牛窓徹

百目鬼 祐壱

牛窓徹

 牛窓徹うしまどとおるの人生において、平凡は常にそのあり方のすべてだった。

 ごく一般的な家庭に生まれ、ごく一般的な公立の教育を受け、ごく一般的な大学を出て、ごく一般的な会社につき、ごく一般的な家庭を持った。もちろん、ごく一般などという言葉で乱暴にくくれるほど、人の人生は簡単な造りになってはいない。牛窓徹の人生にも、多少なりとも、プレイバックしたくなるような瞬間はあった。挫折や波乱もあった。だが、人様と比べた際に、それらはごく一般的な範疇を抜け出さないものだった。誰かに見せたとしても、そういうこともあるよねと片づけられるような、その程度のものだった。テレビマンに言わせれば、つまらない人生というやつだ。かけがえのない人生ではあるが、取り上げる価値はない。牛窓徹はそのことを自覚していたし、さして不満もない。波風は少ない方がいい。牛窓徹にとって、平凡は幸福だった。

 そんな人生に平凡ならざるものをあえて見出すなら―そんな必要があるのかは分からぬが―、それは彼の海馬にこびりついた古い記憶である。牛窓徹はこころのうちにひとつの景色を飼っていた。幼少期の記憶だった。近所に一棟の古いアパートがあった。塀はほとんどその役割を果たしておらず、幼児であった牛窓徹の目線からも、一階部分は自由に見渡せた。カーテンがかかっていない部屋があれば、部屋の中で見渡せた。その一室で、女が踊っていた。長い髪を振り回して、一心不乱に踊っていた。歳は分からぬが、若かったように思える。幼い牛窓徹は、なぜかひとりだった。そして、女をじっと見つめていた。すると、女がこちらを見て、挑戦的な笑みを浮かべた。それは一瞬だった。女はまた視線を部屋の中に戻して踊りを続けた。映像はそこで途絶える。本当にあったのかどうかも今になっては分からない。しかし、その後の人生で、牛窓徹は何度もそれを思い出すことになる。

 どういった時に思い出すのかと聞かれた牛窓徹は、少しの沈黙のあと、性的興奮を覚えた時だと言った。薄暗い酒場で、牛窓徹は何かしらの酒類を口に含んでから、決まりの悪い表情で言った。女のことを考えていると、いちばん鼓動が弾む瞬間の、その直前で、あの女が俺の前に現れる。女はやはり踊っている。踊りながら、俺のことを見て、やはりあの笑顔を見せる。目の前にいるはずの女の価値は、そのとき、完全にゼロになる。だが、現実に戻ってくれば、あの女はもちろんどこにもいない。そこにいるのは、物体としての、いまを生きる女だけだ。俺はそこで、一丁前に罪悪感を覚える。女ではなく、あの女を思い出していたことに。

 その話を牛窓徹から聞いた男は、ひどく嫌な気持ちになった。それは、彼の抱える特殊性を嫌悪したからではない。あまりに平凡だったからだ。醜悪は非凡の専有物ではない。平凡な醜悪こそ、もっとも救いのない代物だ。

 平凡ではあったが、牛窓徹は女に無縁ではなかった。何人かの女性が彼のもとを立ち寄って、しばらくすれば時刻表通りのバスに乗りこんで、振り返ることなく次の街に去っていった。牛窓徹はそこに多少の寂しさを覚えてはいたが、例の罪悪感をひとりで抱えていたから、すっかりひとりになったバス停で、これで楽になったと薄笑いを浮かべるような男だった。

 牛窓徹は、ほとんどの女に、踊る女の記憶を話さなかった。ただひとり、小原瞳にはそのことを話した。しかし、それは彼女が特別な存在だったというわけでもなく、なんとなく、タイミングと気まぐれがそうさせたに過ぎない。だが、小原瞳はといえば、自分が牛窓徹の人生において特別な存在であるのだと疑わなかった。小原瞳は牛窓徹を愛していたし、だからこそ、踊る女に嫉妬した。自分が踊る女にならなければならないと思った。それは比喩ではなく、本当に踊ることで、彼の記憶を上書きしてしまおうという算段だった。

 幸運にも、小原瞳はアパートの一階に住んでいた。逢瀬のためにやってくる牛窓徹が、自然と窓の中の様子を目にすれば、踊る女は自分に上書きされるだろう。そうすれば、自分は牛窓徹の記憶の一部にやっとなれると、小原瞳はそう考えた。彼がそろそろやってくるという時間に、小原瞳はカーテンを開け放って、盆踊りを始めた。東京音頭だった。踊りながら、あの女がどんな踊りをしていたのか聞いていないことに気が付いた。おそらく、盆踊りではないような気がして、やはり踊りなどやめようと思った瞬間、窓の外から男がこちらを見ていることに気が付いた。ひどく身長の低い、醜い男が、窓の外から小原瞳を見ていた。その頭には小さな猫を一匹乗せていた。小原瞳は、恐怖の中で盆踊りを続けた。なぜやめなかったのか分からなかった。踊りながら、小原瞳は猫になった。男の頭の上で、小原瞳は、踊る小原瞳をただ見ていた。

 牛窓徹が小原瞳の家にやってきたとき、小原瞳は小原瞳に戻っていた。小原瞳は、少し逡巡した後、直前の出来事を断片的に話した。何を言っているのか自分でも分からなかったが、牛窓徹は遮ることなく聞いてくれた。そのとき、小原瞳は、この人とずっと一緒にいようと決心した。大声で泣きながら、牛窓徹の腕の中で眠りについた。

 牛窓徹は、そのことをすっかり忘れた。小原瞳の存在すら忘れかけている。人生はその短さに比して出会う人間が多すぎると、牛窓徹は常々思っている。彼はどこまでも、平凡であるために忘れることを忘れなかった。小原瞳だって、いまではそんなことを覚えていないだろう。彼女は先日、母親になった。三千六百グラムの元気な男の子だった。

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