第四話

「盛り上がってるとこ、ごめんね。カフェインレスコーヒーとホットサンド、あとパフェとかお待ちどうさま」


 ふわっと香ばしい匂いが立ち昇り、たちまち私の意識は皿の上に引き寄せられてしまった。

 注文したメニューが、次々とテーブルへ並べられていく。

 白い湯気をくゆらせたコーヒー。三角にカットされたホットサンド。

 茶葉の入った透明なポットと、ティーカップ。背の高いグラスに盛り付けられたパフェ。

 中でも目を惹くのは、やっぱりパフェだ。

 あれは……柿だろうか。

 最下層から順番に、オレンジ色のジュレ、薄黄色のムース、ダイスカットされたサツマイモ、巨峰、シャインマスカットと続き、その上に容赦なく生クリームが絞られている。

 トッピングされているのは、カットされた柿と、宝石みたいに輝くマロングラッセ。さらに薄いチョコレートが添えられていて、なんというか乙女心としか言えない部分がくすぐられてしまう。

 こちらを見つめる視線に気づいて、ハッとした。

 なんとも底意地の悪い上目遣いで、いばらが問いかけてくる。


「お姉さんも、パフェ食べる?」


「いい、いらない」


「えー。アキちゃんのパフェ、美味しいのに」


 それは見れば分かる。

 でも、私は大人だ。いい大人は夜にパフェを食べない。多分。

 それに、私のホットサンドも負けず劣らず魅力的じゃないか。

 きつね色の焦げ目のついたパンの切れ目から顔を出す、とろり溶ろけたチェダーチーズとたっぷりのパラストミハム。思わず生唾を飲み込んでしまう。


「いただきます」


 耐えきれずに、手を伸ばして齧り付く。

 ひと口目から、濃厚なチーズの旨みがガツンと脳を揺らした。空っぽの胃袋に響く、間違いのない旨さだ。

 そして、ハム。幾重にも重なったパラストミハムの肉感と、ピリッとスパイシーな粒胡椒の刺激。

 ひと口ふた口と食べ進めると、刻みピクルスが出てきて、これがまた良い。ほどよく酸っぱくて口の中が爽やかになるし、コリッとした食感が楽しい。

 まとめると……すごく美味しい。

 あまりに美味しくて、夢中で食べ切ってしまった。

 ハッと顔を上げると、対面に腰掛けたいばらが、にやにやからかうような笑みを浮かべていた。


「お姉さん、お腹空いてたんだね」


「……だって、残業だったから。晩ご飯の時間もなかったし」


 言い訳のように呟いて、コーヒーカップを手に取る。

 一口すすって、驚いた。これまた美味しい。


 普段、カフェインレスコーヒーには物足りなさを感じることが多かった。なんとなく薄くて水っぽいのだ。主成分であるカフェインの含有量を抑えているのだから仕方ない、それが当たり前だと思っていた。

 でも、このコーヒーはすごく美味しい。鼻に抜ける香りも苦味と酸味のバランスも、私の好みにぴったりハマる。

 カウンターの奥で、アキちゃんと呼ばれていたマスターが得意げな顔をした。


「うちは深夜営業のカフェだから、カフェイン抜きのメニューにも力入れてるんだよね」


「深夜って、何時までやってるんですか?」


「営業時間は、夕方十八時から二十四時まで」


「すごい。なんだかバーみたいですね」


「かもね。ひとつくらい、こういう店があってもいいでしょ。この辺は治安も良いし」


 笑うアキちゃん──アキさんは、静かな慈愛のようなものを湛えていた。

 夜に身を置く場のない人のための避難所。ここはそういう場所なのかもしれない。

 ぼうっとアキさんを見ていると、急に頬を掴まれた。  

 無理やり向かされた正面で、いばらが不満げに頬を膨らませていた。


「お姉さん、よそ見しすぎ。アキちゃん美人だから見ちゃうのわかるけど。今はわたしの話、聞いて」


 そうだった。

 何の話だったっけ。そうだ。思い出した。

 不眠症を患っているいばらが、なぜか私の隣に座ったときだけ眠れたという話だ。

 そんなことある? という感想しか出てこないけれど、いばらは真剣だった。


「お姉さんがいれば、わたしは眠れる。眠れるはずなの」


 きっと、ただの偶然だ。

 普通に考えれば、それ以外にありえない。

 心因性だというなら尚更、そんなこともあるだろう。

 たまたま眠れた。

 そのとき、隣に私がいた。

 ただそれだけの、偶然だ。

 だけど、彼女はそうは思ってないらしい。

 運命、なんてあまりに大袈裟な言葉まで持ち出して、蜘蛛の糸より細い救いの手にすがりついている。

 この子は、何時間もかけて私を待っていたんだ。染みるように寒い、日の暮れた晩秋の駅で。


「いきなりホテルとか言ったのは、ごめんなさい。でも、眠りたいんだ。一晩でいいから」


 濃いクマの浮いた両目で、じっと私を見つめる。


「もし寝かせてくれるなら、わたし、なんでもするから」


 この子の抱く必死さが、やっと理解できた。

 眠れなくて、辛いんだろう。きついんだろう。

 それこそ、通りすがりの他人にすがりついてしまうくらいに。


 誰にだって、眠れない夜はある。

 寝不足の朝は本当に辛い。それが半年続くなんて、悪夢でしかない。

 こんな答えは間違っているかもしれない。二十四歳が十七歳に絆されて言っていいことじゃないかもしれない。

 でも。


「なんでもなんて、言わなくていいよ」


「え?」

 

「言っておくけど、一晩だけだからね」


 気づくと、私はそう言っていた。


「意味なんてないと思うけど……いいよ。今夜は、一緒に寝てあげる」

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