第16話
数太は睡眠歩行した夜から1か月近く経っても、寝る前には玄関のドアーノブとサッシのクレセント錠に、紐と養生テープで厳重なカバーをしていた。ガラスも無意識に割る心配があったので、隙間なく養生テープを貼った。部屋は昼間でも薄暗くなった。サッシには、まだまだ不安があった。養生テープを貼ったガラスを、強引に割るかもしれないと心配したのだ。そこで壁にネジを押し込み、ネジから紐を渡し、蜘蛛の巣のようなトウセンボウを張った。ただ数太は1度も睡眠遊行をしなかった。いや、本人に記憶は残らないので、部屋の中をうろついたかもしれない。
(まだ油断は大敵だな)
妙に数太は慎重だった。
8月12日の夜、数太はリョウのバンドのギターリストに、居酒屋へ誘われた。リョウの1日早い『初盆』をしようと、声を掛けてくれたのだ。居酒屋には既に他のバンドメンバーが集まっていた。
隣のテーブルは、女数人のグループだった。数太は、その中で1番可愛いコとラインの交換をした。数太は上機嫌で、少し飲み過ぎた。
「リョウさんが、約束を果たしてくれたんっスよ」
数太は送ってくれたギターリストの肩を借りて、自分のマンションの鍵を開けた。
「ああ、そうか。リョウが数太にそんな約束をしてたんかぁー」
「リョウさん律儀だったから、こんな形でオレに約束を果たしてくれたんっスよ」
「ああ、そうだよな。アイツ、ああ見えて律儀だったよな。これが、エアコンのリモコンか?」
数太は頷くとベッドに座った。ギターリストが水を汲んで来た。数太はそれを一気に飲み干した。
「オレ、終電がもうないから、あのソファーで寝かしてもらうぜ」
「ああ、いいっスよ。布団……」と言って数太はよろけて立ち上がった。
「数太。そこで寝てろよ。あのロッカーの中に布団があるんだな?」
数太はコクリと頷いて、そのままベッドに倒れた。
朝になった。養生テープで窓ガラスは塞がれ、その窓にはカーテンも引かれていた。部屋は暗かった。薄明りに数太は目を覚ました。スマホを手にして時間を確認した。午前5時半前だった。意識は朦朧としていた。少し気分も悪かった。ただ、昨晩の記憶はしっかり残っていた。
(リョウさんが、約束を果たしてくれた……)
数太はスマホの写真アプリをタップして、リョウの顔を思い出そうとした。マイアルバムの中には、1年前からのリョウとの思い出が残っていた。数太は画像を過去へ過去へとスクロールしていった。
「えっ?」数太は小さな声を出した。
そこに意外な画像があったのだ。
(これ、削除した画像じゃねぇ?)
数太は目を疑った。それはあの自殺現場の画像だった。
(そんなこと、あってたまるかよ)
数太は半身を起こした。
頭がクラクラした。
もう1度、今度はしっかり画像を見た。
(間違いない。削除したあの画像だ)
ゾォーとした。
数太は画像を削除しようとチェックを入れた。
画像に『レ』の印が付いた。
また目を疑った。
画像が黄色い光にチラチラし始めたのだ。
小さな音だが、警告サイレンの音もした。
画像の女が、手前のレールに向かって這いだした。
そこにはちぎれた右手首が転がっていた。
女が這うごとに、手首のない右腕の肉へ、敷石がめり込んだ。
排障器に引っかかっていた紺色のカーディガンが、ズルッと滑り落ちた。
女の左手が転がっている右手首を掴んだ。
掴んだその左手で、女はレールをグッと押し、半身を起こした。
押す左手の傷口から血で濡れた骨が光った。
「うわぁ!」数太はスマホを投げだした。スマホは画面を上向きにして床に転がった。数太はスマホに目を向けたまま、腿をベッドに滑らした。敷布が皺を寄せた。
画像の女は線路の上に横座りした。
右腕にめり込んだ敷石がポロポロと落ちた。
女はちぎれた右手首を、右腕にあてがって、そこをじっと見つめていた。
数太は呼吸を忘れていた。
女の髪が揺れた。
首が動いた。
数太は息を吸った。
女はゆっくりホームの方に、つまり上の方に頭を動かした。青白い顎が見えた。口が見えた。鼻先が見えた。そして、毛細血管の走る白目だけの目が見えた。
数太は息を吸いながら顎を後ろに反らした。
女が額に掛かる髪を、右手首を掴んだ左手で掻き分けた。額が血で汚れた。女の右の黒目が下瞼から、左の黒目が上瞼から、ギョロリと現れた。そしてその黒目が数太を見た。
「わぁー」と数太は叫ぼうとした。しかし口の中が乾き過ぎて、声にならなかった。それに腰にも足にも力が入らなかった。ソファーには、昨夜、数太を送ってくれたギターリストが眠っていた。数太は乾いた口に唾液を集めソファーに近づいた。
ソファーの前にはテーブルがあった。そのテーブルに向かって何かいた。数太は視線を震わせ、それを見た。人のようなものだった。ただ周りの空気が違うので、人とは思えなかった。横顔が見えていた。長い髪から、鼻や顎の先が覗いていた。肌の質感は無機質で、作り物のようだと思った。
(どうして、ここに、こんなものが……)と、まず思った。
『こんなもの』と、先ほどの動いた画像とに関連づけをするのに、少し時間がかかった。っが、
「ひぃッ」と数太は息を啜った。
小さく、囁くような呟くような音がした。
『生キテイル人ハ、怖イ。本当二怖イノ。ダカラ、早ク、ワタシノ、モノ二シタイノ』
その音が言葉なら、恥ずかしそうな気配があった。そしてそれが本当に声だとしたら、濡れた声だった。それも冷たく濡れた女の声だった。
氷点下の朝がそうであるように、数太の部屋の空気に亀裂が走った。
『生キテイル人ハ、何ヲスルカ、分カラナイ。ダカラ、早ク、コッチ二、連レテ来ナケレバ、ホカノ女(ヒト)二、奪ワレテシマウノ。考エタダケデ怖イノ』
声は女の皮膚から出ているようだった。
口は閉じたままだった。
女は俯いていた。
それは、自分の手元を睨んでいるように見えた。
骨が覗く左手が、もどかしく動いていた。
機械のような動きだった。アンドロイド。ふとそんなことを数太は思った。
数太は、折った右指を唇にあてて、女の手元を覗いた。そして、「うっ」と呼吸を飲んだ。
女の手元は赤黒くテカっていた。
そこだけは生々しかった。
臭いはなかったが、臭気を感じた。
女は、自分のちぎれた右手首を、自分の右腕に、銀色のラメ糸で縫い付けていたのだ。
突然、ミシンが【ダ、ダ、ダ、ダ、ダァ……】と動き出した。
ミシンの前に何かいた。
それを見るのは怖かった。
そこの空気はやはり違っていた。
『元ノ、身体二、戻ラナイト、恥ズカシイ。嫌ワレテシマウ。元ノ、身体二ナッテ……。今度ハ、失敗シナイ。今度ハ……』
女が横向きで立っていた。
冷たく濡れた声は、皮膚から出ているものではなかった。
女の周りの空気が、ひび割れながら震えているのだった。
女は俯いてミシンを動かしていた。
その手元を見た。
数太は自分の目を疑った。
そこは、赤黒い粘度のある液体がしぶきになって跳ねていた。
女がミシン針を動かしていたのは、自分の腹部だった。
女は、腹部の裂け目に内臓を押し込みながらミシンを走らせていたのだった。
『ワタシヲ、見タ、アノ目ハ、ワタシノコトヲ、好キダト、言ッテイタノ。ワタシヲ好キニナッタノナラ、電車ガ来ル前二、手ヲ伸バシテ欲シカッタ。ワタシノ、写真マデ、アノ人ハ、撮ッタ。写真ヲ撮ルグライナラ、駆ケヨッテ抱キシメテ欲シカッタ。意気地ナシ。ウウゥウン、イイノ、ソンナ事。コレカラ始メレバ、イイノ。意気地ノナイ、カワイイ人』
女の口は動いていなかった。
ミシンの針の動きが止まった。
糸が肉に絡まっていた。女は眉を動かした。初めて表情らしきものを作った。
『クッ、クッ、クッ』
それは啜り泣きにも、忍び笑いにも聞こえた。
『ミシンガ、動カナイ。モドカシイ。モドカシイ』
女は苛立って、音をピチョピチョさせながら、腹部の肉を往復させた。
『早ク、元ノ身体二モドリタイ』
またミシンが、【ダ、ダ、ダ、ダ、ダァ……】と動き出した。
『巡リ合ウ、タメニハ、駅ノレールノ上デナイト、駄目。ワタシガ、コッチ二来タ、アノ同ジ場所デナイト、巡リ合エナイ。何トシテモ、アノ場所二、連レテ行カナイト』
「わぁ!」数太の叫び声だ。
数太の声に女が驚いた。
驚いて両肩を不自然な動きですぼませた。
女はカチカチとコマ送りするような動きで、数太の方に首を向けた。
「うっ」数太の息を吸う声がかすれた。
女の白目に、右の黒目が下瞼から、左の黒目が上瞼から現れた。
黒目が数太を見た。
黒目は一瞬、緑がかった。
女は、腸のようなものを腹部の裂け目から垂らして、
傍にあったトルソーに隠れた。
とっさの動きだった。
ミシン針が折れた。
折れた針は女の腹部に突き刺さったままだった。
針に通してあった銀色のラメ糸が、ミシンとトルソーの間に一本の線を引いた。
トルソーの肩から女が顔を覗かせた。
女は毛細血管が走る白目で数太を見て、また顔を隠した。
数太はソファーのギターリストを見た。ギターリストは大きく口を開けて眠っていた。声を掛けて起こそうとした。しかし口の中がカラカラで、声にならなかった。声が出ないから、叩き起こそうと思った。身体が動かなかった。
『駅ノ、レールの上デ。駅ノ、レールの上デ、フタリハ、巡リ合ウノ』
それは数太の耳元で聴こえた。
襟足にチクチク痛みを感じた。
数太は身体を硬直させ、2度続けざまに鼻から息を吸った。
そして視線だけを後ろに流した。
数太の視線は、真後ろの女の白目に捕まった。
女の右黒目が下瞼から、左黒目が上瞼から現れた。
『カワイイ……』
数太は「うぉ」と低く呻いてベッドから飛び降りた。
テーブルの角に身体がぶつかった。
テーブルが引っ繰り返った。
数太は、「わぁー」と叫び、引っ繰り返ったテーブルを蹴った。
ソファーのギターリストが驚いて飛び起きた。
数太が、低い声で唸りながらギターリストに抱きついた。
「数太、どうしたんだ」
ギターリストは、抱きついてきた数太の力に異常を感じた。
「何があったんだ。どうしたんだ。寝ぼけているのか、数太。変な夢でも見たのか。しっかりしろ、しっかりしろ」
数太は身体を震わせ、ギターリストのTシャツの胸元を握って離さなかった。
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