後日談:〈皇〉3
〈孟春〉に案内されたのは真っ白な御殿だった。駕籠から降り立ったそこはすでに周囲を二メートルほどの外壁が囲っており、外の様子はわからない。
八は白装束の集団に囲われて、紅華と〈孟春〉の後ろについて行く。〈孟春〉はかなりの長身の男で、真っ白な長髪と目尻の楕円形の紅模様が、確かに『鶴』を想像させる。歳は三十前後に見えるが、噂通りなら相当な年齢なのだろう。しかしいずれにしろ年齢にそぐわず、時折弾みながら、揺れながら、子供のように全身から喜びが見て取れる。紅華に好意的なのは間違いなかった。
「本当に久しぶりで嬉しいな。約二年と五ヵ月ぶりだ。来てくれてありがとう。」
「なぜ迎えを?」
「こちらから州を越えるのは、他の〈五光〉の顔があるからさすがにね。あそこまで来てくれたからだよ。」
「そうではなく…」
歯切れのわるい紅華に、〈孟春〉は打って変わって不安そうに眉を顰めた。
「あれ、僕を探してたんじゃなかった?」
「…いや、あなたを探していた。」
〈孟春〉は嬉しそうに笑った。
御殿を正門からまっすぐ進んだところに、大きな扉があった。それが音もなくゆっくりと開き、二人は足を止めることなく中へ入った。八もそれに続いたが、白装束の集団はそれ以上ついてこなかった。
足を踏み入れた瞬間、特徴的な香りがした。大きな空間の広がりを感じると同時に、壁一面に並べられたそれらに釘付けになった。
『本』だ。
円形の大きな部屋に、見渡す限り整列する大量の本。天井まで壁を覆い尽くすだけには飽き足らず、下へも続いていた。部屋の真ん中は空洞になっており、天井から垂れ下がったいくつもの球体のライトが下の方まで続き、明るく照らしている。円形の回廊が連なった階層は部分的に、階段で降りられるようになっていた。
「直近の我国の記録だよ。」
紅華は壁に歩み寄り、一冊の本を手に取った。背と表紙に、人物の名前と年代が記載されている。中を開くとそれは『人の記録』だった。日時と共に、子供の出生、怪我や病気の発症、そして行った場所、買ったもの等が記されていた。つらつらと。淡々と。
「ゆっくり話したいし、何日でもここにいてほしいけど、急いでるよね。」
休む時は他の部屋を使ってもいい、必要なものは外にいる者に、と説明を重ねる。
「なにかあれば呼んでね。」
「あなたが、私の知りたいことを知っているのでは?」
「…僕、嘘はつけない呪いにかかっていて、」
〈孟春〉は困ったように笑った。
「たぶん、今答えるのは難くて。『どれ』が答えかわからないんだ。ごめんね。」
「偽名は名乗れるのに?」
「偽名じゃないよ。名前は一つじゃないといけない決まりはないもの。だから、また前みたいに呼んでくれたら嬉しいな。」
紅華は、小さく頷いただけだった。
立ち去る際、八は〈孟春〉と目があった。生まれて初めて会った〈孟春〉に、八は小さく頭を下げたが、〈孟春〉は一瞥しただけだった。紅華と話している時とは別人と見間違うほどの、岩のような冷たい表情だった。
扉が閉まり、閉じ込められたような感覚に陥った。
普通なら戸惑い、足がすくむところだが、紅華の行動は速かった。
背表紙に記された名前と年代を確認していく。
紅華は一段下に降りて、また同じように背表紙だけを確認していく。
一冊の薄めの本を手に取り、最後の文字を読んだ。
『——年、四月十日、十七時十二分、—————火葬場、火葬』
数日前に「心肺停止」の記載があり、そこから順当に葬式を終えられているようだ。
「何をしているの?」
「一旦、法則性を…同じ人物に関する本が、いろんな場所に複数ある。詳細に書かれているから、一人の人生が一冊に収まっていない。上より下の階の方が昔の記録だから、ある程度年代ごとに並べられているらしい。下の階の方が本棚の空きが無くて、同じ厚さの本が多くなっている。もしかしたら上の階はまだ生きている人の、記録途中のものが多いのかもしれない。同じ厚さのと言ったが、これ、薄めの本の最後は死亡記録になっている。八、母さんの記録を探してくれるか。」
しばらくして、旭の最期の書籍が見つかった。
『——年、二月十三日、十二時零分、弥生邸、猿炎の手によって斬首。』
猿炎とは、処刑人の名だろう。
「〈孟春〉が『どれ』かわからないと言っていたことは、こういうことかもしれないな。母さんを殺した者は誰かという問いに、この者の名前を言われたところで意味はない。」
八は紅華の指示通り、梯子を上り下りして背表紙に旭の名が書かれた本を探した。
紅華が知りたいのは『〈桜貴〉が旭を殺した理由』だ。第三者が大きく介入している可能性があるが、現状はどちらかの記録から遡るしかない。もちろん、背表紙に〈桜貴〉の文字も探したが、一冊も見当たらなかった。
「〈桜貴〉ではなく真名で記されている可能性と、〈五光〉に関する記録はここにはない可能性があるな。いずれにせよ、〈桜貴〉からのアプローチは難しいかもしれない。母さんの記録を呼んでいるが、ここの記録にはただ行動の事実が書かれているだけだ。誰に恋をした、恨みを持っていたとか、心情に関することは一切書かれていない。書き連ねられた文字の中から、今回の件にかかわるような特別な動きを判別しにくい。点と点をつなぎ合わせる作業の中で、その間にあった事情を見落とさないようにしないといけない。その後で、今回のことに関わることを抽出する必要がある。これはなかなか———」
聞いているだけで気が遠くなる、骨の折れる作業だ。時間がかかるのはもちろんのこと、どのような事象が今回の件に関わっているのかわからない以上、一度で漏れなく拾い上げるのは難しいだろう。
紅華はただひたすらに、直近のものから探し出し、黙々と読んだ。
八はひたすら旭の本を探し、紅華に届けた。想定以上の冊数だった。
紅華は休みなく読み続けた。
本当に一時も休まないため、休息のためにも外の白装束にもらった水を渡して、時折何かわかったことはあるかと聞いた。
「母さんの記録に登場する他の人物の名前が少なすぎる。『会話』に関する記録が一切ないし、例えば一緒に戦った、一緒にご飯を食べた、一緒に出掛けた行動に関して、その相手の名は記されていない。当然と言えば当然だ、それが書かれていたらとんでもない文量になるし、「一緒に」行うことの定義は難しい。極力簡潔に間違いが無いよう記されている。他者の名前が出てくるのは基本的に、出生に関することと、意図的に物理的な接触があったとき、そして物の受け渡しがあったときだ。他人との関りが見えるのはほぼそれに関する情報に限らる。それも、以前〈魔術師〉に〈仇鬼〉を譲渡したことは読み取れない。直接手渡したわけじゃないからだろうな。」
絶望的じゃないかと、思ったが口には出せなかった。
その気持ちを察したのか、紅華は薄く笑って八の頭を撫でた。
「ある意味救われたかもしれない。さっきの情報が一切漏れなく記されていれば、何冊分の本になることか。一人の記録を読みきるのに何年かかるかわからない。それに物の動きというのは、その行動の裏が読めるものでもある。数少ない他者の存在は、見逃すべきではないのかもしれない。」
紅華は読んだ。
読み続けた。
そして考え続けた。
紙に情報を書き込んでいく。八はそれを覗き込み、紅華が何をしようとしているのか観察した。
時折、紅華はメモを八に渡し、この人物のどの時期の物を探してほしいと頼んだ。物や金銭の受け渡しがあったその人物の記録から、何者なのかを特定した。とてつもなく時間がかかる、先が見えない作業をしていた。
〈和合の一族〉の活動範囲は梅ノ香領に限られ、それは旭も例外ではない。それが功を制した。
ほとんどは住み込みで働く者か領民で、そうでなければ『商人』かと思われた。商人と思われるその人物の記録では、登場する人物の数が比ではなく、むしろほとんどが『誰か』との物の受け渡しの記録と言ってよかった。
この作業を数回繰り返し行い、頻繁にやり取りを行う『商人』が数人いたため、それらの人物の身辺調査もした。所属する集団、主な活動拠点、何を売り買いする目的で領地に来ていたのか、そういったことを調べた上でそれらの『商人』に関して『無害判定』を行った。違和感のある特殊な物の売買も見当たらないこともあり、それらの商人とのやり取りは見逃すことにしたようだ。
そうやってひたすら地道な作業を続けた。
何度も同じことを繰り返し、関連があるか考えた。
疑い、それが晴れたらまた新しく疑い。
おそらく紅華は八に話していること以上にたくさんのことを考えながら作業している。
しかし、このやり方でいいのかと、疑わざるを得なかった。
旭が金銭を受け取った人物がいた。珍しくはないが、キリの良い額が気になったらしい。これまでの作業と同じように、その人物の記録を探した。
ここで初めて、『弥生邸』の文字が現れた。
紅華は咄嗟に立ち上がった。『何故』金銭の受け渡しがあったのか。そもそもそれは〈桜貴〉の指示なのか。
初めて得られた母と〈桜貴〉との繋がりかと思えたが、それ以上の進展はなかった。しかしこの人物をたどれば、最初にあきらめたもう一つの道、〈桜貴〉の記録にたどり着けないだろうか。「上」の存在をたどるが、〈桜貴〉という文字は出てこない。
旭の記録に戻り、さらに読み進める中で、同様の人物が数人見つかった。つまり弥生邸で働く者が、数回、キリのいい金額を母に手渡していた。しかしそれ以上のなにかは得られなかった。
「あの」
これまでも白装束が定期的に食事を運んできてくれていたが、向こうから声をかけてきたのは初めてだった。
「倒れられては困ります。」
「問題ありません。」
「しかし、」
「やめなさい。」
もう一人に止められた。二人に共通して、紅華を嫌っているというより、不気味に思っているようだった。
この空間は、外の時間が非常にわかりにくい。大きな天窓から光は差し込むものの、下の階層に行くほど、太陽光と真ん中のライトとの区別がつかなくなる。
「日付と時間を教えてもらえますか。」
「二十二日の一七時です。」
母の部屋を調べた後、州境に来るまでに一日。そこで一泊して州を越え、ここに来たのはその日の昼頃———それから五日が過ぎて経っていた。
真相を突き止められる保証など最初からなかった。
しかし、〈孟春〉の元へ来られた時点で期待はしていた。
『答え』はすべてここにあるのだろうと。
さすがに、紅華の目に力がないように感じた。頬杖をつき、ぺらぺらと紙をめくっている。その本は旭の記録だが、かなり昔の物に遡っていた。
紙を捲る。
八は紅華の傍に言って本を覗き込んだ。
紅華は何を『選択』するのだろうか。真相がわからない以上、何が正しいことだったのか、誰が罰せられるべきだったのかわからない。また新たな手法で、真相を突き止めようとするだろうか。
紙を捲る。
しかし、〈和合の一族〉は放置しておける状態とは思えない。紅華は、見捨てたりはできないだろう。しかし有耶無耶に終わらせることも、またできないのだろう。
紙を捲る。
緋司の誕生が記されていた。そこで、手が止まった。
紅華の表情は固まっていた。
パラパラと、ページを戻す。背表紙を確認して、違う本を手に取る。
パラパラと流し読みしている。なにか、特定の文言を探しているのか。
しばらくそうしていたが、ピタリと動きが止まった。
「どうしたの?」
「…私の名前がない。」
紅華はうつろな目で本を見つめていた。
「母さんの記録に、私の出生のことが書かれていない。私は、母さんの子じゃない?〈和合の一族〉じゃないのか?でも、〈神器〉だ。〈ビャオルフ〉には乗れるし、〈魔法〉も———」
ぶつぶつと何か言った後、今度は直近の記録を漁った。旭を抱きしめたことも、銃を手渡したことも———ない。
「母さんの記録に、私の名前がない。」
紅華は口元に手を当てて、再び固まった。
「八、私の本を、探してきてくれるか。」
八は探した。
丁寧に、『梅木代紅華』の本を探した。
「なかった。」
「そうか。」
驚いた風でもない。考えている。
「…気付かなかったのが不思議だが、盲点だったな。そこにある情報を拾い上げようとしすぎて、あるものから『ない』部分を補おうとしすぎて。『ない』ものに意識が向かなかった。私の記録がない。個人の記録としても無いし、他者の記録にも登場しない。これは何を意味する?」
言うや否や、紅華は扉へ向かった。早足で歩み寄り、勢いよく扉を開けた。
「何かわかったかな?」
そこには〈孟春〉がいた。白装束も何人か控えている。
「〈桜貴〉の記録が読みたい。」
〈孟春〉の目が僅かに見開かれた気がした。紅華の申し出に答えたのは傍に控えた白装束の一人だった。
「〈五光〉の記録はお見せできません。」
「あるにはあるんだろう。なんのための記録だ。誰なら見れる。」
「〈皇〉のみに許されております。」
「他には?」
「…他?」
「〈五光〉が、他の〈五光〉の記録を見ることは許されないとしても、自分の前任の記録も読めないのか。」
皆黙った。
白装束は、驚愕していた。
〈孟春〉は、徐々に喜びを噛み締めているような、そして期待した眼差しで紅華に歩み寄り、膝をついた。
「あなたは誰?」
今更何を、と言う質問を紅華に投げかけた。紅華は間髪入れずに答えた。
「私は〈桜貴〉だ。」
〈孟春〉は崩れ落ちるように、しかし大切なものを抱き抱えるように、紅華を抱きしめた。
「おかえり、〈桜姫〉。」
〈孟春〉は紅華の腕を掴んで早足に白々しい御殿を通過した。
白装束の者たちは口々に抗議の声を上げている。
「〈孟春〉!お考え直しください!」
「どうやって辿り着いたんだ…あんな記録の中から…」
「こんなの認められるはずがありません!」
「あなたがそこまでする必要はどこにあるのです?」
「このままでは立派な規律違反であなたの身が———」
そう口にした白装束の頭を、〈孟春〉は空いた方の手で鷲掴みにした。
「この件は口を出さないと約束したはずだ。」
それ以上、白装束は追ってこなかった。
〈孟春〉と紅華は一つの扉の前に立っている。先ほどまでいた書庫よりは小さな扉だが、その扉には花が咲いた木の模様が彫られていた。
中に入ると、やはりそこにも壁一面に本があった。正面には椅子と机があり、その上にも乱雑に、たくさんの本が積まれている。
〈孟春〉は紅華を椅子に座らせた。
「これが、今〈桜姫〉の代理を務める男の記録だよ。」
「…代理。」
机の上に載っている本の数は、とても一人分とは思えない数だった。中を確認すると、確かに先ほどまでの本とは情報量が桁違いだった。
「僕は、しばらく時間が取れないと思う。好きなだけここに居て、好きな時に誰かに声をかけてくれれば、ちゃんと送り届けるよ。」
「…どうして、私にここまでしてくれるんだ?」
〈孟春〉は幸せそうに笑っただけだった。
紅華は去り際の背中に声をかけた。
「ありがとう。つる。」
〈孟春〉は振り返ると、先程より一層幸せそうに、「またね。」とその場を後にした。
そこには小説のように、一人の男の人生が綴られていた。紅華の目的はそれで十分だった。
紅華は自身が〈桜姫〉だと、どうしてわかったのだろうか。自分の記録がないだけで。それは消去法だったのかもしれないし、当てずっぽうだったのかもしれない。しかし結果的には、自分が〈桜姫〉だと宣言できなければこの部屋には入れていなかった。かつ、今の〈桜貴〉は偽物でなければならなかった。
〈桜姫〉はただ一人。二人は存在しない。それは他の〈五光〉も同じだ。現代で唯一の〈桜姫〉になり得る人物だから、『正解』を引いたのだ。
八は紅華の反応を想像した。真相を突き止めて喜ぶだろうか。自分が〈五光〉の一人だと知って、すぐにでも弥生邸に行くだろうか。旭を殺したのが自分の父親だと知れば複雑な気持ちだろうが、八は「娘と居たい」という父親の気持ちは妥当だと思う。いろんな事情が絡み合って遠回りしてしまったとしても、家族だ。誰が父娘を引き離せる?
前〈桜姫〉と前〈鶯目〉が紅華を渡さなかったのは、一種の意地もあったのだろう。もちろん紅華が利用されないよう守ろうとする気持ちが一番だろうが、それが紅華にとって悪いことだったのかどうかはわからない。それ以上に、自分を不当に利用しようとした不快な男の、自分の領地のことを蔑ろにした男の、理想通りに事が運ぶのが気に食わなかったっともとれる。〈鶯目〉に関しては、紅華がこの地に居ればもっと金銭的援助を受けられるかもしれないという意図も皆無ではなかったのではないだろうか。
皆が皆、自分の都合がいいように動いて、紅華はそれに巻き込まれただけだと、八は思っている。紅華がそれでも育ての親の死を許せないなら〈桜姫〉になれば好きに罰せられるし、父親だからと許しても誰も責められないだろう。
しかし、紅華はどちらも選ばなかった。全てを知った後も、「梅ノ香領に戻る」と言っただけだった。
駕籠の中で、八は紅華に問う。
「大丈夫?」
「あぁ。」
「…これからどうするの?」
「さぁ。」
外は見えないのに、遠くを見ていた。
「私のせいだった。母さんが殺されたのは。」
「…それは、紅華さんが責任を感じることでは…」
「うん、何も知らなかったからな。でもだから仕方なかったと、済ませられることでも無い。皆は、母さんが私のせいで殺されたと知っても、私を責めることはないと思う。私の事情も私以上に、もう知っているのかもしれない。〈桜貴〉はたぶん、急いでる。すぐにでも私を捕えたいだろう、梅ノ香領にいては、迷惑がかかるな…」
「正しいこととは。」紅華はそれ以上、何も語らなかった。
「———ふぅん。」
〈皇〉は不満げに唸った。
「いまいち感情の変化が伝わらないな。〈桜姫〉が優秀なのはわかったが、私が知りたいのはもっと感情的な部分だ。いつから察していた?絶望したか?今回の結末はいつから描いていた?自分の身を犠牲にすることになったのだろう、なにをもって決断した?それこそ、一時も迷わなかったのか?はぁ、なんで烽州へ着いて行かなかった。傍にいなきゃ聞けるものも聞けんだろう。」
八は首を垂れたまま、ただ聞いていた。
あの時、紅華は自分を避けたように感じた。自分に伝言を残し、気がつけば緋司と烽州へ行ってしまっていた。何かを察したのだろうか。
「まぁ、経験だな。八。何のためにお前を生んだと思っている。」
「はい。」
「まぁいい。次回作に期待だ。じゃぁ、問題児を助けに行くか。」
経州にて。
真っ白な御殿には呻き声が響き渡っていた。
「あれ、ギリギリか?」
そこにはミイラのような体が横たわっていた。
「おいおい、〈桜姫〉にフライングで権利を行使したぐらいじゃ、こんなことにはならんだろう。何をしたんだ?」
彼は僅かに呻いただけで、それには答えなかった。
「まぁいいや。」
〈皇〉はその全身にゆっくりと手をかざした。するとその場所から、徐々に生命力が蘇るように肌にハリが出る。その間も呻き声は止まらなかった。
〈孟春〉は元の青年の姿に戻っていた。全身から大粒の汗をかいて肩で息をしている。
「ほら、まだまだ〈桜姫〉の傍にいられるように助けてやったぞ。」
「…ありがとう、ございます。」
言葉とは裏腹に、その目は憎々し気に〈皇〉に睨んでいる。
「フン。まぁいいだろう。まだ死んでもらっちゃつまらないからな。しかし今回の〈桜姫〉、化けたかもしれんぞ。」
嬉々として話す〈皇〉の声が響いた。
「〈桜姫〉の〈神器〉は言うならば『催眠』だ。他人を操れる。だが今回、私でさえ〈和合の一族〉を目の前にしても、力を使われていたのかどうかわからなかった。これまでの〈桜姫〉は孤独で、他人に寄り添うことをしなかった。何があったか知らないが、他人の心を慮ることを覚えてしまったらしい。一番恐ろしいのは、操られているのかそうでないのか、わからないことではないと思わんか?『言葉』を選べるようになったら恐ろしいぞ。自然と、それが自分の意思かのように誘導されれば、瀕死の戦士だって立ち上がるかもしれない。不死の集団ができるかも———」
「〈桜姫〉は…そんなことしない…」
横槍を入れられ、〈皇〉つまらなさそうに肩をすくめた。
「あそうだ。もう会ってるんだったか。『見る』ことしかできなくなったお前の代わりに『聴いて』もらう、八だ。」
言葉は交わさなかった。
八と呼ばれる子の今の姿は大人しそうな女性だった。身長も年も性別も違うが、自分と同じ真っ白な髪だけが、以前と変わらなかった。
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