第七話
「雨海先輩、昨日なにかあったんですか?」
そんなふうに声を掛けられたのは、朝のメールチェックがひと段落した頃だった。
画面から顔を上げると、青山あたりの大学に通っていそうなロングヘアの女性が立っている。
後輩の桃野ちゃんだ。今年の四月に入社してきたばかりの新人である。
こっそり、耳打ちするように言う。
「朝から、なんだか心ここにあらずって感じですけど」
ぎくっ。
「そ、そうかな? 気のせいだと思うけど」
「まさか、先輩──」
はっとしたように桃野ちゃんが口元に手を当てた。
「だ、だめです先輩! いくらなんでもそんなの早過ぎます!」
「えっ」
「いやです先輩、寿退社なんてしないでください! そんなの寂しいです! 先輩がいなくなってしまったら、私は誰に仕事を教わればいいんですかっ」
「違うよ!」
思わず叫んだ。何の話なんだ。
「誤解だってば。仕事辞めるつもりなんて全然ないから」
「えっ」
桃野ちゃんが目を丸くした。
「じゃあ共働きですか? うちの勤怠でそれって結構大変だと思いますけど、お相手の方はきちんと家事してくれそうなタイプなんでしょうか」
「だから違う! ほんと、そういうのじゃないから」
「そうなんですか? すみません、てっきり素敵なご縁があったのかと」
「ご縁って」
何故か脳裏にあの子の顔が浮かんでくる。
篠森いばら。
目の下にクマを浮かせた、やたら顔が良いゆるふわ系女子高生。
……いやいやいや。
せめてそこはアキさんでしょうよ、私の脳内。同性云々を抜きにしても、いばらはおかしいでしょ。女子高生だよ。
「ないないない、全然ない。相変わらず独り身のままだよ」
「先輩なら、お相手くらいすぐ見つかりそうですけど……まあ、うち今忙しいですもんね」
「そうそう。そんな余裕ないって」
「私も仕事と推し活で手一杯で、彼氏とか作る時間とか全然ないです」
そういえば桃野ちゃんは、とある女性アイドルユニットのファンらしい。
その推しっぷりは筋金入りで、「その日はライブ(または配信)があるので」のひと言ですっぱりフられた男性社員の死屍累々は数え切れないと聞く。
「なんてアイドルグループだっけ」
「『シャルル』ですよ。あ、そうだ先輩聞いてください。実はすごくショックなことがあって、気づいたら五時間くらい号泣──」
「はいはい、今度聞くから。お仕事しよ、ね?」
推しの話になると桃野ちゃんは止まらない。
周りの目もあるし、雑談ばかりしていてはまた残業になってしまう。
物言いたげな桃野ちゃんを振り払って、私は作業を再開した。
†
そんな感じで、がりがりと仕事を進めていたわけだけど。
快晴気分は長くは続かなかった。午後一番に、再び新堂さんが私の席にやってきたのだ。
うぐわぁ。また追加のアサインだろうか。
思わず鼻白む私に、「いやいや」と新堂さんが手を左右に振る。
「そう身構えないでよ。アサイン……ではあるんだけど、山内さんのサブ担当としてだから」
「山内さんのですか⁉︎」
と、思わず食いついてしまったのは、山内さんが我が社のエースデザイナーだからである。
大ヒット商品のパッケージデザインを幾つも担当。斬新かつ堅実な仕事ぶりで社内外の評価も高い、偉大な先輩だ。
「そうそう。メジャーどころからまとめて注文があって、メインは彼女にお願いするんだけど、一人じゃ回らなそうだから。ベテランの仕事ぶりを間近で見るのも勉強になるしね」
確かに、彼女のサブに付けば勉強になることは多いはずだ。尊敬している先輩の仕事を拝見するチャンスでもある。
とはいえ、今抱えている作業に更に追加の打ち合わせや案出し、雑務が入ってくるわけで。
とはいえ、断る選択肢はない。
「わかりました。ぜひ、宜しくお願いしたいです」
「おっけー。じゃあ山内くんに伝えとくから。とりあえず、近々で先方と顔合わせがあると思うから、そこから入ってく感じで宜しくね」
「はい!」
「頑張って。期待してるよ」
新堂さんが自席に戻る。
期待。今の新堂さんの言葉が、嘘か本当かはわからない。部下のモチベを管理するのための、お義理の一言かもしれない。
まあでも結局、私は根が単純なんだろう。
「……がんばるかー」
椅子に座り直して、身体を伸ばしてストレッチする。
バギィ、と腕が鳴った。ちょっと鳴りすぎな感じだった。
さて。ここからタスクが追加されるなら、抱えている作業は前倒しで行かないと。
†
ま、気合いを入れたからといっていきなり手が速くなるわけでもなく。
結局、その日の仕事も残業だった。
オフィスを出たのが二十時手前。そこから電車に揺られること三十分。
駅を出ると、暗い空に綺麗な満月が浮いていた。
「んー、今日もお疲れ様だぜ、私……」
首を回すと、ポキポキと不穏な音がした。
音の大きさに自分でびひる。
腕といい首といい……大分キテるな……。
アロママッサージとか行ったほうがいいんだろうか。
でもこの辺のお店は予約が中々取れないし、お値段も結構する。社会人三年目の若造には、少しばかりハードルが高い。
どうしたものかと思いつつ、コンビニでサンドイッチとお茶を買う。
大学時代に身につけたから、料理はそれなりにできるほうだ。とはいえ、この時間から材料を切ってお米を炊いて料理してご飯食べて洗い物して……と、考えるだけで気が狂いそうになる。無理無理。コンビニ万歳。
冴えた空気を肺に吸い込んで、夜道を歩く。
いつもどおりの帰り道。
だけど、途中で足が止まった。
駅から徒歩二分。
駅前と住宅街の境目に、青い屋根の洒落た一軒家がある。
正面には、大きな窓と木製のドアが一つずつ。
ドアノブには、「Open」と書かれた小さな木札がぶら下がっている。
店名はどこにも書かれていない。よくある黒板の立て看板もない。一見すると、ただの戸建て住宅にしか見えない。
でも、ここは喫茶店だ。私はそれを知っている。
喫茶、セレーノ。
明け方聞いた、高く澄んだ声が残響する。
──また来てくれたら、嬉しい。すっごく、嬉しい。
正面の窓からは、オレンジの光が漏れていた。
本当に、いばらは今日もここにいるのだろうか。
私を待っているのだろうか。
「いやいやいや」
ごつん、と私は手近な街路樹に頭をぶつけた。ちょう痛い。
落ち着け、私。冷静になろう。
思い返せば、昨日の私は正気じゃなかった。
見ず知らずの女子高生に声を掛けられて、ほいほい着いていった挙句、喫茶店のソファで添い寝アンド爆睡。
ありえない。
警戒心がなさすぎる。
そもそも、本当にいばらが待ってるかどうかもあやしい。もしかしたら、あれは店に来てもらうための口実──手の込んだ宣伝みたいなものかも。まだしもそのほうが現実的な気がする。
だから、ここはスルーが正解だ。家に帰ってしょっぱいハムカツサンドとぬるいルイボスティーを飲んで寝る。それが正しい。
でも──もし。
もし仮に、万が一、本当にいばらが私を待っていたら?
この喫茶店の中で、じっと風鈴が鳴るのを待っていたら?
私は──
…………。
……ん??
「あれ、そういえば私、もしかしてコーヒー代払ってない……?」
そうだ。払った記憶がない。
何しろ会計前に寝てしまって、起きたら朝だったから。
ていうか朝食に食材も使ってしまったし、そもそも店内で寝てしまった。
これ、私、食い逃げ犯になってないか?
もしかしたらいばらが払ってくれたのかもしれないけど。だとしても、店の設備を使って一泊して、朝食の食材まで使ってしまったわけで。
いくらいばらがいいと言っていたからって、保護者で店主のアキさんにひと言あるべきでは?
それが社会人としての、最低限のマナーというやつでは……?
「んんんん……!」
違くて。
これは別に、あの女子高生とはなんの関係もなくて。
あの顔に絆されたから、とかでは全然なくて。
善良な一市民として、食い逃げ犯になるわけにはいかないというだけの話で……!
苦悩の果てに、私はドアノブを引いた。
チリリン。
風鈴の音が鳴る。
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