香蘭辞
橘 泉弥
香蘭辞
英志五年二月。春節を終えた城で、ある噂が流れた。
それは流れてはならない噂だったため、緊急会議が開かれた。
「どうしたものか」
議長が頭を抱える。
「このような噂、これ以上広まっては困る。即座に収拾させなければ」
「しかし、収めようと官吏が動けば、噂は本当だったのだと、尾ひれが付きかねません」
比較的上座にいる官吏が、憂え顔で言う。
「その通り。慎重に動かねばならないかと」
別の官吏も口を出した。
「怪しまれずに、噂を収拾する良い方法は無いか、考えなければ」
真剣に議論を進める官吏たちの一番下座で、香蘭は別の問題で悩んでいた。
仕事柄、これは確認すべき事だと思い、行き詰った会議の場に手を上げる。
「一つお伺いしたいのですが」
全員が、香蘭の方に目を向ける。
「この噂は『漏』でしょうか。それとも『洩』でしょうか」
会議室がしんとなった。
「……は?」
かろうじて返ってきたのは、その一音。
香蘭は仕方なく補足の説明をした。
「つまり、この噂は誰かが『漏』らしたものなのか、自然と『洩』れてしまったものなのか、という事なのですが」
会議室はしんとなったままだ。
更に補足が必要なのかと、香蘭は口を開く。
「えーと」
「いや、そんな事はどうでもよい」
議長が苦い顔をして言った。
「史官の役目は、議事録を作成する事であろう。会議に口を出すな」
香蘭はむっとする。
「お言葉ですが……」
「今は解決策を探すのが優先である。史官は黙って記録を取っておれば良い」
黙った自分を褒めてほしい。香蘭は心からそう思った。
「分かったな?」
議長が圧をかけてくる。偉い人は椅子に座ってるだけでいいですね、という言葉も呑み込む。
「……承知いたしました」
香蘭は仕方なく頭を下げる。
悲しい事に公務員は、偉い人には逆らえないのだ。
「何が公務員よ!」
その日帰宅した香蘭は、弟に愚痴っていた。
「権力を追うのに夢中になって、ろくに仕事もしないジジィばっかり、偉くなるんだから!」
「そう言う姉さんも、公務員じゃないか」
弟は笑う。
「私はあくまで史官なの。史官の仕事が好きなだけであって、公務員なんて、ついででしかないわ」
「ははは、相変わらずだな、姉さんは」
笑顔の弟の前で、香蘭はふてくされる。
「不便な仕事だわ、まったく!」
今回の噂だって、なぜ上がそんなに気にしているのか分からない。
「別にいいじゃない、皇帝陛下が……」
「姉さん、言っちゃだめだよ」
「……皇帝陛下が、例えアレでも」
本当にどうでもいい事だと思う。国政に影響が出る訳でもなかろうに、何をそんなに大騒ぎしているのか。
「でも、困ったわね。これじゃあ正しい記録が書けないわ」
「そうだねぇ」
史官の仕事は、正しい記録を残す事だ。例え意味のなさそうな、よく分からない会議の議事録だったとしても、不確かな事を記載するわけにはいかない。
「仕方ないわ。あの人に頼む事にしましょう」
「そうだね」
香蘭にも、史官としての誇りがある。舐めてもらっては困るのだ。
翌日、出勤した香蘭は、まっすぐ史官長の元へ向かった。
「おはようございます、史官長」
「おお、香蘭か。お前の方から、俺の所に来るなんて珍しいな。何かあったか?」
「はい、実は……」
香蘭は、昨日の会議での出来事を史官長に話す。
「なので、正しい記録を残すのが難しいんです」
「そうか……」
史官長は眉をひそめる。
「それで、お前はどうしたいんだ?」
「はい。事実を記録するためにも、この噂が『漏』なのか『洩』なのか、調べる必要があるのではないかと」
「ふむふむ」
「ですので、私に調査の時間を頂きたいと思います。正しい記録を後世に残し、歴史を創るのが、私たちの仕事です。曖昧なまま、議事録を作成する訳にはまいりません」
「そうかそうか」
香蘭の言い分を聞いた史官長は、頬を緩める。
「さすが、うちの一族最年少で、科挙に合格しただけあるな。我が姪ながら、頼もしい」
「恐れ入ります、叔父上」
香蘭も笑みを浮かべる。
一族で史官をやっていると、一人くらい、偉くなる人が居るのだ。椅子に座っているだけかどうかはともかく。
「俺は、お前の才能がうらやましいよ。今回も、よろしく頼んだぞ」
「お言葉ですが叔父上、私にあるのは、遺伝と環境と努力だけですわ」
「ははは、そうだったな」
「はい」
自分に才能があると思った事は、一度も無い。あるのは、史官の一族という遺伝と、それに付随する環境、そして己の努力だけだ。
「では、私は今日から、調査業務に入らせていただきます」
「うむ。頼んだぞ」
「はい」
この叔父が自分達に甘い事を、香蘭はよく知っていた。
史官長の許可を取り、大義名分を得られたところで、香蘭は喜び勇んで調査に臨む。
「うーん、ひとりだとつまらないし、手間がかかるわね……」
こんな時には、家の書生を借り出すに限る。次の科挙まで一年くらいあるし、数日ほど職場体験をさせても、罰は当たらないだろう。
「……で、僕が呼ばれたんだね」
紫蘭という名の弟は苦笑する。
香蘭は、こいつの名前、紫と蘭で完全に花の種類だよなぁと思う。父母の事は信頼しているが、その名付けについては、少々疑問が残るところである。
「僕は何をすればいいの?」
「私の助手よ。まずは噂の出所を突き止めるために、聞き込みかしらね」
香蘭は手始めに、自分が例の噂をどこで耳にしたのか思い出してみる。
「確か私は、書類を届けに戸部へ行ったところで、聞いたのよね」
「じゃあ、最初はそこかな」
二人は戸部の執務室に向けて出発する。
「ちょっと、紫蘭」
歩き始めてすぐ、香蘭はある事に気付いた。
「あんた、また背が伸びたんじゃない?」
「あ、気付かれた」
背の高い弟は、かすかにはにかむ。
「隠しても無駄か。姉さんにはバレるよね」
「当たり前じゃない。ずるいわ、あんたばっかり大きくなって」
身長六小尺も無い香蘭は、弟を下から睨む。
「僕も、これ以上は良いかなと思ってるんだけどねぇ……」
七小尺近い身長を持つ紫蘭は、姉を見下ろして溜息をついた。
「……まあ、いいわ。身体は小さくても、私の器は空より大きいもの」
「さすが姉さん」
そんな事を話している内に、戸部に着く。
「失礼します」
執務室に入ると、官吏たちが机に向かっていた。来客にも顔を上げる事なく、書類を睨んでいる。
「ああ、あの人だわ」
香蘭は、自分が噂を聞いた相手に歩み寄る。
「すみません莱江さん、一つうかがってもいいですか?」
話しかけられた莱江は、顔を上げて二人を見る。
「おや、香蘭さん。どうしました?」
「実は、仕事で例の噂の出所を探しておりまして」
「ああ、あの、皇帝陛下が……」
「しーっ」
香蘭は急いで、伸ばした人差し指を口元へ当てる。
「……皇帝陛下が、アレってやつですね?」
「はい。私は莱江さんから聞いたのですが、莱江さんは、どなたから聞いたのかな、と」
「僕は確か、兵部の炎岳さんという方から」
莱江は快く教えてくれた。
「ありがとうございます」
二人は礼を言って、その部屋を後にする。
「兵部か……」
香蘭は顔を曇らせる。
「どうかしたの?」
弟が心配して訊いた。
「あそこ、暑苦しいから少し苦手なのよね」
「ふぅん……」
王宮に詳しくない紫蘭は、生返事を返す。
しかし半刻後、姉の言葉の意味を理解した。
「失礼します」
執務室に入ると、中にいた全員が振り向いた。筋肉隆々の男たちに一斉に見られるというのは、なかなか圧のあるものである。
「何か御用かな、お嬢さんたち?」
入り口付近にいた男が、腰に手を当ててふたりに訊く。
「すみません、炎岳さんという方を探しているのですが」
圧に負けじと香蘭が言うと、部屋の中がざわついた。
「女の子が、炎岳に会いに来たぞ」
「すげー」
「そうか、とうとうあいつにも春が……」
ざわめきが大きくなっていく。香蘭は頭を抱え、どうしようかと悩む。
「黙れ!」
叫んだのは弟だ。
「そんな事があってたまるか。姉さんに恋人なんて、まだ早い」
そう言う紫蘭に普段の温厚さはない。
「そんなの僕が認めない。絶対に」
殺気さえ孕んだその眼に、兵部の男たちが怯えていた。
「落ち着きなさい、紫蘭」
香蘭がぺちっと頭を叩くと、紫蘭はあてっと声を上げた。
「あんたのその姉至上主義も、そのうち何とかしなきゃね」
しんと静まり返る中、腰に手を当てた男が声を張り上げる。
「炎岳、来い!」
「はい、隊長!」
勇ましい返事と共に出て来たのは、茶髪の青年だ。
「で、お嬢さん方はこいつに何の用かね?」
隊長に訊かれ、香蘭は答える。
「私達、今府中で流れている噂の出所を探しているの。炎岳さんは、誰から噂を聞いたのかしら?」
「炎岳、答えろ」
「はい。俺は皇帝陛下の噂を、民部の浪伊さんから聞きました」
今度は民部か。香蘭は肩を落とす。広い府中を行ったり来たり、少し疲れ始めている。
「ありがとうございます」
炎岳と隊長に礼を言い、二人は兵部の執務室を出た。
「民部はちょうど反対側よ。面倒だわ……」
「まあまあ、叔父上に許可はもらってる訳だし、ゆっくり行こうよ」
「……そうね」
紫蘭の言葉に気を取り直し、香蘭は歩き出す。全く、史官の仕事も楽ではない。
「それにしても……」
香蘭は辺りを見回す。高い天井、華美な彫刻の柱、豪華な梁が目に留まる。
「どうして城って、無駄に広いのかしらね?」
「無駄に広くて悪かったな」
突然、二人の背後から声がした。
「げっ」
声の主を振り返り、香蘭は軽く声を上げる。
「おい香蘭、今『げっ』て言ったか?」
「まさかー。滅相もございませんー」
香蘭は深く頭をさげて、白々しく言う。
「私が殿下にー、そんな事を言うはずがないでしょー」
「嘘をつくな、聞こえたぞ」
姉に倣って青年に拝礼しながら、紫蘭はこそっと訊く。
「姉さん、この人誰です?」
「この国の皇太子、湍榮様よ。皇帝陛下の一人息子」
「えっ!」
驚く紫蘭の前で、湍榮はふんと鼻を鳴らす。
「父上も大変だな、こんな官吏達に好かれなければならないなんて」
その愚痴を無視して、香蘭は訊く。
「何か御用でしょうか?」
「別に。歩いていたら見知ったちんちくりんが居たから、声をかけてやっただけだ」
香蘭は、低身長をからかわれてむっとする。
「左様でございますか。では、忙しいので私共はこれで失礼いたします」
「あ、おいっ……」
「急いでおりますので」
そう言って、香蘭は紫蘭と共に、そそくさとその場から離れた。
足早に城を横断して民部へ行くと、ちょうど会議の真っ最中だった。それが終わるのを待ち、二人は民部の執務室にお邪魔する。
「すみません、浪伊さんはお手すきでしょうか?」
すらりとした体躯の青年が立ち上がり、二人の元へ来る。
「私に、何か御用ですか?」
「お忙しいところ失礼します。私達、今噂になっている件について調べているのですが」
「ああ。はい」
「浪伊さんは、あの噂を誰からお聞きになったのか、教えていただけませんか?」
香蘭に訊かれ、浪伊は腕を組んで考え込む。
「噂はもう城中に広まっていますし、私もはっきり誰かから聞いた訳でもないような……」
「誰から聞いたのか、覚えてはいませんか」
「はい、すみませんが」
「そうですか……ありがとうございます」
香蘭と紫蘭は、仕方なく民部の執務室を後にする。
「困ったわ」
「そうですね」
しかし、浪伊の言っていた事ももっともだろう。噂というのは、広がれば広がるほど出所が曖昧になっていくものだ。
城中に広まった噂がどこから来たのか辿っていくのは、なかなか難しくなっている。
「うーん……」
香蘭は、史官の執務室に戻って考え込む。どうすればこの捜査が進むのか、見当がつかなくなっていた。
「どうする、姉さん」
「どうしましょうねぇ」
悩む姉弟に、香蘭の同僚が話しかけてくる。
「おう香蘭、一文字にこだわった調査は進んでるか?」
「あら参殷、いいところに。あなたも一緒に考えてよ」
「えぇ……」
渋る同僚に、香蘭は捜査の成り行きを話す。
「そりゃそうなるだろ。噂なんて、どこからともなく流れてくるもんだ」
「でも、誰かが『漏』らしたものなのか、自然と『洩』れてしまったものなのか、はっきりさせる必要があると思わない?」
「『洩』れたものじゃないか? 皇帝陛下に関わる噂だからな、わざとだとしたら、反逆罪になりかねない」
「そうね……でもまだ、そうと決まったわけじゃないわ」
「まぁな」
しばらく黙っていた紫蘭が口を開く。
「逆に、噂が流した人間がいたとするとさ、その人はこの噂を流して、何がしたいんだろうね? お金が入ったりするのかな?」
「なるほど。誰かが『漏』らしたものだとすると、そこには何か目的があるはずよね」
「皇帝陛下の噂を流して得する人間なんて、たくさん居そうだからな。まあ、内容が内容ではあるが……」
三人で頭を抱えていると、史官長が様子を見に来た。
「ははは、悩んでいるな」
「ご挨拶申し上げます、叔父上」
紫蘭が頭を下げる。
「おう紫蘭。お前、相変わらずでかいな」
苦笑する甥ににっと笑い、史官長は部下二人に向き直る。
「行き詰ったようだな」
「はい」
香蘭が、申し訳ないという顔で答える。
「私の捜査方法は、あまり良くなかったみたいです」
「そうか……」
史官長は、その立派な髭を撫でる。
「まあ、この噂の出所を特定するのは、難しいだろうな」
そう言って、史官長はまたにっと笑う。
「俺にできる事があれば協力する。何でも言ってくれ」
「ありがとうございます」
香蘭が頭を下げると、史官長は自分の席へ戻っていった。
終礼の鐘が鳴ったため、その日の捜査は終わりにして、姉弟は家へ帰る。
夕飯の後も、話し合うのは捜査の事だ。
「明日から、どうしようかしら?」
「手詰まりだね」
とりあえず紙と筆を出し、話と成り行きを整理する。
「まず私の目的は、この噂が『漏』か『洩』かを見極める事。記録に残すために、確認したいわ」
「そうだね。でも、噂の出所を突き止めるのは難しそう、と」
「困ったわね……」
香蘭は一旦筆を置く。
「そもそも、皇帝陛下のアレな噂を流したい人なんて、居るのかしら?」
「流す意味が分からないよね。国政に影響もなさそうだし、何がしたいんだろう?」
香蘭はうなずく。紫蘭の言う通り、この噂が流れたところで、国政にも経済にも全く影響はない。ただ単に、話題として広まっているだけだ。
「うーん……」
香蘭は、おもむろに鋏を取り出した。
そして、今状況を整理するために書いた紙を、ショキンと切る。
ショキン、ショキショキ、シャキン……
香蘭の鋏に合わせ、紙は形を変えていく。
しかし、本人が考えているのは捜査の事だ。頭の中で状況を見直し、整理している。城で流れる噂、『漏』か『洩』か、はっきりしない出所、今まで得た情報等をまとめ、組み立てていた。
そして、美しい立体の蘭ができあがった時、
「……
香蘭は推理を終えていた。
翌朝、出勤した香蘭は、自席でその人が来るのを待っていた。
弟はいない。聞き込みと調査が終わり、推理の段階になったため、勉学に励めと家に置いてきた。
香蘭の頭の中には、噂の謎の答えが広がっていた。あとは、事実を確かめて記録するだけだ。
「早いな、香蘭。今日はどうするんだ?」
その人が来た。
「おはようございます」
香蘭はにこやかに返す。
「今日はちょっと、確認したい事があるんです」
「ほう?」
「私は口下手なので、単刀直入に申し上げます」
香蘭は、相手の顔をまっすぐに見る。
「今回の噂を流したのは貴方ですよね、叔父上」
それを聞いた史官長は、にっと笑う。
「どうしてそう思うんだ?」
「昨日のお話です。叔父上は『この噂の出所を特定するのは難しいだろう』と仰いましたよね」
「それが何だ?」
「この言葉、噂の出所を知っている人間でないと、言えないのではないでしょうか。出所を知っているからこそ、それを特定するのが難しいと言えたのでしょう?」
「……揚げ足取りだなぁ」
苦笑する叔父に、香蘭は笑う。
「私、これしか取り柄がありませんので」
そう言って、香蘭は話を続ける。
「叔父上は、この噂をわざと流されたんですよね。だから、出所の特定が難しいと仰ったんでしょう?」
「……さすがだな、香蘭」
史官長は大きく息をつく。
「確かに、この噂を流したのは俺だ。俺が、噂を広めて回った」
そして、噂の出所が自分だと認めた。
「で、どうするんだ? 記録には『漏』の字を残して、一件落着か?」
香蘭は首を横に振る。
「その前に、私、お会いしたい方がいますの。叔父上、取次ぎをお願いできますか?」
姪の言葉に、史官長は目を丸くする。
「お前、そこまで見通したのか」
「こちらの情報が得られたのは偶然です。でも、やっぱり記録は正しくないと」
どこまでも真実と記録にこだわる香蘭に、史官長は舌を巻く。
「さすがだな、本当に」
「恐れ入ります」
史官長に軽く頭を下げ、香蘭は笑顔を見せたのだった。
昼下がり。日差しは暖かく窓から差し込み、小鳥の声を運んでくる。空気は柔らかな香の匂いに包まれ、豪華な柱の装飾が室内を見つめる。
その部屋に入ると、香蘭はすぐさま、玉座の人物に平伏した。
「そなたが、瑞史官長の姪か?」
壇上から、低い声がする。
「はい、瑞香蘭と申します。お初にお目にかかります、皇帝陛下」
「うむ」
香蘭が挨拶すると、皇帝はうなずいた。
「今、府中で流れている噂について、話があると聞いているが?」
「はい」
香蘭は肯定し、話し始める。
「今、城中で流れている噂を、陛下もお聞きになったかと存じます。私の叔父が流布したものだと、本人から証言を得ております」
「そうか」
一介の官吏の言葉を、皇帝は静かに聞いている。
「しかし、叔父には噂を流す動機がございません。記録を正しく残すためにも、事の顛末を正確に知りたいと思うのです」
「ふむ、それで?」
「はい。まことに恐縮ではございますが、私は陛下御自ら、この噂を流すようお命じになったのではないかと考えております」
香蘭ははっきり言う。自分の仮説はおそらく正しいだろうと思っていた。
「何故、そう考えるのだ?」
皇帝は静かに問う。
「きっかけは、皇太子殿下の御言葉です。廊下で偶然お会いした際、殿下は父である皇帝陛下を案じておられました。『官吏達に好かれなければならないなんて大変だ』と」
「なるほど」
「陛下は、私達官吏をお気遣いくださったのではないでしょうか。噂を流す事で、御自身の印象を変えたかったのではありませんか?」
少しの間、沈黙が流れた。香蘭は、皇帝の反応を待つ。
「面を上げよ」
皇帝が言った。
香蘭はその言葉に従い、顔を上げて皇帝を見る。髭を蓄え、玉座に堂々と座るその姿は、正に国の頂点だった。
「そなたの言う通りだ。朕が、瑞史官長に噂を流すよう命じた」
皇帝は自分の頭に手をやり、するりとかつらを外す。その下の頭は毛が薄く、心なしか当人の威厳も薄まったように感じられる。
「最近の官吏達は、朕の事を恐れすぎているように感じる。朕がかつらだと言う噂を流せば、少し親しみやすさを与えられるのではないかと、考えたのだ」
やはり自分の仮説は正しかった。香蘭は、頬が緩みそうになるのを抑える。
「瑞香蘭」
「はい」
不意に名前を呼ばれ、香蘭は背筋を正す。
「よく真実にたどり着いた。褒めて使わす」
「有難う存じます」
香蘭は深々と頭を下げ、皇帝に礼を伝えた。
国の頂点にまで範囲を広げた香蘭の捜査は、こうして終幕を迎えたのだった。
「これでやっと、記録が作れるわ」
香蘭は、鼻歌を歌いながら墨をする。
仕事と自己満足のために奔走しただけだったが、皇帝にまで辿り着くとは思っていなかった。謁見した時はさすがに緊張したものの、こうして正しい記録を作成できる事が何より嬉しい。
史官の仕事は、単なる書記ではない。どんな出来事も、記録しなければ消えてしまう。覚えている人間がいなくなれば、無かった事にさえなってしまうかもしれない。
そんな曖昧な存在を形として残し、後世に伝え歴史を創る。それは自分達の生きた証であり、未来さえも動かすものだ。
香蘭は、この仕事に就いた事を誇りに思っていた。
「……よし」
記録を終え、香蘭はそっと筆を置く。伸びをすると、心地良い疲労感が押し寄せてきた。
ふと窓の外に目をやると、青空に龍が飛んでいくのが見えた。
「あら、珍しいわね」
香蘭は窓辺に寄る。その柔らかな頬を、東の風が撫でていった。
英志五年二月。城で流れた噂は終息しつつあった。城壁の下に芽吹く野草と共に、季節は春に向かっていた。
了
香蘭辞 橘 泉弥 @bluespring
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