第五話

 変化は劇的だった。ぱぁっと光が差したみたいに、端正な顔がきらめく。

 いばらはものすごい勢いでパフェを平らげ、ぐいーっとミントの香りがするお茶を飲み干し、私の手を引いてソファ席へ連れていった。


「お姉さん、ここ。ここ座って! お高いソファだから、めっちゃ座り心地いいよ」


「ちょ、ちょっと待って」


 私はアキさんのほうを振り返った。


「あの、この店って」


「さすがに居眠りはご遠慮してもらってるかな」


 ですよね!


「ただし、いばらは別枠。客じゃないし、不眠症なのは本当だから。従姉妹としては、寝かせてやれるならどんな形でも寝かせてあげたいんだよね」


「でも、もう遅いですし。ご両親に連絡とか」


「ここの二階がその子の家だよ。私と二人暮らし中」


「おぅ……」


 そういうことか。予想外に外堀が埋まってしまった。

 なら──問題ないか。ないのかな?

 カップルシート、というやつだろうか。

 背もたれの広い二人掛けソファはいかにも高級そうなこしらえで、確かに座り心地が良さそうだった。

 加えて白いクッションが二つと、ご丁寧に毛布まで用意してある。


「さ、お姉さん。一緒にねむねむしよ」


 ねむねむて。


「言って置くけど、私は眠らないからね」


「大丈夫だよ、寝ても。朝には起こしてあげるから」


「でも、家には帰らないと……」


「この雨で?」


 窓硝子の向こうでは、まだ雨が降り続いている。傘はない。この流れで貸してくれるわけもないし。

 私は深く息を吐いて、いばらの隣に腰を下ろした。

 比較的、緩めのオフィスカジュアルを着てきてよかった。スーツだったら寝苦しいだろう。

 いや寝ませんけどね。

 さっさとローファーを脱いで、黒ストッキングだけになったいばらが言う。


「お姉さんも、靴、脱いだら?」


「……そうだね」


 確かに、どうせなら脱いでしまったほうがリラックスできそうだ。

 パンプスを脱いで背もたれに身を預けると、ふわっと背中がクッションに押し返された。

 うわやっぱり。このソファ、絶対お高いやつだ。硬すぎず柔らか過ぎず、適度な反発があって何時間でも座っていられそう。


「ふわぁ……」


 いけない。あやうく涎垂らすとこだった。

 咳払いをして言う。


「こ、こんな感じでいいの?」


「うんうん、この感じ」


 ぽすんと隣に腰掛けたいばらが、ぐっと体重を預けてきた。

 カーディガンのニット生地を通して、たおやかな人肌のぬくもりが伝わる。

 距離の近さに、ふと不安になった。


「あの……私、汗臭くないかな」


「ううん、良い匂いだよ」


 すんすんと鼻を鳴らすいばらに、否応なく頬が熱くなる。


「な、なんで嗅ぐの」


「お姉さんが聞いてきたんじゃーん」


「そうだけど……わっ」


 今度はぎゅっと腕を取られた。

 お気に入りのぬいぐるみにハグするように、ぐいぐいと密着してくる。

 レモンに似た良い匂いがした。はたしてこれは香水なのか、それともいばら自身の体臭なのか。

 耳元に吐息が触れた。


「お姉さんの匂い、わたし好きかも。眠れたの、だからかな」


「……だから、普通の香水だってば」


「あ、ちょっと待ってね。ブラ取るから」


「なんで⁉︎」


「だってワイヤー入ってて寝苦しいんだもん」


 店内には私といばら、そしてアキさんしかいない。全員女性だ。毛布もある。いやだからって。

 いばらは背中のホックを外して、器用にブラウスの中で肩紐を外した。ぺろりと裾をスカートから引き抜いて、隙間から薄緑色の布を取り出す。

 一瞬、白いお腹とおへそが見えてどきっとした。

 本当に、どこもかしこも綺麗な子だ。綺麗すぎて心臓に悪い。

 いばらは二つに折った下着をぞんざいにソファの隙間へ挟んで、肩まで毛布を被った。


「おまたせ、お姉さん」


「べ、別に待ってないけど」


「お姉さんも外す? ブラ」


「外しませんっ」


「残念」


 なにが残念なんだ。

 わかっていたけど変な子だ。行動が読めないし、理解できない。これもジェネレーションギャップの一種なんだろうか? いや絶対違うな。

 なるべくデリケートな場所に触れないよう、慎重に毛布を被り直す。

 けれどいばらときたら、そんな努力を鼻で笑うように再び抱きついてきた。

 ふにゅん、と肘の辺りに柔らかい感触が当たる。

 この子、細いくせに結構大きいな……。


「ね、ね。どうかな、お姉さん」


「ど、どうってなにが?」


「暑苦しくない?」


「あ、そっち……じゃなくて。えっと、大丈夫」


「そっか」


 こてん、といばらの頭が私の肩に載った。細い髪の毛が首筋をくすぐる。なんだか大きなぬいぐるみに抱きつかれてるみたいだ。柔らかいし。


「お姉さんも、寝ちゃっていいよ。アキさんいるから」


「い、いいよ私は」


「疲れてるくせにー」


 図星だった。

 アキさんが水道の蛇口を捻る。シンクに水が落ちる音と、かちゃかちゃ陶器が触れ合う音。

 BGMのないこの店に流れる音は、不思議と耳に心地いい。

 油断すると、本当に寝てしまいそうだ。


「……お姉さんは、さぁ」


「なに」


「どうして朝、大人しく寝かせてくれたの」


「通勤電車のとき?」


「ふつうさぁ、すぐ起こすじゃん。人の頭が肩に載ってきたら」


「別に、理由なんて……ただの気まぐれだよ」


 寝顔が可愛かったから、なんて言えるわけがない。それだけじゃないけど。

 眠れない夜の辛さは知っている。そういう日の翌朝は、許されるなら一分でも長く寝ていたいことも。

 だから。


「もう少し、寝ててもいいよって。そう言ってあげたかっただけ」

 

「ん……そか……」


「……いばら?」


「………すぅ……」


 ええええ。


「…………ほんとに寝ちゃった」


 こうして穏やかな寝顔を見ていると、不眠症だなんて信じられない。

 そっと前髪に触れて、目に入らないよう横に流してやる。気持ち良さそうに寝ちゃってまあ。

 安らかな寝顔を見ていると、ふつふつとひとつの感情が湧き上がってくる。

 正直、認めたくない。

 絶対、認めたくないけど──この子、かわいいなぁ!

 規則正しい寝息に導かれるように、とろとろと睡魔がやってくる。

 誰かと寝るなんて久しぶりだ。どうしてこんなことになってるんだっけ。

 あー、ダメだ。もう頭が回らない。

 このまま寝落ちしても大丈夫かな。化粧も落としてないのに。

 まあいいか。少しだけなら。

 十五分──ううん、三十分だけ。

 瞼が落ちる。意識が微睡に溶けていく。

 窓の外に降る雨音が、初めて優しく聞こえた。

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