うことになる」


「……それは、フリッツさんが失敗したっていう過去の話ですか?」


 というおれの問いに、フリッツさんは無言で頷いた。


「彼女は生身のまま、この店に来た。店に入れた以上、彼女は客だ。私は出来得る限り、彼女を生身のまま返したい。圭祐には、その手伝いを頼む。——できるか?」


「はい。おれがやります」


「よろしい」


 フリッツさんはそう言うと、カウンターの引き出しから手袋を取り出し、おれに差し出した。白い色のその手袋は、カンデラ堂の制服——いや、正装のひとつだ。


「これを嵌めなさい。カンデラ堂の正装だ。この手袋を嵌めれば、魂に触れても呑まれることはない。君が魂に触れる覚悟を示すものでもある」


 この手袋を嵌めれば、ユキコさんに触れることができる。そう言ったも同然だった。サリさんのときは素手で触れてしまったから、一歩間違えていれば大変なことになっていたらしい。

 けれど、手袋これがあれば。


 おれは差し出された手袋を受け取って、両手に嵌めた。しっとりと掌に吸いつくような感覚に、不思議と心が落ち着いた。


「圭祐。迷える彼女を導くのは、君自身だ。……推しの言葉は人生を変える力がある。そうだろう?」


 その言葉に背中を押され、おれは暴走するユキコさんの元へゆく。

 弥勒さんと口論しているユキコさんの肩は激しく上下し、刺々しく鋭い声ばかりが口から飛び出していた。

 ユキコさんの感情に引き摺られるように周囲の空気はざわついて、シャンデリアがゆわんゆらんと揺れている。ショーケースの中のガラスペンたちはカタカタと音を立て、インク瓶の棚がぐらついている。


 まるで、亡霊だったサリさんが暴走したときのように。あのときと違うのは、黒い蝶が舞っていないことくらい。ひとりの人間の感情が、ポルターガイストに相当する変異を引き起こしているなんて。そう思うと、怯んで足を止めそうになる。

 けれど背後から、フリッツさんが「大丈夫だ」と支えてくれるから。おれは歩みを止めずに前へ進む。


「ユキコさん」


 おれは手袋を嵌めた手で、そっと彼女の手を取った。


「……離して! 私なんか、どうでもいいんでしょ!」


 首を左右に振って、激しく拒絶しようとするユキコさん。けれど、その声の裏には、どこか頼りなさを感じたから。おれはふるりと首を振った。


「いいえ、そんなことはないです」


 おれは力強く言った。ユキコさんを許さない、と言った口で告げる言葉に、どれだけ説得力があるだろう。挫けそうになったとしても、話し続けるしかない。言葉を尽くすしかないのだから。それだけは、わかっているから。


「あなたが感じているその痛みも、悲しみも、おれには完全に理解できません。でも、だからこそ言葉にしてみませんか? 本当に伝えたいことを教えてください」


 握った手の先。ユキコさんは俯いて震えていた。けれど、彼女が振り返ることはない。シャンデリアは相変わらず、ゆわんと揺れている。おれは、奥歯をキツく噛み締めた。自分の無力さが嫌になる。なんてことだ、ユキコさんの推しはおれなのに、おれの言葉が届かない。


 どうすればいい。どうすればユキコさんを落ち着かせることができるだろう。このまま暴走し続けたら、ユキコさんは身体を失って、魂だけになってしまう。

 冷静になれ、考えろ。おれはユキコさんと繋いでいないほうの手で、自分の片頬を、ばふ、と叩いた。そうして、


「ユキコさん、おれと一緒に手紙を書きませんか?」


 と。おれは深く息を吐きながら、ユキコさんの震える背中に問いかけた。


「手紙を書きましょう。綺麗な言葉じゃなくていいんです。本当に伝えたいことを書くんです。おれもユキコさん宛ての手紙を書きますから」


 おれは声を震わせないよう、精一杯穏やかに伝えた。すると、ユキコさんがくるりと振り返る。その顔は、信じられないものを見るような表情で輝いていた。


「不律くんが……私に手紙を書いてくれるの!? 書く、書くに決まってる! 推しから貰える手紙、家宝にします!」


 はしゃいだユキコさんは、おれが知っているユキコさんに戻っていた。甘い声と夢見るような眼差しが、熱っぽくおれを見ている。ざわついていた空気はいつの間にか鎮まって、心なしか店内も温かく感じるほど。


 けれど、天井から吊り下がったシャンデリアが。暖かな光を灯すシャンデリアだけが、ゆわんと揺れて影を揺らしているから。おれは全然、楽天的にはなれない。

 一時的に正気に戻っただけで、いつまた暴走するかわからない。もっとも、推し活になると目の色を変えるユキコさんが、正気である、と言っていいのか、わからないけれど。


「書こう、手紙。あ……でも、どう書いていいのか、わからない」


「大丈夫です。おれも一緒に書きますから。まずは、ペンとインクを選びます」


 おれはそう告げると、ユキコさんの手を取ったまま店内を案内してゆく。

 ユキコさんの頬が赤い。遠慮がちに握り返された指が頼りなかった。その儚さに嫌な予感を覚えながらも、おれは黙って案内をする。


 はじめは、ガラスペンが並んだショーケース。色とりどりのペンが等間隔に並んでいて、どのペンもペン先を上に向けて陳列されている。


「この中から選んでいいの? ……じゃあ、このペンがいいです」


 ユキコさんが選んだのは、グリップ部分がふっくらと膨らんでいて、持ちやすそうなガラスペンだった。ペン先はストレートで、少し捻りが加えられている。ユキコさんが選んだペンの軸色は、さくら色とわかば色。


「そのペンは、ガラス工房ほのおの硬質ガラスペン『清風』だ。ダイヤ絞りと呼ばれる美しいらせん模様が特徴のガラスペンだ」


 後ろについてきてくれていたフリッツさんが、静かに解説をしてくれた。フリッツさんに選んだペンを渡して、次はインクだ。インク瓶が壁一面に並んでいる棚の前に来ると、ユキコさんが笑った。


「インクは不律くんが選んでよ。ふたりで書くんだもの。ふたりで選ばなきゃ」


「わかりました。……じゃあ、これで」


 おれが選んだのは、文具館タキザワ・PENBOXから出ている雪彩-sessai-シリーズの『火焔型土器』だった。


 火炎型土器は、信濃川流域に点在する縄文時代の遺跡から発掘された炎のような造形をした土器だ。雪彩シリーズの『信濃川』とも迷ったけれど、『火炎型土器』は成熟された大地の色で、色々なものを大らかに受け止めて包み込んでくれるような色だから。この色にした。


「次は手紙を書く紙ですが……」


「面白い! レターセットと、紙の束があるんだ。ねぇ、不律くん。この紙は?」


 ユキコさんが手に取った紙は、B5サイズでグレーの横罫線が印刷された紙だった。興味深そうにユキコさんがぺらりと裏返すと「CRANES CREST 100% Cotton」という透かしが入っている。


「その紙は、クレーンクレストウーブという名前の紙で、厚さも色も、その一種類です。アメリカにあるクレイン社生産の上質なコットンペーパーです」


「凄い! 不律くん、凄いね! スラスラ言えるなんて、もしかして勉強したの?」


「勉強は……はい。しました」


「じゃあ、この紙にしよう!」


 ユキコさんは、おれが選んだ紙を数枚取ると、大事そうに抱えてにこりと笑った。その笑顔は、今まで一度だって見たことのない顔で、夢見るようにとろけていなければ、怒りや悲しみなんかで歪んでいるわけでもなかった。

 もしかしたら、この爽やかに笑う顔こそが、本来のユキコさんなのかもしれない。だなんて思いながら、ユキコさんをカウンター端の筆記スペースに再度案内する。


 カウンター内には、フリッツさんと弥勒さんが肩を並べて待っていた。フリッツさんがいつも通り冷静な表情で淡々と囁いた。


「圭祐。魂が暴走するというのは、それだけ強い感情がある証拠だ。言葉に変えることで、彼女は自分自身と向き合うことができるだろう」


 弥勒さんは興味深げに目を細め、腕を組んでいる。


「さあ、どうなるか見ものだな。フリッツのやり方が正しいかどうか、じっくり見させてもらおうか。……責任重大だな、圭祐よ」


「いつだっておれは、責任を持って接客してますよ」


 おれは弥勒さんをあしらって、ペントレイに置いた二本のガラスペン、茶色のインク瓶と手紙を書くための紙。それらを筆記スペースの上に綺麗に並べて置いた。


「なにから書けばいい?」というユキコさんの問いに、おれは少し困ったように笑った。だって、おれもなにを書けばいいのかなんて、本当は分からなかったから。だけど。


「短くても、長くても。自分の気持ちを書くんです」


 と。自分自身に言い聞かせるように告げたおれは、ペントレイに置かれたわかば色のガラスペンを握り「ユキコさんへ」と書きはじめた。


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