6. 弥生邸にて

 『処刑は本日正午に執行』


 皆が呆然とする中、紅華はすぐさま伝令の者に歩み寄った。

「決定事項ですか?」

「はい。」

「なにが罪に問われているのですか?もう取り調べが終わったのですか?なぜ裁判が行われないのですか。手順がおかしいでしょう。いつ決まったのですか?」

「えっと、詳細は分かりかねます。私にはつい先ほど、皆様にお伝えせよと指示が。」

「あなた、昨日梅木代旭を迎えに来て、そのままこちらの近くに滞在していたのですか。」

「は、はい。そういう指示でしたので…」

「…やられた!!!」

 伝令も皆もビクッと肩を振るわせた。

「最初から処刑は決まってた!交渉の余地なんてない、母さんが!!緋司!!!」

 緋司は反射的に指笛を鳴らした。

「しょ、処刑って…?」

「どういうこと?どうしたら、」

「でも〈鶯目〉は待てって…」

 紅華は走り、部屋から銃と弾薬を持って家を飛び出した。緋司は必死にその背中を追いかける。

 紅華は近づく〈ビャオルフ〉に力尽くで飛び乗った。

 〈ビャオルフ〉は盛大に暴れた。紅華を振り落とそうと身を震わせ跳躍する。

 紅華は落とされないよう背中にしがみつき、〈ビャオルフ〉の耳元に口を寄せた。


 母さんに会いたい

 お前もそうだろう


 〈ビャオルフ〉の耳が後ろにペタンと伏せるが、紅華は語り続ける。


 わかるだろ あの優しい人のことを。

 傍にいて居心地がいいのは誰だ

 お前のことを一番わかってくれる人間は誰だ

 このままではもう 会えなくなるかもしれない


 紅華の語り掛けで、徐々に〈ビャオルフ〉の抵抗が弱まっていく。緋司はこの光景がいつも不思議で仕方ない。〈ビャオルフ〉は人間の言葉を理解できるのか?しかし、言葉で〈ビャオルフ〉を従えられるなら、〈和合の一族〉でなくとも可能ということになるが、そんな例を聞いたことがない。

 人間には及ばない力だかっら〈神器〉なのだ。


 お前は風だ

 誰よりも速い

 疲れなんて感じない

 お前なら間に合う

 処刑までに 弥生邸へ行くんだ

 母さんを連れ戻せ


 〈ビャオルフ〉は走り出した。後を緋司が必死に追いかける。それを止める余裕のあるものは誰もいなかった。

 紅華の〈ビャオルフ〉が異常な速さを維持した。緋司は姿を見失わないように追いかけるので必死だった。途中、緋司の〈ビャオルフ〉の足が止まりかけたが、紅華の呼びかけで再び動き出した。

 その間、緋司は余裕のない頭で必死に考えた。

 母が処刑?どうして?結局罪が問われているのは、〈魔術師〉への遺体の譲渡だったのか?わからない、しかし、処刑だなんて…

 トップスピードで五時間、弥生邸のある中央領に向かって走り続けた。通常なら途中で一、二泊して辿る道のりだ。日の出は六時代、正直、間に合わなくてもおかしくなかった。

 だが、時間にはギリギリ間に合った。

 午前十一時三十分。

 既に日は高い。遠くに弥生邸が見えた。そこはすでに、赫州の中央領に入っている。

 緋司にとっては、初めての梅ノ香領の外だった。改めて周囲を見回し、整えられた道路や美しい建物に目を奪われた。整然と、所狭しと居住地や店が並んでおり、自然あふれる梅ノ香領との違いに委縮した。〈ビャオルフ〉も自分も、世界から浮いているように感じる。事実、かなり目立っているのだろう。梅ノ香領では感じたことがない、視線を感じた。

 二人は裏道へ入った。

 紅華はすでに、正面からご丁寧にお邪魔する気はなかった。細かな手続きや確認やら余計な事で待たされ、時間切れになるのが目に見えている。今回の件、向こうも最初から、まともに相手にする気などなかったのだから。

 とにかく時間がない。母の身を守ることが最優先だ。

 弥生邸は大きかった。ぐるりと塀で囲われて中は見えないが、紅華は昨夜の時点で侵入場所を決めていた。

 遠回りをして弥生邸の西側にまわると、薄暗く細い裏路地で一呼吸置いた。〈ビャオルフ〉達は限界だった。時折白目を剥いているし、大きく開いた口からは涎が垂れ、過呼吸のように激しく息をついている。

「もうちょっと頼む。あそこまで行って、私たちが降りたら隠れて休んでろ。」

 言うや否や、駆け出す。

 西側の塀に垂直に走り込み、直前で〈ビャオルフ〉は止まった。紅華は背の上に塀を背にして立ち、塀の縁を掴むと逆上がりするように回転して塀の上に這いつくばった。わずかに遅れてきた緋司の腕を掴み、一気に引き上げる。

 身軽になった〈ビャオルフ〉達は言いつけ通り、しかし紅華たちから逃げるかのように立ち去った。

 塀に登った紅華と緋司はすぐさま弥生邸の敷地内に飛び降りた。紅華がこの場所を選んだのは、塀のすぐ近くに建物があり身を隠しやすいからだ。

 弥生邸の中にも外にも監視は居たが、まさか弥生邸に侵入する者がいると思っていないような緊張感の無さだった。現〈桜貴〉の兵は全体的にたるんでいた。

 しかしその中でも、紅華たちの動きに気付いている人物はいた。旭の処刑を告げに来た伝令は、またも指示通りに「二人が梅ノ香領から飛び出した」ことを報告済みだった。うち一人は、髪の色素が薄い女であることも。

 紅華と緋司は窓から建物に入ると、身を隠しながら刑場に向かった。緋司は人の声が聞こえるたびに、心臓が止まる心地だった。

 紅華はとにかく焦っていた。しかしここで見つかっては元も子もない。銃弾は逃走用に残しておきたかった。それに、弥生邸の大まかな構造は頭に入っているが、内部の詳細まではわからなかった。故にここまで計画的な経路で接近してきたが、最後の最後はただ見つからないように慎重に刑場に向かうしかなかった。

 きちんとした警備がなされていたならあり得ない侵入を成功させ、紅華と緋司は低姿勢で静かに刑場に入った。コンクリートの床にはうっすら砂が積もっている。刑場は中心にいくほど高くなっており、何列も椅子が設置されていてここからでは中央が見えなかった。這いつくばって階段を上り、設置された椅子の間をすり抜け、最前列まで出た。

 三階まで吹き抜けの空間の中心に、中ニ階ほどの高さの壇が設置されている。そこは想定以上に広大な空間であり、中央の壇まで三十メートル以上ありそうだ。

 そしてまさに、全方位から見下ろされるその壇に母が上がっているところだった。

 紅華は駆け出そうとした。

 迷いなどなかった。一刻も早くここから母を逃すことだけを考えていた。

 低姿勢からすでに片足は地面を離れ、体を起こしながら両手は腰に携えた銃にかかっている。

 わずかに遅れて緋司も続こうとした、その時。

 二人の肩が力強く前へ押さえつけられ、大きく転倒した。地面に組み伏せられ、紅華はすぐさま背後に向かって銃を持ち上げるが、その手もすぐに押さえつけられ、銃は弾き飛ばされた。

 そして口に布を噛まされ、喋ることができなくなった。

 緋司と紅華の上に、それぞれ二人の男が乗り掛かっていた。胸元には桜の紋———〈桜貴〉の兵だ。

 ここにきて、捕まった。うつぶせの状態で見上げると、壇上では母が両膝をついて座っている。その横顔は、上方を見つめていた。

「罪状———」

 誰かが母の罪状を読み上げている。相変わらず内容がない。

「(母さん)!!!!」

 声はくぐもって通らない。母にまで、届かない。

「大人しく、静かにしてくれ。逃しに来たんだ。」

 一瞬、紅華は動きを止めたが、さらに抵抗を強めた。押さえつける男の体がわずかに持ち上がる。

 何があっても今、動かなければならなかった。

 『逃がしに来た』というその言葉で、今回の件で〈桜貴〉が一枚岩でないこと、そしてなにか裏の意図があることを確信した。しかしそれがどういう意味を持つか考える余裕はない。

(一旦、母さんの周囲にいる人間を撃つ。そしたら次は、周りにいるやつを撃つ。あとは母さんを抱えて、来た道を戻るだけ。それだけなんだ。引き金を数回引くだけ。)

 母を助ける。

 抵抗する紅華の背中にもう一人分の重みがのしかかった。

「静かに。」

 耳元で囁かれる。紅華から姿は見えないが、線の細そうな男の声だ。

「罪のない人間を殺せるのか。」

「!?」

 紅華は、人を殺したことはない。

 銃は本来、人に向けるために準備したものではない。

 そういったことを頭にとどめておくことができないほど、紅華はただ今の目的だけに必死だった。『自分が』どうにかしなければと。『自分に』何ができるか思考するのにいっぱいいっぱいだった。

 もう言葉にはならない。静かにと言われずとも、ここまで塞がれてはあそこまで届く声を発することもできない。

 それでも、抵抗することをやめられるはずがなかった。ただ一心に、上に乗った男三人を振り払い、手の近くに落ちたはずの銃を取ろうともがく。


 トォーン、トォーン———


「今からでも、言いたいことはないか。」

 二回鳴り響いた木槌の音に続き、かすかに男の声が聞こえた。押さえつけられた頭を必死に持ち上げて視線を上げると、上階席に数人の影が見えた。

 真ん中の男。左右前後を複数人に囲まれて座る、明らかに厳重に守られている人間。その男が続けて口を開く。

「このようなことになって、残念に思う。」

 旭は、鼻で笑った。

「私たちは、間違ってなかった。」

 男の反応はわからなかったが、ゆっくりと片手を上げた。

 それと同時に、母の隣にいた男が両手を振り上げた。手には長い刀が握られている。今の時代に斬首刑?母は俯いた。

 やはり男三人に抑えられた体は動かず。

 塞がれたた口からは声も出せず。

 振り上げられた刀が、今度は真っ直ぐに下ろされる。

 紅華は全力で体に絡みつく腕を引き剥がし、地面に爪を立てて前へ、前へともがいた。押さえつけられて膝を立てることができずとも、必死に地面を蹴ろうともがく。しかしもがけばもがくほど、抑える力は強くなる。もう一人分の重みも加わり、四肢を抑えられ何もできない。

 こんなに近くにいるのに、何もできない。


 動け少しでも。

 その手を止めろ。

 母さんに触れるな。

 母さん。母さん、避けて。

 逃げて。動いて。

 お願い、やめて。

 母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さん母さんお母さん———


 旭の頭が落ちた。続けて胴体が溶けるように崩れた。すべてがゆっくり見えた。


 母さん。


 なお、淡々と刑は進む。

 死亡確認が終わり、誰が聞いているのかもわからない終了の宣言があり、新たな人間が壇上に上がり片付けを始める。壇上から白い布に包まれた塊が運び降ろされる。

 呆然と見つめる中、気がつけば人がいなくなっていた。上階の男もいない。


 ふと、数日前に話した時の、優しい旭の笑顔が浮かんだ。ゆっくりと思い出に浸る気分で、先ほどの光景がチラついた。ゆっくり離れる頭と胴。その光景と、母の笑顔が一致しない。

 グルグルと混乱した。

 ふと思考が真っ白になった。

 その中に、

 重たい

 不愉快で

 濁った

 吐き気がするような黒い、何とも説明し難い感情が流れ込んできた。

 思考が追いつかないことを客観的に感じながら、紅華は大切なものを奪われたことを悟った。

 紅華は塞がれた喉の奥で、誰にも届かない絶叫をあげた。



 刑が執行され、散々暴れた紅華は数秒固まった後、おかしな音を残して完全に脱力した。

 男が退けるよう指示をすると、複数人の大人の下で、紅華は白目を剥いて気を失っていた。

 緋司はと言うと、取り押さえられた時点から放心状態だった。自分も殺されると思った。母の最後のその瞬間まで抵抗する紅華を、見ていることしかできなかった。

 自分を押さえていた一人は、最後は紅華を押さえに行った。自分を止めていたのは一人だった。あの時動けていれば、振り払い目の前の銃をとって、母を助けられたのだろうか。

「君は立てるか。」

 一人が手を伸ばしてくるが、その手は取らずにゆっくりと体を起こす。

「家まで帰る足はあるか。」

 緋司は小さく頷いた。緋司は男に背中を支えられながら、紅華は別の男に担がれてその場を後にした。

 外に向かう途中、集団と鉢合わせしそうになった。周りの男たちが緊張しているのがわかる。紅華を抑えていた、一人だけ服装の異なる男が前に出た。後ろ手で「行け」と指示を出し、鉢合わせしそうになった集団に声をかけて足止めしている間に外へ出た。

 中央領の端まで来た。

 緋司の目から涙が止まらなかった。体力的にも精神的にも、倒れる寸前だった。

 それでも、紅華を連れて帰らなければならないと強く思った。紅華まで失えば———それ以上のことなんて、考えることもできなかった。

 男たちは姉を背負って自身の体を引きずりながら立ち去る姿を見送った。足早に戻ろうとしたが、物陰から見守る上司に気付いて駆け寄った。

「雉波様。あの子達、大丈夫でしょうか…」

「〈ビャオルフ〉も来ているはずだ。」

「あの娘の方、なんというか、迫力のある子ですね。」

「あぁ。」

 彼がここまでして、あの二人を止めたかった理由がわからない。

 彼らの行いは当然だと思う。事実、ここまで強行された処刑など聞いたことがない。自分の母親がその犠牲になったら、同じことをするかもしれないと思った。それでも〈桜貴〉を恐れずに弥生邸に侵入できたかは怪しく、それを実行してのけた二人には賞賛を送りたいくらいだ。

 それに正直、今の腐敗した行政が続くくらいなら、〈桜貴〉が今日殺された方が良かったのではと思わなくもない。その先を考えているわけではないので、上司である雉波に「必ず止めろ」と言われれば従うしかないのだが。しかし雉波もまた、今の〈桜貴〉のやり方には不満を持っていたはずだ。

 今日あの二人を止めたことには何か意味がある、でもその理由は、聞いても答えてくれないのだろう。

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