4

 おれを会議室に呼び出した守屋係長は、おれに寝不足かと尋ねてきた。

「あっ、すいません」

「いや、すいませんじゃなくてさ、上司として心配だから」

 守屋は、先程のおれの一連の行動を仕事のストレスから来る心身症か何かだと思っているようだった。

「すいません、ご心配を」

「だって、コーラ買ってきたと思ったらいきなりシャカシャカ振り始めて、そのまま開けちゃうわけでしょ」

 守屋は続ける。

「こぼれても全然反応しないし、ポカーンってなってるし、何かこう、仕事でトラブル抱えてるのかなあって、思うじゃん?」

 守屋は決しておれを咎めようとはせず、あくまでも親身だった。

 だが、おれは言いたかった。おれがコーラを振ってしまったのは、内藤にちんこ男の哀しみを理解されなかったことへの衝撃が所以であり、コーラをこぼしてからの反応が遅れたのは、革靴を資料で拭く方法を模索していたり、床に革靴を擦り付けて楽しんでみようと試みたりしていたからだった、と。恐らく想像を絶するくだらなさに、守屋の善意は、彼の中で無残にひしゃげることだろう。

「寝不足だったんで、すいません」

 おれはその思いとは裏腹に、至極真っ当な返答をした。

「本当か」

「昨日、ちょっと遅くまで起きてたもんで」

 嘘である。おれはチーズバーガーとポテトを食した後、何もすることが無くなり寝てしまったのだ。

「なんだ、本当にただ寝てないだけか」

 彼は笑った。「部下がおれの管理ミスでメンタルをやられたわけではなかったので安堵しました」と、顔に書いてあった。

「入ってもう半年だろう、身体は資本だから。昨日無茶すれば今日に響くから」

「肝に命じます」

「若いから多少夜更かししてもそこまでじゃないんだろうけど、ぼくなんか、もう――」

 守屋の話はそれから何分間か続いたが、おれはそれを聞き流しながら、おれが何の前振れも無く咄嗟にこの男に殴り掛かったら、果たして彼はどんな顔をするのだろうかと、漠然と考えていた。

 彼とおれの間には特に深い溝も何かしらの因縁も無く、おれが彼を殴る理由は今のところ何も無かった。だからこそ満面の笑みで部下を優しく諭しているこの男はよもや、おれから鉄槌を食らう羽目になるとは夢にも思うまい。

 しかし、おれはどうだろう。殴られたら、殴り返すのか。

「いや、無理だな、人なんて殴ったこと無いし」

 殴られた頬を押さえながら、しばらく身動きが取れなくなるだろう。そうやって固まること十秒足らず、ようやくおれは顔を上げ、目の前の人間にわけも無く殴られたのだと認識することだろう。その時、おれは何と言おうか。

「なんで?」

 素直に聞くだろう。殴られる理由が見当たらなければ、素直に聞くしかない。なにもおれに限った話ではない、恐らくこの男もそうやって尋ねるだろう。

「どうして?」

 さあ、どうしてなのだろう。おれにもよく分からなかった。おれはひとまず、それらしい理屈を並べることで反応を窺うことにした。

「いや、まあ、あの、ほら、こうやっていち個人といち個人が、他愛も無く倫理に沿って会話をね、してるわけじゃないですか」

 それは本当に良いことですし、ぼくも守屋さんと共にこの倫理的な空間を生きていて、満足はしているわけです。でも、ぼくが守屋さんをたった一発殴っただけで、あっと言う間にそれが崩れてしまうわけですよね。

「それって、凄くないですか?」

「何が凄いんだよ」

 守屋は、おれに殴られた右頬を押さえながら言った。

「はい」

「何が凄いんだよ」

「すいません、大丈夫ですか」

 守屋がおもむろに立ち上がる。

「君、流石にちょっとこれはぼくも厳しくせざるを得ないよ」

「すいません」

「あのねえ、すいませんって話じゃないでしょ」

「すみません」

 守屋は埃が付いた背広を手で叩き、おれに背を向けながらこう言った。

 確かに、殴ったことは申し訳なかった。だが、やはり、おれが言った通りではないか。こうして人が人をたった一発殴っただけで、今までの安寧と秩序に満ちた空間は脆くも簡単に壊れるのだ。

「とりあえず処分はちょっと待ってもらうから、また後で話し合おう。時間空けといて」

「すみません」

 本当にすみません、守屋さんを殴ったら何かが広がりそうだなと思っただけでした。殴ったらこう、無限に世界が広がりそうだと思ったので――


 ここまで容易に想像ができたし、想像ができるからこそおれは守屋に手を出さず、最近の眠りがどれだけ浅いかを熱弁する彼のこめかみの辺りを、ただ黙って見つめていた。

「まあだからしっかりと寝てくれよ、またポカするぞ」

「すいません、気にかけていただいて」

 おれが会議室を出ると、廊下を歩く内藤と鉢合わせた。内藤は眼を右に左に意味も無く動かした後、再びおれに焦点を合わせ、こう言った。

「絞られたか」

「おまえ、おれにぶん殴られるぞ」

「なんで?」

 至極真っ当な反応だった。

「なんでって言われたら、理由なんて無いんだけど」

「通り魔かよ」

 通り魔。通り魔か。これは、言い得て妙だった。

「そうそうそう、通り魔なんだよ、通り魔、いいこと言ったなおまえ」

 要するにおれのこの心持ちは、閉塞感と形容するにはあまりにもステレオタイプではあるものの、日々の営みの中で人と人が交わるにあたり必要な共通意識を軸として、互いが互いを監視するこの在り方を、ただ興味本位でぶち壊してみたいだけで、それは確かに通り魔のロジックなのだ。

「おれの理屈が確かなら、おれやベランダちんこおじさんのキチガイポイントを極限まで濃縮還元して、負の方向にねじり切った人間達が通り魔になる」

「さっきから何言ってんだ、おまえ」

「黙れおまえは、おまえは黙れ、ちんこおじさんの苦悩も知らずに」

 おれは内藤を引きずって喫煙室に向かい、再びちんこ男の苦悩と尊さについて熱く語った。彼は終始苦虫を噛み潰したような顔をしていたが、ようやく少しずつおれの感覚を掴み始めたようだった。

「要はその朝の儀式だけが、おじさんにとっての唯一の我の解放だと」

「そうだよ、いじらしいだろ」

 おれは続けた。

「でも、自分の中のわけ分からない何かを無限に発散し続けたいって欲は、多分誰にでもあるんだよ。特に生まれてからずっと東京で生活してるような、おまえみたいな奴は」

 おれは次第に語気を強めながら、何故だろうか、昨日小田急線で見た仏頂面の女の顔を思い出した。

「おれにも?」

「おまえにもあるし守屋さんにもある。高良部長にもあるだろうしマックの女子高生の店員にもあるしマッキンリー(三歳、オス)にもある、みんなみんなある!」

 おれの気迫に内藤はたじろいだのか、二、三歩後退りした。おれはそれを見て少し得意気になり、吸っていたハイライトの煙を天井に向かって勢い良く吹き出せば、汚い灰の靄がかりが内藤のむくれた身体を包むように、ゆっくりと降り注いだ。

「おまえもやれば分かるよ」

「やれば分かる」

「東京者の仏頂面を一瞬だけ外して、倫理を超えていけ! 丁度いい範囲で」

 おれは途中まで口に出したところで急に嫌な予感を覚え、咄嗟に「丁度いい範囲で」とフォローを入れたつもりだったが、内藤にはどうも届いていないようだった。

「なんだ、誰も見てないところでちんこって言えばいいのか? それとも職場でコーラをブチこぼせばいいのか」

 内藤は言った。これはまずいな、おれは考えた。

 それはおまえのさじ加減に任せるよ、と言っておれは喫煙室を離れた。あの男が何をやらかそうとおれの責任にはしないでほしい、とだけ思った。自分のキチガイは自分で始末すべきなのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る