05.狭間で交わす魂の灯火

「やめて、私を拒絶しないで! 私がこんなに頑張ってるのに、どうして認めてくれないの!」


 弾けるようなユキコさんの声が店内に響いた。途端、店内の空気がピリリと冷たく張り詰める。咄嗟に後ろに下がって距離を取る。座っていた椅子に脚がもつれて後ろへ倒れる音がする。


 ユキコさんの叫びはまだ続いている。

 彼女の表情は、刺々しいものへと歪んでいった。頬は赤く上気し、目はぎらぎらと燃えるよう。身体が小刻みに震え出し、その手がカウンターに爪を立てている。歯軋りの音まで聞こえてきそうなほど、ユキコさんは剥き出しにした歯を食いしばって弥勒さんを睨みつけていた。


「ゆ、ユキコさん……大丈夫ですか?」


 慌てて声をかけたけれど、おれの声はどうしようもなく震えていた。目の前で感情を剥き出しにして興奮しているユキコさんに、どう対処すればいいのかわからない。

 あれ、ユキコさんって、ここまで暴力的な感情をあらわにするひとだったっけ? カンデラ堂に来てからのユキコさんは、どこかおかしいんじゃないか?


 浮かんだ疑問に首を傾げながら、ユキコさんをジッと見る。すると、だ。彼女の周りの空気が、ゆらゆらと揺らいでいる様が見てとれた。カズアキさんタツマさんのような生き霊とは違う。サリさんのような亡霊ともまた違う。熱気を帯びたなにかが、ユキコさんを覆い尽くそうとしている。


「ほら、見ろよフリッツ。いい感じに捻れてきたじゃないか」


 背後から聞こえる弥勒さんの声に、おれは反射的に振り返った。弥勒さんは腕を組み、愉しげに口元を歪めている。


「あの魂を狩れば、ノルマ達成だろう? お前も楽になれるし、ぼくもしばらくは安心できる」


 もしかして、弥勒さんがユキコさんになにかしたのか。サリさんのときのように、あの黒い蝶でユキコさんの感情を暴走させているんだろうか。

 おれが疑惑の目を向けて睨んでいるのに、弥勒さんはフリッツさんのことしか興味がないように叫ぶ。


「ほら、狩れよフリッツ。狩って、あの魂をお前のものにしろ」


「弥勒……!」


 フリッツさんの声が低く響いた。冷たいはずのフリッツさんの声は、無神経な弥勒さんへの怒りによって熱く滾っている。


「余計なことをするなと言ったはずだ」


「余計だって? ぼくはお前のことを思って言っている。ノルマを達成できないお前がどうなるか、ぼくには目に見えているからな。いいか。お前が消えるなんて、つまらないんだよ」


 弥勒さんは悪びれることなく肩をすくめた。


「お前がまた身体を失って魂に戻ったら、どうなると思う? せっかく圭司に貰った名前と身体を台無しにするのか? 魂のままじゃ、この店、今みたいに続けられないじゃないか。なにより——」


「黙れ」


 フリッツさんの怒れる声が、弥勒さんのおどけた言葉を遮った。

「黙れ」と告げるその声には、いつもの柔らかさはなく、鋭さが増している。嘘だろ。だなんて、フリッツさんの感情的な声に驚いている場合じゃない。


「フリッツさん、カンデラ堂の心得を思い出して!」


「……っ、どのような場合でも冷静に。感情に呑まれてはいけない。——そして、客の話を聞くことだ」


 フリッツさんはそう言うと、深呼吸を一度。深く息を吐きだして、大きく吸う。そうしておれに、ほんの少しだけ。淡く微笑んでから、フリッツさんはカウンター越しにユキコさんと向かい合った。


「やめて、やめて。不律くんは私の推しよ、私の運命よ! 私たちを引き離さないで!」


 叫んだユキコさんの身体が大きく揺れた。彼女の周りの空気がさらに乱れていく。肩で息をしながら、ユキコさんがおれをギロリと睨む。夢を見ているような目ではなかった。その目には、怒りや悲しみ、混乱が渦巻いている。


 クソ、どうすればいい? 弥勒さんがニヤニヤ嗤いながら無力なおれを見ている。ただ拳を握りしめて、その場に立ち尽くすことしかできないおれを。


「圭祐」


 と。フリッツさんが静かに名前を呼んでいた。ぐらついていた足元が少しだけ安定した気がする。呼吸を整えて顔を上げると、フリッツさんのラベンダー色の瞳が優しく、けれど力強くおれを見つめていた。


「君が求めるものはなんだ?」


 フリッツさんの問いかけに、おれは答えることができない。

 求めるもの、なんて。おれには全然わからない。ユキコさんの魂を救うべきだ、とカンデラ堂の店員の思考で考えて、いやいや彼女を拒絶したままでいるべきだ、なんて思い直している。


「迷っているのか」と、フリッツさんが目を細めていた。

 おれが躊躇いながら頷いて、横目でチラリとユキコさんを見る。彼女の怒りの矛先は、ニタニタ嗤う弥勒さんに向けられていた。


「彼女の相手は弥勒が請け負ったようだ。圭祐、君の迷いを取り去ることができるかは、わからないが……少し話そう。君の曾祖父、圭司さんと私とカンデラ堂の話を」


 フリッツさんが語る曾祖父さんの話。そんなの、聞いてみたい。それに、今でなければ、もう聞けないんじゃないか、と感じたから。

「お願いします」と答えると、フリッツさんは、静かな声で語りはじめた。


「圭司さんは、私がカンデラ堂を横濱に構えていたころ、何度も訪れてくれた。彼は、普通のひとには見えないものが見える体質だったようだ。そのせいか、招かれたわけでもないのにこの店に辿り着いた」


 まるで大切な記憶を話すように、フリッツさんの目が柔らかく細まった。


「彼は迷える魂と向き合うことを面倒がらず、むしろ楽しそうに助けていた。『魂の声を聞くのは面白い』と、そう言ってね。そんな彼に、私は何度も助けられた」


 正直なところ、おれが産まれる前に亡くなった曾祖父さんの記憶は、おれにはない。家族や親戚が、曾祖父さんの話を多く語ることもなかったから。けれど、なんの偶然か。曾祖父さんもまた、フリッツさんの店に出入りし、迷える魂を導いていたなんて想像もしなかった。


「だが、圭司さんが家庭の事情で新潟へ行くことが決まったとき、私は少し焦った。私自身、当時は失敗を重ね、身体を失い、魂だけの状態だったからだ。この店から外に出ることすらできない状態で、顔も名前も持たないままだった」


「……えっ?」


「圭司さんは私の事情を知らなかった。けれど、私が魂だけの存在であることには気づいていただろう。だから店に通って手伝ってくれたのだ。圭司さんが横濱から旅立つ前日、彼は私に顔と名前を貸してくれた。『これで少しは便利になるだろう』とね。そのおかげで、私は実体を持つことができるようになったし、この店を続けることができた」


 きっと、曾祖父さんのそれは百パーセント善意だ。不律家の人間は、そういうところがあるから。

 フリッツさんに顔と名前を貸した曾祖父さんがどうなったのかは、わからない。わからないけれど、後悔はしていないんだろうな、と思う。フリッツさんが、迷える魂を救うために尽力していることを曾祖父さんが知っていたなら、なおさら。だっておれが曾祖父さんと同じ立場なら、同じことを言ったはずだから。


「……もしかして、不律圭司から名前を借りて、フリッツ・ケイス?」


「ああ、そうだ。元々私はこの国の人間ではないのもあって、同じ響きにするのは不自然だった、という理由もあるが。まさか圭司さんの曾孫と二文字違いになるとは思わなかったよ」


 ひとには見えないものが見えたらしい曾祖父さんだって、そこまで予見できなかっただろう。と思ったら、少し笑えてきた。それまでガチガチに固まっていた肩の力が抜けて、険しく寄っていた眉間も、ふ、と弛む。


「圭祐」


 と。名前を呼ばれて我に返った。フリッツさんが優しい目でおれを見つめている。


「君は圭司さんによく似ているよ。だが別人だ。私と君が、よく似てはいるが、別人であるのと同じように」


「……フリッツさんは、やっぱり迷える魂ユキコさんを救いたいんですか?」


「私は彼女を救いたいと思うが、それは私の考えだ。君がどうしたいのか、それを決めるのは君自身だ。君が決めていいんだ」


 目を閉じた目蓋の裏に、かつて出会ったサリさんの顔が浮かぶ。彼女が暴走している間、ずっと苦しそうだった。苦しくて苦しくて、悲しそうだった。悲しみに満ち溢れて、辛そうだった。

 だからユキコさんも、きっと今——。


 ゆっくりと目を開けた先には、辛くて悲しくて、苦しそうな顔で「やめて」と叫ぶユキコさんの姿があった。駄々を捏ねて癇癪を起こす姿は、まるで置いていかれた子供のよう。おれの心臓が、ぎゅっと締めつけられるように痛む。

 もしかしたら、これは、同情かもしれない。でも、それが、なんだっていうんだ? 同情だからって、なにが悪いんだ?


「……フリッツさん。ユキコさんを許すことと、彼女の魂を救うことは、全然別の話ですよね」


「ああ」と短く返ってきた肯定に、おれは深呼吸をひとつした。息を吐いて、それから吸う。頭と感情がクリアになってゆく感覚。


 おれは今、カンデラ堂の客かもしれないけれど、この店の店員だ。店員であることを、諦めたくはない。


 そのおれが求めていることは、なんだ。かつて曾祖父さんがそうしたように、目の前のユキコさんと向き合うことじゃないのか。


 だったら、答えはひとつだけ。迷って足踏みしている場合じゃない。


「じゃあ、おれも。……おれもユキコさんを救いたい」


 震える声だったけれど、それは自分の中から出た本心だった。



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