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 朝になり、雨は上がるも雲は去らず、カーテンから差し込む光は弱々しく頼りない。

 スマホから流れる「アラームその四・軽快な小鳥のさえずり」によって起こされたおれは頭の奥にぼやけた鈍痛を覚え、わざとらしい舌打ちを五、六回繰り返した後、ノロノロとカーテンを開けた。

 部屋の窓の向こうには、コンクリート打ちっぱなしの小さな一軒屋が建っており、おれがこうして朝方カーテンを開けると、決まってある男が二階のベランダに突っ立っているところを目にする。貧相な身体つきをした垂れ目の中年男で、寝間着から覗かせる手足は棒のように細いが、腹だけがしっかりと突き出ており、つまるところ典型的なニッポンのオジサンだった。

 おれはこの部屋に越してからしばらく、朝毎にその男を観察していたのだが、彼はどうもベランダに出て体操なりストレッチなり、何かしらをするということはなく、ただただ十数分間程度、呆けているだけのようだった。

 それだけならば「朝の日光浴をイビツな形で嗜むおじさん」で終わるのだが、おれが訝しんでいるのはそこではなく、その十数分間、彼の口元が僅かばかりだが、絶えず動いていることだ。

 おれはいつだか、男の奇行を内藤に話したことがある。

「ずっと口が微妙に動いてる、しかも口の動き方が一定。同じフレーズをずっと繰り返してんだよ、多分」

「同じフレーズを?」

「そう、だからおれ滅茶苦茶研究した。毎朝毎朝おっさん見て、口の動きから予測して」

「じゃあ、何て言ってんのよ」

 よくぞ聞いてくれた、と思った。おれには自信があった。彼の口の動き、およびループのタイミングから、おれが割り出した答えはこれだった。

「間違いないと思うんだけど、多分『ちんこ』って言ってんだわ」

「ちんこ?」

「だからあのおっさん、十何分もずっと『ちんこ』って繰り返してんの」

「なんで?」

 内藤の疑問はもっともだったが、それはおれにも分からないことだった。

 おれが言えることは、あの男はおれの部屋の向かいの一軒屋の二階のベランダに毎朝突っ立っては、十数分もの間、ひたすら「ちんこ」を繰り返している、ただそれだけのことだった。

「分からん、けどずっと言ってんだよ。ちんこちんこちんこちんこって、ずっと」

「って言うか、なんでそんなに自信持って断言できるの?」

 おれの直感だと内藤に言うと、彼は鼻にかかったような乾いた笑いを二、三回繰り返し、それきり何も言わずその場を離れた。

 残されたおれは、誰にも聞かれないよう囁くような声で、できるだけ多く「ちんこ」と呟いてみようとしたが、一三五回口にした段階で急速に熱が冷めてしまい、その日はそれきり仕事が手につかなかった。


 ともかく、おれが今日もカーテンを開け、やはり向かいの家の二階のベランダにはあの男が立っており、そして何かを繰り返し呟いていた。そして彼が繰り返している「何か」とは即ち「ちんこ」に違いない、とおれは訳も無く確信している。


「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ、よし」


 男が最後に「よし」と言ったのかは定かではないが、いや、彼が繰り返している言葉が「ちんこ」であることそのものも定まっていないのだが、ともかくとしてベランダの彼はこうして今日のノルマを終え、部屋へと引っ込んだ。

 おれはその間に顔を洗い着替え、今日もまた一日、仏頂面の群れが禍々しくも渦を巻く大東京に身を乗り出そうとしていた。


 おれは駅への道中、改めてあの男の奇行の大元を深く掘り下げようとしたが、その為には彼の入念なプロファイリングを試みる必要があると考えた。

 見た目から考えるに男は四〇代も後半、外壁はいくらか煤けてはいるが、それほど古くも見えず、恐らく彼が建てたのだろう。結婚はしているだろうし、子供もいるに違いない。仮に息子と娘を、それぞれ一人ずつ作ったとする。

 幸の薄そうな顔つきに茹でもやしのような白く細い手足を見るに、それ相応には尻に敷かれているに違いない。息子からは陰で馬鹿にされ、娘からは最早「いないもの」とされているのだろう。

「おれがあの男であるとして、何故おれは、毎朝ベランダに突っ立ってはちんこの呪文を唱えるのだろう」

 こうやって仮定しよう。例えば、おれはしがない会社勤めの中年男である。

 成り行きで結婚した細君との間に愛があったのは最早前世紀の話で、今やおれの稼ぎを根こそぎ奪い取る化け物と化した。息子は直接口にはせずとも、態度で分かる、確実におれを蔑んでいる、下に見ている。娘はここ数年程怪しかったが、とうとう無事におれの姿が見えなくなったらしい。おれの呼びかけに、何一つとして反応を見せなくなった。

 何故だろうか、おれが渾身の思いで建てた家のはずが、おれが休まる空間、おれが存在し得る空間が、いつしか失われていった。

 行き場を失ったおれが最後に辿り着いたのは、寝室の先の小さなベランダだった。

 おれは毎朝、細君が起きぬ間に、引き戸を開け陽の光を直に浴び、その瞬間、おれは外の空気に晒されるとは言え、ついに家内の誰とも接することない、誰にも脅かされることがない、ただ独りの男になることに成功する。

 おれはこの時間だけこの場所だけで、おまえ達が知らない、ただ独りのおれとして生きられる。できるだけ、普段呟けないような言葉を思い切り、飽きるまで呟いてやろう。あの化け物が起きぬようにそっと、ひっそりと、静かに呟こう。

「ちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこちんこ」


 その瞬間、おれは男の「全て」を分かってしまった。

 全てが分かってしまったおれは、男を取り巻くあまりの世知辛さ、それでもなお些細な抵抗を続ける彼の信念に、独りを生きたいと願う進歩的文明人としての尊厳の荘厳さを余すことなく享受してしまい、思わずわっと声を上げたくなってしまったが、寸でのところで抑え、商店街の真ん中で大きな溜息を二、三回ほど繰り返した。

 おじさん! おれは、あんたを、誇りに思う。おれは、あんたのちんこを尊重したい。

 おれは急いで駅の改札をくぐり、各駅停車新宿行へと飛び乗った。そして一刻も早く、内藤にちんこ男の生き様を知らしめなければと、その一心で弾んでいた。


 ところが、あの男はあまりにも冷淡で非情だった。

「そうなんだ」

 と、彼は一言、特に表情を変えずに言った。

「おまえ、おまえまさか」

 おれは予想外の内藤の仕打ちに、思わず肩が震えた。

「おまえまさか、この話を『そうなんだ』で全部終わらせようと思ってんのか」

 おれがそう言うと、奴はしばらく黙り込み色々と考える仕草をおれに見せたが、汚い音を立てて鼻を啜ったかと思えば一言

「そうなんだ」

 と、再び口にした。彼には、ちんこ男の悲哀と自由への追求とその尊さについての、何一つをも感じ取ることができなかったらしい。

「ダメだ、おまえは分かってない。分かってないおまえは、ダメだ」

 おれはできるだけシリアスを装おうと、なるべく低くドスが効いた声を作ろうと努めたが、それが裏目に出たのか変な方向へ上ずってしまい、最後の「ダメだ」に至っては派手に裏返り、インコのような素っ頓狂な声になってしまった。

 内藤はおれの上ずった声に何ら反応を示すことは無く、頭を二度掻いて明後日の方向に目をやり、そのまま何も言わず、ゆっくりと自分のデスクへと戻っていった。

 これはダメだな、とおれは思った。何がどのようにダメなのかは自分でも詳しくは掴めないが、この「ダメ」は今日一日、おれが部屋に戻るまでの間はずっと持続するタイプの「ダメ」だろうな、とも思った。

「分かった分かった」

 おれは廊下に出て、自動販売機でコーラを買い、せめて今日中に内藤にもう一度ちんこ男の素晴らしさを説法しよう、そしてあわよくば感服させよう、そう考えながら、ペットボトルを縦に五、六回程、おもむろに振った。

 デスクに着き、コーラを置き、キャップを回すと、気泡が増殖と四散を繰り返しながら溢れ始め、やがてデスクにカラメル色の海を作り、昨日作り上げたまま放っておいた、今朝の打ち合わせで使うはずの資料の束がたちまちに浸り、コーラはそのうち床に垂れ、おれの革靴を余すことなく濡らしていった。

 しばらくすると周りが俄かに騒がしくなったが、あくまでもおれは動じず、どこまでも冷静だった。使い物にならなくなった資料の、コーラに浸っていない部分をうまいこと駆使することで、このままだと砂糖でべとついてしまう革靴を綺麗に拭けないだろうか、と考えていた。

「分かった分かった、分かった分かった分かった分かった」

 ここで今日は一日、徹底的にダメな人間であることにしよう、とおれは決意し、ひとまずコーラで浸った床に革靴を擦り付けることで遊ぼう、なるべく良い音を立てることができたら勝ちの遊びをすることにしよう、と思った。

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