10. 真相

 吉野晩は、どうしてこんなことに、と思う。


〈桜貴〉として育てられ、統治する立場にふさわしい教育を受けて。〈桜貴〉を引き継ぐその時まで、自分は立派な州の主になると疑わなかった。

 今でさえ。こうして自分の娘に断罪されている今でさえ、自分が特別な〈桜貴〉で、正しいことをしてきたと疑わない。

 それが吉野晩という〈桜貴〉として育てられ、〈桜貴〉として生きてきた男の本心だった。

 この国を統べる〈五光〉の一人、その座を継ぐその時に、父は心底疲れ果てた様子で吉野晩に言った。

「お前は、正当な〈五光〉ではない。」

 いつの代に、何があったのかわからない。ただ〈桜姫〉は失踪し、傍家が代理の〈桜貴〉を務めているということだった。いくら時が経つに連れて血は薄まるといっても、なんの〈神器〉の力も感じたことがなかったことが腑に落ちた。

 失望、虚無感、そういった感情はなかった。状況を理解していなかったわけではない。ただ、自分が特別であるという自信が揺らぐことはなかった。バレてはいけない、自分の地位を守らねばという、新たな強い使命感を持った。

 驚いたことにその時、傍家は『本物の桜姫』の居場所を把握していた。

 〈桜姫〉は美しかった。傍においてもいいと思った。

 そしてすぐに思い至った。本物の〈桜姫〉を妻に迎え、本物の〈桜姫〉である娘がいれば、自分も本物で居続けられるではないかと。〈桜貴〉を降りる、返すという考えは微塵も浮かばなかった。

 〈桜姫〉は身よりはなく、お世話になっている老夫婦の身の安全を保障して迎え入れるのは簡単だった。

 吉野晩は、妻に多くの愛を注いだつもりだった。

 何不自由なく暮らせる衣食住を与えてやったし、その分妻としての役割を果たすのは当然だと思っていた。そして無事、計画通りというべきか、娘を身籠った。

 全ては順調で、なんの問題もなかった。

 そんなある日。

 妻の〈神器〉としての力が暴走した。何もわからない妻はひどく動揺した。

 吉野晩は妻に、妻「も」〈桜姫〉である「かもしれない」と話した。それに何の問題があるだろう。より一層、この場に縛られてくれるのではないかという浅ましい気持ちしかなかった。

 ただ結論からいうと、これは最悪の手だった。

 妻は聡明だった。

 さすがに吉野晩が〈神器〉ではないとまでは至らなかっただろうが、自分が利用されたことを悟った。

 再び〈桜姫〉は失踪した。娘を身籠ったまま。

 しかし、吉野晩にはわからなかった。

 そこまでして逃げなければならない理由があったか?なにが不満だった?〈桜姫〉であると、先に言わなかっただけで全てを捨てるか?

 行方をくらました〈桜姫〉を見つけるには時間がかかった。

 すぐに人を送り、梅木代の当主にはこちらの正体を明かさないまま大金を払った。今は愛人とその子供が、妻と娘の位置にいる。突然、大きくなった子供が二人できたら、何があったのかと怪しまれる。

 〈桜貴〉は少量ずつ、娘に毒を持った。

 頃合いを見て『入れ替えよう』としたのだ。

 そしてもう少しでその『入れ替え』は完遂するところだった。成人の前に〈桜姫〉を迎え入れられれば、民衆への公表も〈皇〉への挨拶も全て間に合うと。

 しかし、梅木代の当主は引き渡しを拒否した。

「私の子です。お金で買えるとでも?これまで散々放置しておいて。」

 そう言ったらしい。

 お金を払っているのに、放置しておいてとはなんて言い草だと思った。しかし、とにかく穏便に済ませたいがために何度も大金を持った使者を送ったが、ことはうまく運ばなかった。そしてある時、使者の報告で梅木代は「娘を利用されるのがわかっていて渡す母親はいない」と言ったらしい。

 自分の元から逃げた〈桜姫〉のことを言っているのかと思った。そして子が〈桜姫〉であること以上に、自分が偽物の〈桜貴〉であることを聞いているかもしれないという思考で脳が埋め尽くされた。

 そこからは速かった。

 知っている者は殺すしかない。娘を育ててくれた恩は返せないが仕方がない。

 すぐ迎えをやったが、紅華は梅ノ香領に居なかった。すぐに『神降祭祀』の準備でもちきりになり、一旦後回しにしていた。


 その娘が、目の前に立っている。

「前〈桜姫〉の死は事故だった。仕方がなかった。妻でありながら私のサポートを放棄し、お前を腹に宿したまま逃げ出した。親も世話してやったし、本人にも贅沢させてやったし、愛情もそれなりに注いでやった。なのに利用されたと知った途端逃げ出した!利用されたとしても有り余る恩が私にあるにも関わらず!梅木代にはどれだけの援助をしたと思ってる!お前、存分に外で遊び呆けていたそうだが、誰のおかげだ?私が金銭的援助をしていたからだろう!それがどうだ、成人を目の前にして、自分の子を迎える準備ができたとたん拒否だ。自分の子だぞ?親の元へ連れ戻そうとして何が悪いんだ!」

「…勘違いも甚だしいな。」

「親に向かってなんだその口の聞き方は!?口を慎め!!」

 聞いていた誰もが、説明しがたい不快感を感じた。

 紅華は、自分の旅費は自分で稼いでいたからお門違いだ。正当な梅ノ香領に対する援助は一度も行わなかったくせに。そして〈鶯目〉へ渡していたという金銭的な援助がきちんとした額であれば、梅ノ香領が荒廃したままであるはずがない。

 この〈桜貴〉が「自分のおかげ」と思い込んでいる見当違いな事柄が多々あるのだろうということは、その場にいる誰でも安易に想像できた。

 事実、前〈桜姫〉は親を人質に取られて無理やり妻にさせられたのと同義だった。しかし本人は、無理やりではない同意のあるものだったと主張するのだろう。

「紅華様、こちらに。」

「口を挟むな!!」

 〈桜貴〉を無視して、紅華は〈皇〉の方へと招かれた。

 紅華はゆっくりと歩みを進めた。〈桜貴〉の目の前を通る。

「紅華!」

 〈桜貴〉が伸ばした手を、〈皇〉の警護の者が阻んだ。

「自分の娘だぞ!?おい紅華、父親とどちらを優先すべきか考えろ!」

 騒ぐ〈桜貴〉を横目に、代弁者は紅華の手をとった。

「少し痛みます、失礼。」

 指先に小さな針を刺された。

「手を。」

 指示されるがままに、簾の下から中へ手を入れる。

 人の手が触れるのがわかった。

「うん、懐かしいな。」

 幼さが残る、美しい声だった。

 代弁者が皆に向き直って声を張った。

「〈皇〉が、この方を〈桜姫〉と認められました。おかえりなさいませ、〈桜姫〉。」

 今この瞬間から、紅華は紅華ではなくなり、〈桜姫〉になった。

 

「まだ私が〈桜貴〉だろう!今すぐ娘に継がせる気はない!紅華!早く私の元へ来なさい。」

「〈皇〉は本来、俗世の事柄には関与はしませんが、〈神器〉殺しとなれば話は別です。〈神器〉に手を出すのは、神の所有物に無断で触れているのと同義です。よって〈桜貴〉を返上し、改め吉野晩。あなたは〈地獄送り〉です。」

 鏡面の床に、重厚な門が現れた。

 突然だった。

 皆恐怖で数歩下がった。

 隙間から黒い煙のようなものが溢れ出している。

 〈桜貴〉———吉野晩は、尻餅をついて後ずさりながら〈皇〉の目前で、紅華の足にしがみついた。

「紅華。もう唯一の、家族だろう。私は大事な娘のために動いただけだ。」

「この話に意味があるとは思えないが…」

 紅華の調子は、やはりいつもと変わらない。

「私は血がつながっているだけの人を『家族』だとは思わない。」

「っ!恩を仇で返すのか!」

「あなたが恩とか、愛情とか言うものは、私は感じたことがない。なにより、動機は関係ない。罪を犯したなら相応の罰を受けるべきだ。」

「くっ…………っそ、この薄情な冷たい女!!!!!その目は母親そっくりだな!人の愛のありがたみがわからないんだ、お前たちは!!私がいなくなったら誰が味方してくれると思う!!!〈桜貴〉の重圧も知らないで!!!」

 両脇を抱えられて、喚き散らしながら吉野晩は引きずられて行った。

 吉野晩の肩から、紺色と赤の羽織が落ちた。

 門が少し開いている。

 中は暗くて、何も見えない。

 放り投げられた空中でも、この世を呪う言葉を吐いていたと思う。

 そのまま吉野晩は落ちた、〈地獄〉へ。


 目的は達成された。

 紅華は羽織を拾い、自分の肩にかけると〈桜姫〉の場所に座った。

 〈桜貴〉は失墜し、罰せられた。その罰も、最も望んだ罰であるように思う。

 しかし、一行は困惑が強かった。

 代弁者は語る。

「先ほど、〈桜姫〉が言ったことは正しい。動機がなんであれ、本来『神降祭祀』このような乱暴をされた〈和合の一族〉には処罰が下されるところですが。」

「〈和合の一族〉は、私に協力してくれたに過ぎません。本物の〈桜姫〉が戻ることに。」

「…そのようですね。不問にいたします。では、退場を。」

 〈和合の一族〉は動けなかった。

 緋司は必死に考える。

「紅華。」

 なんと声がかけられるだろうか。〈桜姫〉になってしまった紅華に向かって。〈桜姫〉になったら、もう会えないじゃないか。梅ノ香領に戻れないじゃないか。

 必死に考えを巡らせても、何も解決策が出てこない。全て遅すぎた。

「紅華、兄さんが待ってる。」

 緋司の声は震えた。

「みんなも、紅華を待ってる。」

 なんとか、なんとか引き留める方法はないか?だってまだ、

「紅華、まだ、行きたいところがあるって。」

 紅華は緋司を抱きしめた。力強く。

 震えているのはどちらだ?

「これまでありがとう。…元気で。」



———赫州梅ノ香領。


「緋司!」

 長束と、皆が一行に駆け寄った。

 口々に「無事に帰ってきてよかった」と労いながらも、誰も「紅華は?」とは聞かなかった。

 みんな、知っていたのだろうか。

 結局、紅華が〈桜姫〉でなければ、皆捕えられていただろう。紅華は今の〈桜貴〉を失墜させるため、そして皆を無事に返すために、自由を捨てて〈桜姫〉になることを決めたのだ。いつから?

「おかえり、緋司。」

 優しい長束の声に、涙が溢れた。

「紅華、連れて帰ってこれなかった…」

「…一度決めたら、譲らない奴だ。」

 長束は緋司の肩を抱いた。

 二人で散り切る直前の梅並木を遠目で見ながら、緋司は長束に聞いた。

「ねぇ、兄さん。紅華は使っていたと思う?」

 〈五光〉である〈桜姫〉の力を。

 〈神器〉の力を。

 『催眠』の力を。

 どこまでが自分の意思で、どこまでが紅華の「指令」だったのか。

 長束は遠くを見て懐かしむように言った。

「さぁ、わからなかったな。」

 混乱の根源を生み出した〈桜貴〉の処遇を聞いて、〈和合の一族〉は落ち着きを取り戻した。

 それも、紅華は予想していたのだろうか。

 『自由』を手放して〈和合の一族〉を救った紅華のために、〈和合の一族〉は今日も赫州を守る。

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