第7話

 玲奈は数太の誕生日を、六本木の発酵肉のステーキ店で祝ってくれた。バースディーケーキも店に用意させていた。花火付きのケーキが運ばれた時にはスタッフが勢揃いして、『Happy Birthday』を歌ってくれた。数太は自殺の現場に居合わせた時の事を、少し面白おかしく話したかった。しかし誕生日に話す事でもないと我慢した。

 数太のマンションに着いたのは午後9時過だった。数太がエレベーターの『開』のボタンを押した。玲奈はエレベーターに足を踏み入れた。そして扉の所で立ち止まった。立ち止まり後ろの数太を振り向いた。

「どうしたの?」

「ねぇ、数太君。見なかった?」

「何を?」

「あれに」と言って玲奈は防犯用のモニターを指さした。

「あれに、もう1人、わたしたちと一緒に乗ろうとした人が映っていたの」

「えーえっ。僕たち、2人きりじゃないか」

「そう思ったのだけど、確かに、スゥーって女の人が、割り込むようにして乗った様子が、あのモニターに映っていたの」

「玲奈。飲み過ぎたんじゃない。ワイン、2本空けたからなあ」

玲奈は首を傾げた。傾げてエレベーターの中を見渡した。

数太の部屋は4階だった。部屋はきれいに片付けられていた。部屋に入ると数太はすぐキスを強請った。

「ダメ。歯を磨いてから」

玲奈は数太の肩を押してリビングに入った。リビングは、半開きした引き戸から漏れる玄関の灯りで薄暗かった。

「ねぇ、キス。今日は、オレの誕生日だよ。我儘きいてよ」

「ダメ」

玲奈はソファーに倒れた。

「酔っ払い」と数太は玲奈の鼻先を摘まんだ。摘まんで「お願い。キス」とまた強請った。そして玲奈の膝に甘えた。

「ダメッ」

玲奈は足をゆすって笑った。笑ってすぐ半身を起こし、

「嘘ぉッ。キスしてあげる」と目を閉じて唇を緩めた。数太は膝立ちになり玲奈の唇に自分の唇を重ねた。玲奈の手が数太の背中を強く寄せた。とその時、玲奈の手の力が不自然に抜けた。

「どうしたの」

数太は玲奈の目を探った。玲奈は数太の背後を探るように見ていた。その目は強張っていた。数太は振り向いた。キッチンとの仕切りの引き戸が見えた。半開きのままだった。玲奈は言った。

「誰かが、覗いていたわ」

「覗いていた……?」

数太は顎を尖らせて仕切り戸に視線を滑らせた。

「ああ、覗いていたのは、あれだろ」

数太は舌打ちして立ち上がった。バスルームのドアーノブにタオルが掛かっていた。白地に黒の模様の入ったタオルだった。それが半開きの戸から覗いていた。数太は戸を大きく引いて、

「このタオルだろう?」と言った。玲奈は眉根を寄せた。

「飲み過ぎたんだよ、玲奈」

数太は玲奈の髪を撫ぜた。

「わたし、酔っぱらっているけど見間違いなんかしないわよ」

その目は怯えていた。

「玲奈、何を怖がっているんだよ。オレはここにいるよ」

数太は玲奈の肩を優しく抱いた。抱いて玲奈をソファー押し倒した。

「キャーッ」

「どうしたんだよ?」

「数太君の襟足が、ヌルッとしたの」

「えぇ?」

玲奈は、数太の首に回していた掌を恐々(こわごわ)ひろげた。数太はその掌を見て、

「ああ、タトゥーが剥がれたんだよ」と言った。玲奈の掌に黒いシールが付いていた。

「レストランで見せただろ。『SUUTA』ってシール。汗かいたからなあ~。結構早く、剥がれるんだなぁ」

「違うの、汗でもないの、何かヌルッとした流動物を触った感じだったわ」

数太は自分の襟足を撫ぜた。撫ぜた手に紙縒(こよ)りになったシールのクズが付いていた。

「やっぱ、ただのシールだよ。玲奈、変だよ、さっきから。相当酔っぱらっているよ」と息のような声で囁いて、玲奈の首筋に唇を寄せた。

「あれも、酔っぱらっているから?」細く震えた声だった。玲奈は片手を部屋の角に向けていた。

「キャーッ」今度は悲鳴だった。

玲奈は数太を跳ね除けた。跳ね除けたその足を滑らして、部屋の片隅に小さくなった。数太は後ろを振り向いた。変わった事はなかった。

「玲奈、しっかりしろよ」

「数太君が振り向いたら、消えたの」

「何が?」

玲奈は口を掌で覆い首を振った。

「いつから、いつからなの」

「だから、何が……」

「幽霊が、この部屋に居つくようになったのは、いつから」

「幽霊?」

玲奈は青ざめた顔で頷いた。数太が近づいた。玲奈は近づく数太を怖がり、尚も部屋の隅に身体を寄せて縮こまった。

「玲奈。ここにはオレたち2人しかいないよ。幽霊なんていないよ。オレ、ここで1年以上生活しているけど、そんなもの出たことないよ」

「だから、いつからなのと聞いたの。いつから、いつからなの?」

「玲奈」

数太は玲奈の髪の毛に手を伸ばした。玲奈はその手を払い、

「数太君、取りつかれたのよ」と震える声で言った。

(玲奈は何を言っているのだろう)

玲奈の目尻は引きつっていた。瞳孔の色も違って見えた。

(気が狂ったように見える)と数太は思った。

「玲奈」

肩を抱こうとした。玲奈は首を振った。

「いや! 嫌。わたし怖い。怖いの。お願い、近づかないで。今日は、このまま帰らせて、お願い帰らせて」

玲奈はそう言いながら、もうショルダーバッグを引き寄せていた。

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