ふれあい

アズミ

1

 祖父が亡くなったと聞き、東京から車を飛ばして松ヶ谷へと向かった。

 元々脳卒中をやっていて右半身が不自由だったが、二回目をやらかして倒れているところを、一日一回訪れるヘルパーのサイトウさんに見つけられた。その時には、既に事切れていたらしい。

 死んでから二〇時間以上経っていたらしいから、サイトウさんが最後の訪問を終えた直後に倒れたようだった。サイトウさんは私と歳もそう変わらないだろう女性で、嗚咽交じりの声で私があの時もう少しマサオさんと一緒にいてあげていればと言いながら、私達に何度も頭を下げた。その度に彼女の長いポニーテールがあまりに綺麗な弧を描いて激しく上下にうねるものだから、ああ、まあ、しょうがないですねと、事の重さにまったく見合ってない生返事をしてしまった。

 まあ、真夏にしてはまだ綺麗な状態で見つかったんで。サイトウさんにお願いしてなかったら、ドロドロの状態で見つかってたかもしれないわけで――

 懸命にフォローしたつもりだったが、彼女はどうも私が放った「ドロドロの状態」という言葉に更にショックを受けたようで、より嗚咽を強めて柱に寄り掛かってしまった。それを見た父が、どうするんだよという眼差しを私に向けてきたが、知ったことではなかった。


 享年八二歳、現代では最早珍しい歳ではないのかもしれないが、ここまで生きられれば御の字でしょう、これが親戚一同の見解で、葬儀にしめやかさは無かった。

 そもそも、しめやかになるには人が足りていなかった。昨今のコロナ禍を受けて、二親等までの家族葬だった。その上祖父の妻――私にとっての祖母と、三人いた祖父の兄弟はとうに故人だった。亀浦の大叔父さん、東片町の大叔父さん、あとは何処に住んでいたか、大叔父さんも、この一〇年そこらで皆逝った。

 まあ、こうやって世代が繰り上がっていくってことなんだね――父と叔父はそのようなことを呟き合っていたが、私にも従兄弟にも現状子供がいないから、よしんば私達が繰り上がったとして、その下には何も存在しないのだ。さながら、世代のがらんどうとでも形容すれば良いだろうか。

 祖父の棺の前に座り、目を閉じ焼香を持ち上げながら考えたことは、流石にひ孫を見せるところまでは叶わなかったなという、それが特に悔しいとか残念とかそういった感情に繋がることはなく、ただその事実だけを漠然と反復していた。


 家主を失った屋敷の前に立ち、どうしたもんかねと父は言った。お前、こっちで仕事見つけて住んじまえよ、どうせ独り身で身軽なんだからとも言われたが、固辞した。

 祖父は先祖代々続いていた酒屋をついこの前まで経営していた一方で、松ヶ谷町の助役を定年まで務めていた。その関係で土間には酒瓶を陳列するショーケースが並び、奥に広い仏間、その隅には郷土資料が所狭しと並ぶ客間があった。何年も前に隣の市に吸収合併された小さな町だったが、それでも本棚を敷き詰められるくらいの歴史や言及し得る物事はあるものだな、と改めて思った。

 幼い頃、夏か冬の休みを使って里帰りした時、しばしば内緒で客間に忍び込んだ。部屋には硬い革のソファと、大木をそのまま切り出したようなテーブルが置かれており、常にひんやりとしていた。

 大抵の資料は当時の私には難解だったが、一冊だけ、図解が多いからと気に入った本があった。数頁おきに、細目の仮面を付けた女が怪しげな姿勢で地を擦り歩く絵が載せられており、その得体の知れなさもあって、不思議と強く惹き込まれたものだった。これがこの町の郷土芸能「松ヶ谷能」にまつわる資料で、祖父が町の助役として、主に金銭面で一枚噛んでいたと知ったのは、大分後になってからの話だった。

 ふいにそのことを思い出して、客間の本棚から件の本を引っ張り出そうとしたが、どこにも見当たらなかった。父に聞いたが、彼は元より興味が無かったのか、そんなもんがあったことも知らんと言う。私は諦めて硬いソファに腰を下ろした。

 既に夕時で、傾き行く西日を浴びた埃が、四方に揺らめいていた。その日は一切の用事を済ませて暇だったが、夕飯をとるには早かった。


 気晴らしに散歩へ出かけた。

 屋敷から道路を隔てた向こう側は田畑で、若草が無造作に生い茂る畦道を十数分程度歩くと、やがて町の旧市街地へと抜ける。

 松ヶ谷町は元々城下町で、酒野藩の支藩である松ヶ谷藩が治めていた。明治初期に天守閣をはじめとした一切の施設は解体され、今は昭和初期に再建された大手門が申し訳程度に残るだけで、跡地は「松ヶ谷城址公園」として整備されていた。最近になって市がネーミングライツを売り出し、獲得した地元企業のおかげで「松ヶ谷マルエイ城址のびのび公園」とかいう素晴らしい名前になったらしいが、何も言うまい。

 大手門から真っ直ぐ伸びる道に、生協と小さな個人商店、理髪店が数軒程並ぶ。かつては松ヶ谷城へ続く主な往来として、城無き後も町の中心地としてそれ相応の繁盛を見せていたのだと祖父は言っていた。

 やはり私が幼い頃、祖父は毎年この時期に行われる「松ヶ谷城下祭」に、助役の仕事がてらしばしば私を連れて行ったものだった。祖父はその頃から既にシャッターのくすんだ灰色が目立つ通りを指差し、じいちゃんが子供の頃は、あそこにお人形屋さんがあって、その向かいに本屋さんもあって、そこで立ち読みをしたら怒られて追い出されて、仕方がないから駄菓子屋さんでせんべいを買って公園で食べて――在りし日の思い出を私に聞かせたものだった。

 無論それらの店はその頃には既に跡形も無く、僅かに残った店が設ける出店も精々焼きそばにかき氷、お面にヨーヨーくらいのもので、ドラえもんかうまい棒かの成り損ないのような出所が怪しいお面を被りながら、幼心に一抹の侘しさを知るのだった。それもまた、四半世紀近くも前の話になってしまった。

 そのようなことをおぼろげに思い返しながら通りに出てみると、何の因果か、今日がまさに松ヶ谷城下祭の開催日だったようで、ちらほらと露店が組まれている。

 怪しいお面屋は無く、代わりに、ではないだろうが、酒野市松ヶ谷支所の「振り込め詐欺相談センター窓口」のテントが設けられ、その下で担当者と思しき男がパイプ椅子にもたれかかり、ペットボトルのお茶をちびちびと飲んでいる。

 日も暮れてきたからか、それとも時間は関係無く終日そうだったかもしれないが、とにかく人影は疎らだった。それも大方が地元の高齢者ばかりで、子供はおろか私くらいの歳の人間も見当たらない。この客層を見るに、確かに胡散臭いお面屋よりは、まだ振り込め詐欺の相談窓口の方が集客は良いのかもしれなかった。

 見ようによっては「松ヶ谷マルエイ城址のびのび公園」なんて名前の公園には相応しい出店かもしれない。こうなってくると、やがて焼きそば屋は役所の各種手続きの出張所に、かき氷屋も役所絡みの観光物産展のようなものに取って代わって、そのうちこの祭り全体が青空役所みたいになってしまうかもしれない。

 奴らは何故か「ふれあい」という言葉を民間の五割増しで好むから、恐らく祭りの名前もネーミングライツを売った挙句「オオノダ松ヶ谷ふれあいフェスタ」とかいうしゃらくさいものになるだろう。そうなってしまえば、いよいよおしまいだな――などと考えた。

 総合窓口のテントでパンフレットを貰うと、端の方に「松ヶ谷能体験」と書いてある。尋ねてみると、数年前に建立されたばかりの能楽堂があり、そこで現役の能楽師が松ヶ谷能の指導をしてくれる、ふれあい型のアトラクションです――とのことだった。

 思ったそばから「ふれあい」である。しばし考えたが、最終の受付が今から一〇分後だった。私は何処かへ失せてしまった客間の松ヶ谷能の本を思い出し、話の種にはなるだろうと覗いてみることにした。


 能楽堂は「まつがや水と緑の城址プラザ」に併設された、木造りの立派な建物だった。普段は能舞台を畳んで、多目的ホールとして使っているらしい。

 仄暗いホール内、能舞台に暖色のスポット照明が下ろされている。そろそろ最終の受付が締め切られるというのに、どうも体験者は私独りのようだった。今回体験される方はお一人のようですねと、壇上に立つ能楽師の女性が顔を上げると、私は思わずああ、と声を上げてしまった。

 数日前、事切れた祖父を見つけたヘルパーのサイトウさんだった。彼女もまた目を見開いて、私の偶然の来訪に驚いたようだった。

 能体験はそっちのけで、色々と話を聞いた。彼女は元々この町の出身で、学校の郷土学習をきっかけとして松ヶ谷能に興味を持ち、東京の大学で郷土舞踊を学んだ。その後は能楽堂の研修生としてしばらく東京に残り続けたが、数年前に松ヶ谷に戻った末、地元の能楽師に弟子入りした。しかし能一本での生活は厳しく、介護の仕事を続けながら舞台に上がっていると言う。

 マサオさんには大変お世話になりました、と彼女は言った。お世話になったのはむしろ祖父の方だろうと私は返したが、どうも私が思うような話ではないようだった。

 過疎化も著しい町の伝統芸能に若い息吹を吹き込むのは至難の業である。その点で、彼女が町に戻って能楽師としての一歩を踏み出した時、新しい血が入ってくれたと誰よりも喜んだのは、他でもなく私の祖父だったそうだ。

 資金面から始まり、祖父は様々な援助を彼女に行ったらしい。この能楽堂や能体験といった企画も、城址館が再建されるにあたり「郷土文化振興」の名目で、とっくに定年を過ぎていた祖父が四方に働きかけたそうだ。

 さすれば、このご立派な多目的ホールは祖父の忘れ形見か。

 この数年で祖父の足腰も弱くなり、いよいよ介護が必要かという時、祖父から彼女宛に直接の指名があったという。ヘルパーが付いたことすらこの前ようやく知ったのだから、そのような経緯など私には知る由もなかった――そうなってくると、祖父の死にあたって、彼女がその役割以上に取り乱していたことも納得できる。

 その後私は壇上に立たせてもらい、松ヶ谷能の一通りの所作の基本を彼女から教わったが、到底頭に入ってくるものではなかった。

 郷土文化が結ぶ世代を超えた交友と言ってしまえば、聞こえは良かった。ただ、人離れ著しい町で、縁もゆかりも無い一人の若い女に、かつての地位を用いて資金から立場から最後の世話に至るまで入れ込む構造に、何とも言いようのない醜怪さを覚えてしまったのだった。

 本当はちゃんとした形でお別れしたかったのですが、彼女は言った。

 まあ、こういう御時世なんで、本当は皆さんに顔を見てもらいたかったんですけどね――曖昧な言葉を返しながら、身内だけで済ませてしまって良かったのかもしれない、静かに思った。


 翌日、屋敷を片付けた。生前に断捨離を済ませていたのか、必要最低限の生活用具しか置かれておらず、その日の夕方にはおおよその目処が付いた。

 何も無くなった屋敷の居間に寝袋を敷いて眠り、次の日には東京へ戻った。

 道中、助手席に座る父が思い出したように言った。私が中々結婚しないものだから祖父が最後まで心配していたと。もし私にその気があれば、いつでも紹介する用意があるとも祖父は言っていたと。

 何故その話を教えてくれなかったのかと聞くと、電話上での軽口だったし、松ヶ谷に越すことが前提のような話し方だったから、言うまでもないと流してしまった――父の口振りを受けるに「紹介する用意」の心当たりは、彼には無さそうだった。

 私はどうにも煮え切らない気分で、とにかく早いところ東京へと戻りたく、松ヶ谷を離れたく、いつもより強めにアクセルを踏んだ。

 父が聞く。あの家、結局どうするかね。売れば良いと言った。売ったらいよいよ松ヶ谷との縁も切れるぞと父は言ったが、私は何も返さなかった。

 それが答えと悟ったか、父は分かったとだけ呟き、後は東京に着くまで眠りこけてしまった。私は高速道路の蜃気楼がたゆたうその先を眺めながら、サイトウさんの細かく砕くような嗚咽を思い出していた。


 了

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