5
コーラにまみれておじゃんになった書類をもう一度出力し直すなどしていたら、いつの間にか時計は二〇時を回っていた。内藤はとうに帰っており、おれは独り狛江への帰路に就いた。
小田急線の各駅停車は相も変わらずマイナス十度の仏頂面で埋め尽くされているが、おれから見て向かい側のドアにいる男の周りにだけ、不自然な空間が形成されていることに気付いた。その男の周囲、半径五〇センチ程がぽっかりと空いていたのだ。おれが耳を澄ますと、男は何やら独り言を延々と垂れ流しているようだった。
「今にも、今にも強力な電磁波が新宿を襲ってくるというのに小池は何も対策を打たず」
とは言え、その音量は独り言の域を優に超えていた。
「これはヒロシマ以来の未曽有の危機、一体識者は何を考えておられるのか――」
ああ、そういう人か、おれは理解した。しかし東京の人間は慣れたもので、この男の言動に眉一つすら動かす気配が無い。
おれの田舎であれば――例えば、このような男が電車の中で、あるいは駅の改札で、商店街の中央で、同じようなことを叫んでいれば、たちまち怒号が飛んでくることだろう。例えば、駅の助役の長岡さんならば
「こらこらこらどうしたの、ダメだよそんな大声で、皆もいるからほらほらほら」
と優しく窘めることだろうし、商店街の魚屋の椎名さんであれば
「あんたもう、さっきからうちの前で変なことばっかり言って、どっか行った行った!」
とでも言って、男をどこか自分とは関係の無いところへ飛ばそうとするだろう。しかし東京は違う、この男はここにいながらにして、初めからいないものとして見なされているのだから。
それでも、おれはこの男がどこかで羨ましかった。精神の病とは言え、男は無意識のうちに、いや、無意識だからこそ東京者として持つべき秩序をいとも簡単に、そう、いとも簡単におれの前で破ってみせたのである。
「気持ちいいか、おじさん」
「ああ、我々ヒノモトの民は過去遥かなる長きにわたる苦痛と」
「気持ちがいいのか、おじさん」
「日毎夜毎このようにして思考停止を続け、エコノミックアニマルとしての」
ただ、男は正気では無いので、この男が「ぶち壊す」ことで「世界を広げた」とて、そのカタルシスを存分に味わえたかと考えると、それは違うのだろうな、と思った。おれの至上命題は、いかにして正気を保ちながら東京者としての物語を破りつつ、最大級のカタルシスを得るかなのだと、ここに来て、ようやく分かりつつあった。
ただ、おれはその構図に挑むにしてはどうにも常識的で、かつ臆病でもあった。
狛江で降り、男を乗せた各駅停車は夜の帳へと吸い込まれる。夕飯を作るには遅く、昨日と同様、高架下のマクドナルドへと向かうことにした。果たして店頭のレジで客を待ち構えていたのは、あの女子高生店員だった。
「うわっ」
おれは思わず足を止めてしまったが、彼女はおれの存在に気付いてしまったらしく、うやうやしくお辞儀をし、確かに「いらっしゃいませ」と口を動かしていた。おれはどうも引き返せなくなったようで、レジの方向に足を動かすより仕方が無かった。
「お決まりですか?」
レジに着くなり、彼女は注文を選ぶ時間を与えてはくれなかった。おれは怯み、仕方無くテーブルの上のメニューを適当に指差すことで、そこにあったものを頼むことにしよう、と考えた。
「えー」
おれの指先はソフトツイストに止まったので、自動的にそれがおれの晩飯となった。一度決めたことは覆すまい。
「ソフトツイストください」
「はい、お持ち帰りでよろしいですか?」
「はい、はい」
しばらくしておれの右手にはソフトツイストが渡され、彼女は正しく明朗な笑みをおれに投げかけ、お気を付けてお持ち帰りくださいと言った後、こう続けた。
「今日は雨も降ってないですよ!」
「は?」
思わず声が出た。図らずも動揺してしまったし、してやられた、と思った。しかしおれがおまえに求めていたのは、その手の「サービス」ではないのだ。
「あっ、そうですね、はい」
完全に、彼女とおれとで昨日とは立場が逆転してしまった。「こんな夜遅くにソフトツイストだけを持ち帰りで注文するコミュニケーションが苦手なスーツ姿の男」と化したおれは、彼女から逃げるようにして狛江マルシェを離れ、できるだけ人通りが少ない裏路地へと急いだ。
秋の夜長は、いよいよ「刺し込むような」という表現が似合うような冷気を湛え始めている。おれはなるべく街灯という街頭を避けながら、すれ違う人間にできるだけ気付かれぬようにソフトツイストを舐めては冷風に身を震わせ、恐らくは世界で最もくだらない晩餐を謳歌していた。
「誰もおれを見るなよ」
おれは、すれ違う人間達に聞こえぬようにして呟いていた。
「誰もソフトツイストを舐めるおれを見るなよ」
おれはソフトツイストを舐め回しながら、これもまた小規模ではあるものの、東京を静かに混乱無く秩序立てて生きる上でのレギュレーションを乱しているかもしれない、と考えたが、堂々とそれをやってのけることができずにコソコソと物陰に隠れてしまう以上、たかが知れてもいた。
部屋に着き、ベッドに横になりつつ、おれがシャワーを浴びて歯を磨く、その気分になる頃合いをひたすら待っていたが、何十分経とうが一向にその気にならないので、おれはついに諦め、今日はそういう日なのだ、と思うことにした。
日々の暮らし、日々の営み、日々の動作は気の持ちよう次第であり、その気にならなければそれはもう、無理なのだ。
「今日は寝るのが一番良かった」
おれは消え入るような声で独り呟いた。
「納得している」
その時、ベッドの端に乱雑に放り投げたスマホが、点滅しながら揺れているのを視界の隅で捉えた。手を伸ばし、画面を見ると、内藤からの着信だった。
「はい」
電話の向こうで、内藤がやたらと籠った声でこう言った。
「あのさあ、おれさあ、おまえの言う通りに、やってみたんだよ」
「何を?」
「楽しかったんだよ――背徳感みたいなやつが凄いんだけど、それが良かったし」
「いや、だから何を?」
内藤はしばし間を置いて応えた。
「おれ、昔サバゲーにちょっと凝ってたって言ったじゃない」
「はあ」
「その時のモデルガン引っ張り出してさ、金切り声で『死ね死ね団のテーマ』歌って、妹とか親父とかに『うちゅぞ! うちゅぞ!』って言ったら、メチャメチャ楽しいんだ」
「はあ」
電話の向こうで、内藤が何を話しているかがいまひとつ分からず、おれはひとまず、部屋の壁をよじ登る小さな蜘蛛の動きを目で追うことにした。
「そしたら、本気で心配された」
「はあ」
「おれが仕事でとんでもなく何かを抱えてるんじゃないかって、『爆発する前にどうして相談しなかったんだ』って、『どうしようもなくなったら、まだ父さんや母さんに頼っていいから』って、本気で心配された」
蜘蛛は壁に密着する力が弱いのか、何度も落ちては登り落ちては登りを繰り返し、いつまでも前進しないそのもどかしさに、おれは次第に苛立ち始めていた。
「おれはただ、倫理を乱したかっただけなのに」
「おまえ、もう寝ろよ」
おれは内藤の電話を切り、いつまでも天井へよじ登れない小さな蜘蛛をティッシュで包み、クシャクシャに丸めた後、ゴミ袋の中に放り投げた。そのままベランダに出てハイライトに火を点け、夜風に身体を冷やされつつ、おれは改めて、先程聞いた内藤の話を整理することにした。
よもやおれは、内藤に先を越されたのではなかろうか。
「やりやがった、やりやがったな内藤」
おれはその時、確かに何かに急かされるような気分を覚えた。
「ふざけやがって、ふざけやがってよ」
ハイライトの煙はおれの心持ちをよそに、ノロノロと暗がりの中を上っては溶けていく。
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