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 おれが東京に越すにあたり狛江を選んだ理由は幾つかあり、家賃の手頃さはどうだ、会社からの通勤にかかる時間はどうだ、よくある理由はさておくとして、とある誰かのとある曲の

「ワンデーケー狛江のアパートには二羽のインコを飼う」

 という、その曲の根幹にはまったく絡まないようないちフレーズが、おれの中で東京者の象徴として、妙に引っ掛かっていたからだった。

 狛江駅から歩いて十分、このまま歩き続ければ多摩川に突き当たり、都県の境も近いというところで右に曲がり、やや奥まったところに、おれが住むワンルームアパートはある。本当はあの歌詞よろしくワンデーケーに住みたいところだったが、家賃はじめ諸々の条件がいまひとつ噛み合わずに断念してしまったのだ。

 おれは玄関のドアを開け、狭小な一部屋で全てが完結している己の居住空間を眺めながら、果たしておれがワンデーケーに越せる日はいつ来るのだろうかと思う。ドアを閉め、周りから物音が聞こえてこないことを確認しつつ、呟いた。

「わんでえけえにすみたいなあ」

 返事は無い。もう少し、声を上げてみることにした。

「わんでえけえにすみたいんだよなあ」

 部屋には誰もいない。

「おれの名前はわんでえけえにすみたいマンなんだよなあ!」

 瞬間、おれは履いていた革靴を喧しい音を立てて脱ぎ散らかしては、バスケのスリーポイントシュートの成り損ないのような妙なステップを踏んでベッドに真正面から飛び込んだが、飛び込むポジションが悪かったのか縁に額をしたたかにぶつけてしまい、その痛みにカーペットの上をのた打ち回りつつ、激しく憤った。

「痛いんだよお!」

 ベッドは応えない。

「おまえ、ただのベッドのくせに、痛いんだよお!」

 あまりにも腹を立ててしまったので、おれは床に置かれていたクッションをベッドに向かって力の限り投げつけ、続け様におれも全体重をかけて飛び込んでは、マットレスを拳で殴っていた。

「痛いだろお!」

 ベッドは応えない。

「おまえ、おれの気持ち、分かったなあ!」

 ベッドは応えない。

「そうか、ベッドは生きてないもんね、これは失敬しまし太郎ですね」

 ベッドは応えない。

「失敬しまし太郎、お許しください次郎、何卒お許しくだ三郎」

 何卒お許しくだ三郎。

「何卒お許しくだ三郎!」

 何卒お許しくだ三郎。おれが衝動的に口にした言葉にしてはあまりにもキャッチーかつクリエイティビティに溢れた、天才的なフレーズではなかろうか。おれは思わず自分の才能に驚愕し、俄かに荒い息を二、三度吐いた。

「何卒お許しくだ三郎、何卒お許しくだ三郎、何卒お許しくだ三郎」

 おれは反動を付けてベッドから起き上がり、腰を激しく振りながら両手を滅茶苦茶に振り回し、その自然発生的なリズムにただただ身を任せ「何卒お許しくだ三郎のテーマ」を数分間熱唱し続けたが、ある瞬間にふと我に返り、カーペットにへたり込んで、とうとう動けなくなった。

 糸が切れるその時は、いつだろうが唐突に訪れる。


 おれはそれから数分間、カーペットの上をノタノタと這いずる小さな蟻の動きを眺めていたりしたが、やがて結露にまみれたコーラのボトルを引っ掴み、息もつかずに半分程飲むと、今しがたの支離滅裂な高ぶりが、口の中で弾けていく気泡と共にあっけなく消え失せていくのが分かった。

「何卒お許しくだ三郎」

 もう一度呟いてはみたが、何一つとして面白くなかった。コーラを冷蔵庫に入れ、扉を閉めると、いよいよ部屋は静かになった。

 置き時計の針を見ると、九時丁度を指していた。この部屋を出たのが七時と三〇分で、すなわちおれはおおよそ一三時間もの長きにわたって、東京で人に色目を使い、色目を使われながらも、愛想笑いと仏頂面を重ねてきた計算となる。

 おれは確かにそのようにして今日一日を間違えることなく乗り切ったし、そのことに対してむしろ自尊心すらも抱いていたが、一方で、衝動にもよく似た何かが徐々に積み上がっていく感覚も覚えるのだった。

 これをフラストレーションと、どこかで見慣れた横文字で表現するのは、あまりにも稚拙かつ直球で面白くなかった。高度な文明を生きる人間としての、もう少し高尚かつ根源的な何かだとおれは思っていたが、これを的確に言語として明示し得る頭もまた、おれは一切持ち合わせていなかった。

「ああ」

 おれはこの感覚を、ひとまずこう呼んでいた。

「キチガイだ、キチガイポイントが今日も溜まってたんだ」

 ところで、話は唐突に変わる。

 件の曲の主人公は、何故にインコを二羽も飼っていたのだろうか。ここでおれは、都会を生きる人間は常に乾いていて孤独だから、気休めになれるような話し相手が欲しいのようふふふ――などと紋切り型の話をするつもりはない。

 これはおれの勝手な目論見だが、主人公も恐らく「キチガイポイント」を持っていて、それを自室のような個人的な空間で発散する時、おれのように一から十までを全て独りで完結するにはあまりにも侘しく寂しくそして気恥ずかしいものだから、共有してくれる都合の良い何かしらを欲するあまり、当てはまったのがたまたまインコだった、という話なのではないだろうか。

 要するにこれは女々しい言い訳のようなもので、終始独りで勝手に狂気にまみれていれば良いものを、インコに話しかけている体にすることで、ほんの僅かばかり恥の感情を紛らわしている、恐らくそうに違いないのだ。

 だから、なにもインコでなくとも良い。犬だろうが猫だろうがぬいぐるみだろうが何でも良い。何にせよ、大変いやらしい人間である。

「おれは強い男だから」

 独り言ちる。部屋には誰もいない。無論インコもいない。

「おれのキチガイはおれで責任を取る」

 おれは強い男なので、衝動の言い訳にインコを飼うなど、するわけがない。

 ただ、仮にインコを飼うとして、おれが部屋で口走った支離滅裂な言葉を覚えて、何の脈絡も無い拍子で声に出してくれたら、それはそれで面白いのだろう。

「クダサブロウ! クダサブロウ!」

 おれの愛インコ、マッキンリー(三歳、オス)は夜毎叫ぶだろう。

「そこだけ覚えちゃったのか」

 おれはそう話しかけては、鳥籠越しに指でマッキンリー(三歳、オス)のトサカを撫でるだろう。するとマッキンリー(三歳、オス)は鬱陶しそうに身を屈め

「イタインダヨオ!」

 と、口走る。

 勿論マッキンリー(三歳、オス)は適当にその言葉を選んだのだろうが、今のくだりと妙に合致しているようなその口ぶりに、おれは思わず笑ってしまうのだった。

「おまえ、ひょっとして意味分かってるのか?」

「イタインダヨオ! クダサブロウ!」

 マッキンリー(三歳、オス)は機嫌がよろしいようだった。

「ワンデーケーニスミタイ! クダサブロウ!」

「住みたいなあ、ワンデーケー」

「ワンデーケー!」

「ワンデーケーなあ」

 おれはマッキンリー(三歳、オス)の、空豆のように艶がった黄緑色の毛先を眺め、明日退勤したらマクドナルドにでも行ってチーズバーガーでも包んでもらおう、それを持ち帰って、バンズの端の方をマッキンリー(三歳、オス)に分け与えたりして、心から幸せな気持ちになろう、と思ったのだった。


 ここまで考えて、更に一五分が過ぎた。ハッとして棚の上に目をやったが、あるはずの鳥籠はそこには無く、マッキンリー(三歳、オス)もいなかった。インコなど飼うわけがないと断言しておきながら、いざ飼った時の妄想には随分と時間を費やしてしまった。

 おれは、強い男ではないのではないか?

 ふと疑念を抱いたが、これ以上は何も考えないことにし、ひとまず何かを腹に入れることにした。

 這うようにして冷蔵庫の前まで移動し、扉を開けると、先月で賞味期限が切れたドレッシングと、いつ炊いたか分からない米をラップで包んだもの、そして歯形が残った食べかけの板チョコ、その他諸々、取るに足らない何かが無造作に散らばっている。

「空っぽの冷蔵庫開けて」

 扉を乱暴に閉めると、表面に貼り付けていたマグネットがバラバラと床に落ち、それを拾おうとして屈むと腰がギシと軋む音がして、俄かに気分が悪くなる。

「いろいろ思い出してると――」

 おれは家を出て、チーズバーガーを買いに行くことにした。

 アパートのエントランスを出るといつの間にか雨が降っており、電灯に照らされた向こうが霞んで見えた。おれは何もかも嫌な心持ちになり、部屋に戻って何も食わずにそのままくたばってしまおうかと考えたが、チンケなニヒリズムを引きずったまま朝を待つのもまた癪なので、黙って傘を持ち出し、外に出た。

 金沢には肌寒さ残る花曇りが似合う、福岡には湿り気さえも焼け尽くす真夏の陽光が似合う――「この街にはこの天気」という謎のレッテルを、おれはいくつかの街に対して抱えているが、では東京に最も似合う天気とは一体何なのだろうか、駅方面への道すがら、漠然と考えた。

 例えばおれが新宿のガード下をくぐる時、渋谷のスクランブル交差点で人混みをかき分ける時、大門で東京タワーを見上げ、市ヶ谷で外濠を見下ろし、その時その時に広がっていた空の色は果たして何だったか――思い出そうとするも、別に雲一つ無い快晴だったわけでもなく、靴が水で浸る程の大雨でもなく、そのうちおれはどうでも良くなり、いかにして服を濡らさずにマクドナルドへ向かえるかだけに神経を注ぐことにした。

 東京という街は、おれにとってはあまりにも強大で猥雑でドロドロとした得体の知れない集合体であり、イメージがどうのと安直なレッテルを貼るには、どうにも恐れ多いのかもしれなかった。

 雨は強まり、やたらと強い街灯の奥で、雨粒の足が乳白色に輝いて見えた。おれはそれを見て、かの映画で雨を降らす演出をした際には、フィルムに雨粒をしっかり焼き付けるために牛乳を混ぜ込んだ水をホースで放射していた――という、その昔誰かから聞いた、嘘か真かも分からないような雑学を思い出した。

「牛乳の雨に降られちゃ、嫌だよなあ」

 おれは雨音に隠れるくらいの音量で呟き、水溜りを靴の踵で少しばかり蹴り上げた。ジーン・ケリー扮するドンは、果たして本当に牛乳混じりの雨の中で歌い踊り、傘を振り上げては水溜りの上を飛び跳ねたのだろうか。

 今、おれは彼のようになりたかった。おれも沿道の鉄格子を傘ではじいたり、ショーウィンドウのマネキンに挨拶をしたり、したかった。

「でもダメなんだ、おれは東京を生きてるんだから」

 狛江駅南口のロータリーは思いの外閑散としていたが、それでも電車が駅に着く都度、それなりの人混みがコンコースから吐き出され、各々が各々向かうべき方面へと散っていった。

 おれが今ここで「雨に唄えば」をタガが外れたような大声で歌い、滅茶苦茶に傘を振り回し、水溜りを踏みしめ始めたら、彼らはおれをどんな目で見るだろうか。

 なるべく関わりたくない、と思うだろう。病んでしまっているのか、そうでも無ければただのヤケと見なすだろう。一方で、おれもこうでありたい、私もああでありたいという思いもまた、どこかの一抹に抱くのではなかろうか。

 おまえら、今に見ていやがれ。おれがおまえらの憧れになってやる。精々、軽蔑したり羨ましがったりするといいさ――

「まあ、いつかね、いつかやってやるから」

 おれは下を向き、誰にも聞こえないように口に出すと何故だか急に疲れてしまい、そそくさと高架下に構えているマクドナルドへと向かった。

 マクドナルドは駅の高架下に造られた「小田急マルシェ」とか言う、気取った横文字が無性に鼻につく商業施設の中にあり、高校生だろうか、小柄な女性の店員が、あどけない笑みをたたえてレジに立っていた。

「あー」

 おれはレジを挟んで彼女の向かいに立ち、レジに置かれていたメニューの中からチーズバーガーを探そうとしたが中々見つからず、人差し指が空を切っているうちに大恥をかいたような気分になり、自分でも驚くほど無機質な声で

「チーズバーガー包んでください、あとポテトもMで」

 と、言った。

「チーズバーガーですね、畏まりました」

 彼女は笑みを一切崩すことなく、繰り返さなくても良い注文をわざわざ繰り返し、ホールを振り返って暗号めいた何かを叫んだ後、しばらくお待ちください、と返した。

 おれがレジ横で待っている間、彼女は律儀にも背筋をしゃんと直に伸ばし、その顔は曇りの一つも無く、聖者のような清々しき笑みに満ちている。しかしこの女も、家で独りになった時はどうなるか分かったものではない。

 家に帰り、自室の扉を閉めるなり、綺麗にセットされた長い黒髪を掻きむしっては

「タピオカの渦の中で死にたい! タピオカの渦の中で死にたい!」

 と金切り声で絶叫したり、たまにわけもなく腰を捻ったり、枕に頭を押し付けたり、床に寝そべってクロールの真似事をしたりするに違いないのだ。

 インコは飼っているだろうか、犬は飼っているだろうか、猫は飼っているだろうか。恐らくぬいぐるみくらいは置いてあるのだろう。

「いや、できれば置いていないでほしい」

 おれはしみじみと思った。

「君には強い女であってほしい、おれが強い男であるように……」

 しばらく経つと、彼女は紙袋に包まれたチーズバーガーとポテトを持ち

「お待たせしました、お気をつけてお帰り下さい」

 と、それを丁寧に差し出した。おれはそれを受け取り、彼女に言葉を投げた。

「雨、強いですね」

「えっ」

 彼女は咄嗟に目を瞬かせては大変分かりやすくたじろぎ、ほんの束の間だったが、その顔からついに聖者の笑みが消えた。しかし、すぐに体勢を取り直し、ただ一言

「そっ、そうですね」

 と返したが、おれには、今の挙動一つだけで十分だった。

 マクドナルドを出ると、雨粒は小さくなって霧雨へと変わり、南口のロータリーは靄がかりに包まれ、二子玉川へと向かう路線バスのテールライトだけが、朧に浮かんでは赤く輝いていた。

 おれは傘を差さずに帰路を歩き、部屋に戻ると紙袋からチーズバーガーとポテトを取り出し、ものの数分もしないうちに平らげてしまったのだが、全てが無くなったところでマッキンリー(三歳、オス)に与えるバンズの端の部分を残さなかったことを思い出し

「忘れた、忘れた忘れた」

 と、零すのだった。

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