第六話

 瞼の裏から差し込む光に、意識が浮上する。

 ……今、何時だろう?

 オレンジ色の間接照明が消えた店内は、夜とはまるで有様を変えていた。魔法が解けたみたいに。

 止まったシーリングファンを見上げながら、冴えざえとした冷たい空気を吸い込む。いつの間にか雨音は止んでいて、窓の外からは鳥の鳴く声がした。

 久々の熟睡感。爽やかな目覚めだ。

 窓からは白い朝日が差し込んでいて──朝日?

 日が射しているということは、もう朝で……朝だ。

 一気に目が覚めた。


「嘘でしょ⁉︎」


 引ったくるようにハンドバックからスマホを取り出して、現在時刻を確かめる。十月十六日、火曜。五時三十六分。

「遅刻」の二文字が頭をよぎり──そうだ、ウチはフレックス制だったと胸を撫で下ろす。

 ええと、今から帰宅してメイク落としてシャワー浴びてメイク直して朝ごはん食べて身支度してよし大丈夫。コアタイムまでには多分間に合う。


「はーっ……」


 安堵のため息を吐き出して、ようやく私は気がついた。

 あの子がいない。二人で寄り添うように寝ていた筈なのに。


「いばら……?」


 アキさんは二人でここに住んでいると言っていた。居住スペースに移動したんだろうか。

 それともやっぱり詐欺とか。ハンドバックは無事みたいだけど。

 少しだけ声を張る。

 

「いばら、どこ。いないの?」


「いるよ?」


「わぁっ」


 にょきっ、といばらが生えてきた。

 カウンターの奥、キッチンの辺りから。


「おはよ、お姉さん」


 一体いつから起きていたのか、彼女はもう室内着に着替えていた。ピンク色をしたもこもこのやつだ。下半身はショートパンツの丈で、この季節に寒くないのかな? 勝手と心配になってしまう。


「お姉さんはちゃんと寝られた?」


「……一応ね」


「そっかそっか、よかったよかった」


 ひひ、と歯を見せて笑う。

 うーん。

 メイクを落としているはずなのに、驚くほど顔が良い。朝日を浴びて、肌も髪もきらっきらしてる。

 年下の同性なのに、つい見惚れてしまいそうだ。

 一方で、平然と部屋着姿を晒す無防備さにぎくりとした。なにしろこの店の窓にはカーテンがない。早朝とはいえ、覗かれないか気が気じゃない。

 そんなこちらの気も知らないで、いばらはぐーっと腕を伸ばしてストレッチなんかしながら言う。


「ちょっと早いけど、朝ごはん食べる? 冷凍してあるパンとか、好きに食べていいって言われてるから」


 ああ、それでキッチンコーナーにいたのか。

 獲物を物色していたというわけだ。

 

「いばらって、意外と料理できるの?」


「意外とって何? トースターでパン焼くのとか、割と得意だよ」


 予想どおりじゃないか。


「……わかった。ちょっと見せて」


 起き上がって、カウンターの裏に入る。

 へえ、と思った。喫茶店のカウンターの中って、こんな感じなんだ。

 広いシンクにふた口コンロ。銀色の業務用冷蔵庫とバリスタマシン。ビーカーと丸型フラスコを組み合わせたようなコーヒーサイフォンに、無数のコーヒーカップとグラス。

 舞台裏を見ているようで、ちょっと楽しい。


「マスター……アキさんは?」


「まだ寝てる。あの人、典型的な夜型人間だから。まあ、じゃないと夜営業の喫茶店なんてやってらんないよね」


「確かに……」


 そりゃそうか。

 それにしても、本当に勝手に使っていいのかな。

 ……うーん。まあ、ここはいばらを信じることにしましょう。

 冷蔵庫を開けると、サニーレタスが冷えていた。それから、タッパーに入ったハム。卵。スライスチーズ。玉ねぎ。ケチャップにマヨネーズ。粒マスタード。


「いばら、パン焼いてくれる? 二枚」


「任されました」


 シンクの脇に、使い捨て手袋の箱があった。両手に嵌めて、鮮やかな緑の葉を二枚ほど毟らせていただく。

 フライパンに油を垂らして、卵を落とした。頃合いでひっくり返して、しっかり両面を焼く。空いたスペースで、ハムも焼いてしまう。

 並行して、スライスした玉ねぎをバターで軽く炒める。お湯を注いで、固形ブイヨンを指で砕きながら入れていく。


「お姉さん、パン焼けた」


「ありがと」


 焼けたパンに、マヨネーズとケチャップ、粒マスタードを少しずつ塗り付けて、水切りしたレタスを載せる。目玉焼きとハム、チーズを載せて、もう一枚のパンで挟み込む。

 簡易版クラブハウスサンドと、オニオンスープ。


「……できたけど」


 食器に盛り付けてカウンターに載せると、いばらの目が輝いた。


「え。これ、わたしも食べていいやつ?」


「当たり前でしょ」


 というか、彼女がいるからちゃんとしたものを作ったのだ。

 席についたいばらが、ぽそりと呟く。


「ちゃんとした朝ごはん食べるの、いつぶりだろ」


「普段はどうしてるの?」

 

「パン食べてる」


「他には?」


「他って?」


 ええ……育ち盛り……。


「あ、バターは塗ってるよ」


 保護者の怠慢、というのは酷だろう。

 そもそも、親元を離れて従姉妹と暮らしている理由もよくわからない。

 何か言ったほうがいいのだろうか。でも、思い返せば私だって学生時代はこんな感覚だった気がする。食事に気を使うようになったのはいつからだったか。


「食べよ、お姉さん」


 ふにゃりと笑う。どうも私は、この顔に弱い。

 向かい合ってテーブルに座る。

 改めて考えてみる。

 この状況はいったいなんなんだ。

 入ったこともなかった喫茶店で、昨日知り合ったばかりの女子高生と一緒に寝て、起きて、朝ごはんを作って食べて。

 平日の朝から私はいったい、何をしているんだろう。


「このサンドイッチうまっ」


「……よかったね」


 美味しそうに食べるな、この子。表情も豊かで可愛らしい。

 ただ、クマの浮いた目だけはずっと半目のままだけど。


「あの、ひとつ聞いてもいい?」


「なに、お姉さん」


「昨日、ちゃんと眠れた?」


「うん。寝れた寝れた。ちょー寝れたよ」


 と言って、三本指を立てる。


「三時間だけ?」


「違う違う。三時間も、だよ」


 三時間は、『も』ではないと思うけど。


「こんなに眠れた夜なんて、何ヶ月ぶりかわかんない」


「……そうなんだ」


 よかったね、というべきだろうか。

 よく見れば、いばらの目の下の隈も、昨日よりほんの少し薄くなったように見え……なくもない。

 元気そうなのは確かだ。ならいいのか。


「お姉さんのお陰だよ」


「なにもしてないけど」


「一緒に寝てくれたじゃん」


「それだけでしょ」


「それで充分」


 いばらが、口の端についたソースを指で拭った。


「それだけで、充分。だってわたし、眠れたんだもん」


 長い睫毛の底に、薄く透明な膜が張っていた。


「わたしが今、どれだけ嬉しいか。どれほど、神様に感謝してるのか。きっとお姉さんには、わっかんないんだろうなぁ」


 そんなことを言われても。

 ……なんというか、困る。

 道端で財布を拾った相手に泣かれたら、誰だって困ると思う。そういう感じだ。

 こういう気持ちを、「面映い」なんていうのだろうか。

 

 朝食を終える頃には、六時半を過ぎていた。


「私、そろそろ帰るよ。今日も会社だから」


「うん。後片付けは、わたしやっておくから」

 

 ハンドバックを手に、席を立つ。

 喫茶店の入り口へ向かう足取りが、ほんの少しだけ重い。

 会社に行くのが憂鬱だから?

 それもある。

 だけど、きっと、それだけじゃなくて。

 今、後ろ髪を引かれるような気持ちでいるのは。


「お姉さん」


 振り返る。

 窓から日が射して、朝のカフェを眩しく照らした。


「わたし、放課後は大体いつも、この店にいるから。また来てくれたら、嬉しい。すっごく、嬉しい」


「……いばら?」


「だから、待ってる。ずっと待ってる」


 半開きの瞳のまま、柔らかに微笑む。


「お仕事、頑張ってね。いってらっしゃい、お姉さん」

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