T.K.M.
アズミ
1
東京で朝から晩までの一日を過ごして、その間、一体どのくらいの人間とすれ違うなり、同じ空間を共有したりするものだろうか、時々考えることがある。
「十万くらいじゃん」
内藤が、おれの顔を見ずに答えた。その数字にさして根拠は無さそうだった。
「そんなにいるかね」
「新宿って一日に何百万も使うんでしょ。乗り換えで数分歩いたって、絶対数千レベルですれ違うから」
おれと内藤は、中央線を新宿駅で降り、小田急線に乗り換えたばかりだった。
「そんないった?」
「いったよ、帰宅ラッシュだし」
帰宅客を詰め込むだけ詰め込んだ小田急線の各駅停車は、新宿駅のホームをおもむろに抜け出し、低速で神奈川方面へと南下し始める。
乗り込んだ車両の中で、声を立てているのはおれ達だけだった。内藤の返事を曖昧な相槌で流しつつ、ふと隣のスーツ姿の女に目をやると、手に持っている分厚い手帳に、何とも言えない表情で何かを書き込んでいる。
例えば、人間の感情にツマミのようなものがあるとして、その中心が「ニュートラル」であるならば、「ネガティブ」の方向にツマミを十程度傾けたら、恐らくこのような表情になるのだろうか。
途中、千歳船橋を過ぎた辺りで、俄かに急ブレーキがかかる。件の女はよろめき、おれの肩に顎を打ったが、それでもマイナス十度の仏頂面は崩れることがなかった。やがて、彼女は成城学園前で降りた。
「あいつ、会釈もしねえのな」
低く唸るような声で、内藤が耳打ちした。おれは口の端の方で少し笑い、電車はそのうちに狛江のホームに滑り込んだ。軽く手を挙げて内藤に別れを告げ、駅の改札を抜ければ、おれは独りになった。
独りで狛江の街の裏路地を歩きながら、思い出すのはあの女の顔だった。何かしらが不満気なようで、そうでもないような、僅かな負の感情の含みが混じるあの顔こそが、あの絶妙な表情こそが東京を生きる人間の証だ、おれは思っていた。
灯りの眩しさに蠅が集る自動販売機でコーラを買い、おれは考える。何も、あの女に限った話ではなかった。東京の人間が街に繰り出す時は、決まってあの顔にならなければならないのだ。
おれが地元の大学を出て、就職を機に上京した際、ぎょっとしたのは、皆が皆、件の「マイナス十度」の仏頂面で街を歩いていたことだった。誰も彼もが誠に行儀良く、決まってあの面構えだった。
果たしてその十度の傾きの中で、一体皆、何かしらの思いどころを抱えているのか、もしくは何も考えずに漫然と手足だけ動かしては、大東京をふらふらと揺らいでいるのか。
入社したての春、何の気無くおれが持ち出したこの話に、内藤は答えた。内藤はおれが入社して以来、初めて親しくなった東京の人間で、丸々と肥えた身体に高そうなスーツを着て軽快な標準語を話す「温室育ち」という言葉が似合いそうな男だった。
「あれは、無意識のうちにそうなるの」
「無意識に」
「うん」
会社の喫煙室でメビウスに火を点けながら、内藤が頷いた。
「東京に住むようになってからしばらく経つと、皆あの顔になってくる」
「そんな顔してないじゃん」
「人と話してる時にそんな顔しねえよ、そりゃ」
東京の人間は皆、街中を独りで黙々と歩く時に限って、自ずとあの顔になるのだと彼は言った。それは何故か、とおれが聞くに
「自分の感情をそこら辺の知らない奴に晒したくないからだよ」
と返す。
「ただでさえ人が多いんだから、変な顔したり動きしたりして、浮きたくないじゃん」
「何でしかめっ面なんだよ」
「そっちのが真面目っぽく見えるし、誰からも突っ込まれないし」
内藤があまりにも平然と言うものだから、おれは面食らってしまった。この男が言った話を真に受けるならば、東京の人間は独りで表通りを出歩くにあたり、個々の感情を件の仏頂面で厚塗りし、なおも平然と澄ましているということになるのだ。
勿論、外面と内面の区別というものは文明を生きる以上、例えどの環境に身を置こうがいずれは必要に迫られるもの、とは分かっていながらも、おれは思わず目が眩んでしまうのだった。
「いや、そんなんおれには無理だよ」
「って思うでしょ」
ものの数ヶ月と経たぬうちに、おまえも同じような顔を持つことになるだろう、と内藤は言う。これは東京を生きる者としての終生の宿命だ。房野君もまた、東京の「無表情」に飲み込まれていくのだ、こればかりはおまえも抗えないのだ――
内藤は頭を上下に振りながら目をきりと見開き、低く掠れ声で呟いた。おれは彼のしたり顔を見ると何故だか無性に苛立ってしまい、吸っていたハイライトを灰皿に強く擦り付け、首を捻りながら喫煙室を出たのだった。
それから季節は秋口に差し掛かり、徐々に夜風は冷え始めている。
東京を生きて半年が過ぎ、おれはその間、如何にして「マイナス十度の仏頂面」を会得するかに腐心し続けたが、この頃、遂にそれらしき表情パターンの公式を確立するに至ったのである。
まず、疲れない程度に眉間に皺を寄せる。この時、瞼は釣られて上げ切らないようにする。口角は下げられるだけ下げる。たまにポケットをまさぐったり、鼻の先を掻いたりする仕草を付け足せば、ほぼ完璧と言っても良い。この半年、通勤客を注意深く観察し、幾日幾日鏡の前で実践を重ねた末に辿り着いた、おれなりの東京者の擬態術でもあった。
そして、今日もおれは東京をたゆたう者として、街行く人間の誰一人からも怪しまれずに一日を終えるだろう。これは、ある種の誇りでもあった。昼夜問わず途切れることの無い百鬼夜行の中で、おれは誰の和を乱すこともなく、乱されることもなく、誰より秀でることもなく、劣ることもなく、安寧と秩序の中で帰路に就く。ある種の奇跡だとも思う。奇跡がこの半年間、連続して起こっているだけの話だった。
狛江の住宅街を黙々と歩き続け、小さな交差点のカーブミラーに映る暗がりの中に、おれの顔を見た。東京者の顔は、最早おれの顔そのものでもあった。
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