第17話
「よう寝とるなあ」
父親が数太の部屋を覗いて言った。
「睡眠薬を飲ませとりますけん」
母親が答えた。
代田橋のマンションで、突然暴れ出した数太に、リョウのバンド仲間のギターリストは驚いた。ギターリストは、数太が落ち着いてから、誰か頼れる友人はいないのかと尋ねた。数太は希翔に連絡した。希翔はすぐ駆けつけて来てくれた。駆けつけた希翔は驚いた。数太の様子がタダ事ではなかったからだ。希翔は数太から親の連絡先を聞き出した。希翔からの連絡を受けた母親は、化粧もしないで東京行の新幹線に飛び乗った。
「どんな様子じゃった?」
父親はネクタイを緩めながら、洗面所の鏡越しに尋ねた。
「東京の部屋に行ったら、友達が2人居って、数太を半分押さえつけるようにしとったんです。わたしの顔を見たら、数太はちょっと落ち着いたみたいじゃったけど」
母親はタオルを手にして言った。
「数太を連れて帰ろうとしたら、同級生の子が、わたし一人だけじゃあ心配じゃあ言(ゆ)うてくれて、あんたぁ、岡山まで付いて来てくれたんでぇ」
「数太には、そんなええ友達がおったんか」
母親は頷いた後、
「小遣いは包んで渡しときましたけんなあ」とタオルを父親に渡した。
「ほん。それでええ」と父親は顔を拭きながら言った。
「新幹線の中では暴れんかったんか?」
父親がリビングのソファーに座った。
「ヒヤヒヤしたんじゃけど、数太はずっと寝とりました。新幹線の中で友達が教えてくれたんじゃけど、数太は何かに怯えたように大声で暴れて、そうかと思ったら、急に息苦しそうにするんじゃあてぇ」
「ここに帰ってからはどうじゃ?」
「大人しゅうしとります。ボーっと気が抜けたようになって、頷いたりはするんじゃけど、モノは言(ゆ)わんのんじゃあ。ただなあ、あのスマートフォンをなあ、でぇれえ恐(きょう)とがってなあ」と母親は、サイドテーブルの上の数太のスマホに目をやった。父親は、妻の視線の先を確かめてから、
「本当(ほんま)の病気じゃあねえか。熱とかは無(ね)ぇんか?」と尋ねて、食卓のテーブルに座った。
母親は首を横に振った。
「昼に駅弁を買(こ)うたけど、それは食べんのんです。わたしが作ったカレーは、ちょびっとじゃけど、寝る前に口にしたんじゃけどなぁ」
父親は缶ビールをグラスに注ぎ、テーブルに並んだ小鉢を覗いた。
「量(りょう)次(じ)には何と言(ゆ)うとんじゃ」
高校3年生の数太の弟の量次は、受験勉強の真っ只中だった。
「お兄ちゃんは、体調を悪うしたけん連れて帰った、と言(ゆ)うとります」
父親はビールを一息にあおった。
「納得しとったか?」
「心配そうな顔をして、数太を見とったけど……。何せ数太が反応せんけんなぁー。量次も、何(なん)か変じゃな~ぐらい、察しとると思います」
「不思議がっとったか?」
母親は頷いて、
「あんた」と母親は小さな声で父親に顔を寄せた。
「あんた、東京の数太の部屋に行って、びっくりしたんじゃけどな」
「何がぁなあ」
「窓ガラスにな、びっしりテープを貼っとってな、部屋の中を暗うしとったんじゃあ。それだけじゃのうてな、ベランダに出るところに、紐を何重にもバッテンになるように渡しておって、サッシの鍵にも紐とテープをグルグル巻きにしとったんでぇ。玄関のノブも、同(おんな)じようなことをしとった跡があったんじゃあ」
父親の眉間に皺が走った。
「普通の神経じゃあ、あんなことはせんのんじゃないかと、わたしは思うんじゃけど……」
「お前、数太の気が変になっとる言(ゆ)うんか?」
母親は涙目になって下唇を噛んだ。
「前の晩に飲み会があったようでな、その時、数太は元気じゃったと、友達が言うとりました」
涙声にもなっていた。
「泣くな。数太に限って、気がおかしゅうなることはねぇ」
母親は頷いた。
「じゃけどあんた、数太の首の後ろに変な傷があるんじゃで」
「傷?」
「爪で引っかいたような傷。友達はなぁ、そんな傷は、昨日(きのう)の晩にはなかった、数太は坊主頭にしとるけん、見逃すはずはねぇ、って言うんじゃあ」
「お前、数太が気が狂うて、身体に傷を付けた言うんか?」
「自分の身体に、傷を付けるちゅう病気を、聞いたことがありますけん」
「まあ、とにかく明日、病院に連れて行ってくれ」
「どこの病院に行きゃあエエんじゃろう?」
「小川先生とこに決まっとるがな」
小川先生は、数太が幼い時から診察を受けていた、かかりつけの医者だった。
「あんた、小川先生は内科じゃけど、エエかなあ?」
「小川先生が、数太のことを1番よう知っとるがなあ」
「そりゃあ、そうじゃけど……」
と言う次第で、数太は翌日、小川医院で診察を受ける事になった。
さてその翌日の午前5時21分。
数太の父親の携帯が鳴った。父親はスマホを手繰り寄せた。
「はい、もしもし」
「手島さんですか?」
「あっ、はい」
「手島数太君のお父さんですか?」
父親は飛び起きた。母親は怪訝な表情で夫を見た。
「岡山駅の職員です」
「数太がどうかしましたか?」
母親は数太の部屋に駆け込んだ。
「今、数太君がここに居られまして……。実は、無賃乗車。あっ、いやいや、いや。新幹線の改札を、切符を持たないまま通り過ぎられようとされまして、一先ず、こちらで数太君をお預かりしております」
母親が、暗い顔を振りながら戻って来た。
「そうですか。これからすぐ伺いますので」
「2階の新幹線改札口で声かけてください」
「分かりました。お手数をお掛けします」
「数太君に、何かありましたか?」
駅員が尋ねた。
「はっ?」
「あっ、いや。何かボーっとされとられますけん。流石に寝ぼけとる、ちゅうことはないでしょうが、状況が分かっとられんようでしてな」
「そうですか」
「まあ、とにかく、親に来てもらわんことには……」
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