後日談:〈皇〉2
「会いたい人がいる。」と、紅華は言っていた。
八は紅華について、経州へと向かった。
「付いて来たのか!?」
紅華は、道中で声をかけてきた八に心底驚いたようだった。帰るように説得するも、よく知らない道を戻るのも心配で、時間が無い故に送り届けることもできず、一緒に行くことになった。絶対に守ると約束できないと念を押され、近くの領地に居てもいいと遠ざけたかったようだが、それも最初だけだった。
探しているのは過去の旅の道中で出会った人物で、旭さんを知っている人だそうだ。今回の件について、何かを知っているかはわからない。それでも紅華が行くと決めたところに、八はついていく。
他の州へ行くとは言ったが、州の越境は誰もが知る過酷な道のりだ。州境はつまり、〈仇鬼〉の生息地だからだ。〈仇鬼〉は社会性がない生き物であるため集団行動はしないが、住み心地の良い場所というのはある程度共通しているらしい。そこが〈仇鬼〉の生息地だから州境になったのか、州境であるから〈仇鬼〉の生息地になったのかは定かではないが、とにかく滅多なことがないと足を踏み入れない領域であることは確かだ。
しかしながら、その地に足を踏み入れれば必ず〈仇鬼〉と戦わなければならないかというと、そうでもない。そもそも人間に対して攻撃的な〈仇鬼〉は、人間が少ないこのような地で大人しくしていない。〈仇鬼〉の気性は人間以上に個体差が大きいと分析されており、人間に興味を持たない〈仇鬼〉は遭遇しても見向きもしなかったという記録がある。
ただ勘違いしてはいけないのは、人間に攻撃的な〈仇鬼〉ももちろんこの領域にいる。遊びに出かけるように人の領域を荒らした〈仇鬼〉も、飽きれば、疲れれば、傷をいやすために、戻る場所がある。そういった〈仇鬼〉に見つかれば戦闘は避けられないだろうし、さらに初めて人間を見た〈仇鬼〉がどのような反応を見せるかはわからないのだ。
そして、〈仇鬼〉がこの地でどのように生息しているかは不明である。なにを食べて生きているのか。狩場は決まっているのか。巣はあるのか。どのように繁殖するのか。よって、〈仇鬼〉のいそうな場所を避けて通ることは不可能だ。そして対外、先に相手を見つけるのは〈仇鬼〉側だ。
紅華に教えを受けながら、八は銃の使い方も教わった。
「振動は、八の小さな体じゃ耐えられないだろうけど、いざとなったら私の死体からでも銃をとって、自分の骨が砕けても相手を仕留めるまで打ち続けるんだ。」
紅華は進みながら、とめどなく八に情報を与え続けた。一寸の教え漏れもないようにしているかのようだった。
徐々に周囲の草木が高くなり、視界は悪くなっていった。紅華は初めての道ではないらしいが、以前は行きも帰りも商人の集団と一緒だったそうだ。皆で銃を構えて全方位を警戒しながら、台車を使って一気に駆け抜けたのだった。
今回は二人、徒歩で、紅華はお荷物の八を抱えた進行である。
紅華の額には汗がにじんでいた。とにかく見逃すまい、聞き逃すまいと集中しているようだった。しかし進む必要がある以上足音はするし、〈仇鬼〉に対して隠れることは元よりできないため、気配を消す必要はないらしい。とにかく一刻も早く進むことだけを考えて足を進めた。
八も年頃の子としてはよく走ったが、それでも小さな歩幅では紅華と同じようにとは行かなかった。しかし、紅華は八を置いていくことはなかった。
走り続けるのも限界がある。安全な場所などないのだが、それでも木陰で一休みする必要があった。
八はその会いたい人物について尋ねてみた。
その人物はとても博識な人だったそうだ。しかし、紅華が今知りたい情報を持っている保証はない。なにか知っていたとしても、教えてくれるかわからない。それくらい、その人のことは何も知らなかった。
そんな不確かなことに、どうしてここまで身を投げうてるのか。
その問いには、紅華は苦笑した。
自分でもわからないのだが、とらしくない前置きをして、しかし何かが得られる確信があると言った。他に真相を知る手掛かりがないということもあるが、彼は別れ際にこう言ったそうだ。
「また会いに来て。何か知りたいことができたら、必ず僕のところに来てね」
その時はただの挨拶だと思ったし、その言葉を思い出すこともなかったのだが。彼が言っていたのは今この時のことではないかと思えてならないと。
再び歩き出す中で、紅華は周囲を忙しなく見渡すことをしなくなった。木々が増えて見れなくなったと言うのもある。まっすぐ前を、遠くを見る。当初の張り詰めた様子とは違う、なにか考え事をしているようだった。
そして、それは突然だった。
八の体が横に飛ばされ、茂みを乗り越えてゴロゴロと地面を転がった。何が起きたかわからなかったが、立ち上がるよりも先に視界に飛び込んできた光景に、声が出なかった。
〈仇鬼〉がいた。
紅華の肩を組むように傍に寄り添った〈仇鬼〉の人差し指の爪が、紅華の喉にかかっていた。
その〈仇鬼〉は限りなく人間に近い姿をしており、身長は三メートル近い。黒く大きな手は紅華の左肩を覆っており、紅華の覗き込むように近づけられた顔には、真っ直ぐ前に突き出した一本の長い角と、その両脇に二つの琥珀色の瞳が輝いていた。角や顎下など一部銀色がかった部分も見られるが、ほぼ全身が真っ黒の〈仇鬼〉だった。
頬に鼻息がかかる。匂いを嗅がれている。喉元の爪がゆっくりと離れ、髪や服に軽く触れて眺めている。
今のところ、襲いかかるような気配はない。しかし、これほど大きな〈仇鬼〉である。敵対心など微塵も感じさせないまま、飽きた瞬間に一捻り、なんてことも十分にあり得る。
八も、紅華も、動けない。
〈仇鬼〉の指が銃に触れる。それが無くなれば、対抗する力を失うことになる。紅華はただ強く握りしめて抵抗した。
そちらにさほど関心は向かなかったようで、今度は大きな手で紅華の頬を鷲掴み、左右に紅華の顔を捻ってまじまじと顔を眺めた。そのまま顔をもぎ取られるんじゃないかと悪寒が走った時———その〈仇鬼〉の手から、紅華が消えた。そして紅華は八のそばに居て、知らない人影に囲まれていた。〈仇鬼〉との間に入り込む人影。〈仇鬼〉に向かって飛翔する細かな線が輝いて、ワイヤーが〈仇鬼〉と地面にめり込み動きを封じた。
現れた集団は全員真っ白な衣装を身に纏ってフードを深くかぶり、かつ顔の下半分は布で覆っていて、顔がほとんど見えない。
〈仇鬼〉は暴れた。
その巨体に似合ったパワーだった。動きに合わせてワイヤーが引きちぎれたのだ。気にも留めず、その鋭い爪を人へむけて振り下ろす———
待て
〈仇鬼〉の腕がぴたりと止まる。
紅華は〈仇鬼〉にも、そして突如現れた集団全員に向けても『発して』いた。
手を出すな
言葉に力が溢れていた。
紅華はまっすぐに〈仇鬼〉を見つめた。
「あなたほどの力を持っているなら、傷つけなくてもいいはずだ。」
〈仇鬼〉に向かって言ってるのか?
社会性がないというのは、言葉を持たないと同義だ。『説得』なんて、正気の手段とは思えない。
「見逃してくれ。私と、また、会いたかったら。」
〈仇鬼〉はまた動き出し、ぶちぶちとワイヤーが切れた。
自由になった〈仇鬼〉は周囲を一瞥したものの、気だるげに首を振っただけだった。
紅華と見つめあう。口が開き、肉食動物さながらの鋭い牙がのぞいた。
『ま た』
〈仇鬼〉が消えるように去ったあと、その集団の動きは速かった。近くにいた者が紅華に向かって頭を下げ、矢継ぎ早に申し立てる。
「〈五光〉が一人、〈孟春〉の指示でお迎えに上がりました。」
「〈孟春〉?」
何故〈五光〉が紅華に迎えをよこすのか。
〈和合の一族〉も〈神器〉ではあるが、〈五光〉とは〈神器〉としての格が違う。加えて、州も異なる〈五光〉がわざわざ迎えをよこすとは。
どこからか運ばれてきた駕籠に乗せられそうになり、紅華にもさすがに焦りが見られた。
「人違いじゃないでしょうか。」
「現名、梅木代紅華、満十九歳。その方を指示されております。お間違いありませんね。」
何も言い返さない紅華にさらに付け加える。
「あなた様のためかと存じますが。」
少し、怒っているようだった。だからというわけではないだろうが、紅華は駕籠に乗った。歩くと申し出たが、「連れていく場所は知られてはならないので」と拒否された。
駕籠に乗る直前、後ろから声をかけられた。
「怖くはなかったのですか。」
それに対して、紅華は質問の意図がわからないと言うように小首を傾げてから淡々と答えた。
「いや、もちろん恐ろしかったですが。」
「…そうですか。失礼しました。大事なく良かったです。」
紅華と八は揺られた。
紅華はゆっくりと瞬きしている。さすがに疲労が見られた。
結局、〈孟春〉が何の用で迎えを寄越したのかわからない状況で、このまま連れて行かれて大丈夫なのだろうか。紅華は微睡みながら、小さく呟いた。
「用は、行けばわかる。それに、〈孟春〉なら、期待することがある。」
紅華は既に、このよくわからない現状について悩んではいないようだ。考えても仕方ないことは考えない。その切り替えの『速さ』もさることながら、『早さ』も常人ではないと感じた。
紅華の体がゆっくり沈むのを見て、八も徐々に落ち着いて来た。まだ自分の緊迫した鼓動を感じるが。
つい数分前に〈仇鬼〉が現れて、死ぬのかもしれないと思った。それから白装束の集団が現れて、今は駕籠に揺られている。一瞬の出来事で、何が起きているのかさっぱりわからない。改めて、目の前の女性は先ほどまで〈仇鬼〉の爪が首にかかっていた人間とは思えない落ち着きっぷりだ。
「さっきの〈仇鬼〉、様子がおかしかった。」
紅華はさらに小さな声で呟いていた。
「さっきの〈仇鬼〉、知性のないただの獣とは、思えなかった。触れる時も、指の腹か、爪の先端外側に向くようにしていた。傷つけないように、壊さないように、気を遣っているように感じた。目が合った時、首を傾げる様な仕草をした。なにを『考えて』いたのだろう。何かと意思疎通を図ろうとしているように思えた———誰と?
『ま た』
と、〈仇鬼〉は、笑った気がした。笑った気がしたんだ———」
その後は、何も続かなかった。
紅華の意識はゆっくりと暗闇に沈んだ。
八は外の会話に耳を傾けた。
「間に合って良かったけど、怪我はなかった?その…精神的な方は?」
本当に心配しているのは紅華のメンタルではなく、任務が百パーセント達成されたかだろう。もし〈仇鬼〉との接触でなにかあれば、「ぬかった」ということになる。
「なにも、心配する必要はなさそう。」
「良かった…え、本当に?」
「彼女、何でもなかったみたいに冷静だった。〈仇鬼〉とあそこまで接近しておいて。いつ殺されてもおかしくなかったのに。」
八にはそれ以上話し声は聞こえなかったし、会話をしている者の顔は見えなかったが、奇異と畏怖を目の前にしたような表情を容易に想像できた。
駕籠が大きく揺れた。
八も寝落ちしていた。目を開けると、紅華は既にはっきりと目覚めていた。
〈五光〉が一人、〈孟春〉。
正確には紅華だけだが、二人はその人物の元へ招かれている。
どのような人物であるかは「噂しか耳にしないけど」と前置きして教えてくれた。
滅多に人前に姿を現さないことで有名な人物だ。そもそも〈五光〉をお目にかかることは滅多にないが、〈五光〉の中で唯一、居住地の詳細さえ明らかになっていない。
姿を見た者は一貫して同じ容姿を語ることから、『不老不死』との噂もある。そして〈五光〉としての役割は『記録』だ。この国で起こるありとあらゆる事象の記録。故に『全知全能』ということだが、どこまでを知っているのか、どのように知り得ているのか、それらがどう記録されているのかは不明だ。それが何のための記録なのかを知る者もいない。
駕籠が止まった。
「どうぞ。」
突然の光量に目を細めて駕籠から降りた。そして慣れ始めた瞳に飛び込んできた「知り合い」の姿に、紅華は思わず一歩踏み出した。
「つる…」
紅華の両脇から、後ろ手を組んだ白装束二人が行く手を阻んだ。
珍しく戸惑っているのがわかった。
「離れろ。」
「つる」が歩み寄り、白装束を手で払うようにして下がらせた。さらに紅華に近づく「つる」に声をかけようとした者は、一瞥されて黙り込む。
紅華の目の前まで来た「つる」は膝に手を当てて紅華と目線を合わせると、にっこりと、嬉しそうに微笑んだ。
「久しぶり。大変だったね。」
紅華は、何を思っているのだろう。
この白装束の人たちは誰か。
あなたは何者なのか。
何故迎えを寄越したのか。
何の用で呼んだのか。
「〈孟春〉であられます。」
崩れない男の表情を見て、目の前の男が探していた博識の「つる」ではなく、『全知全能』で『不老不死』と噂の〈五光〉であると、ようやく実感した。
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